BAD DREAM
BAD DREAM
陸奥国会津藩主、松平容保は1836年2月15日(天保6年12月29日)、松平義建の六男(庶子)として生を受けた。
天保年間は、大飢饉に大塩の乱など、幕藩体制の動揺が始まり、モリソン号事件などで外国勢力の波が日本にいよいよ迫ってきた時代である。
関ヶ原以来250年間に渡って日本を支配してきた江戸幕府は、緩やかな発展と腐敗のうちに屋台骨が傾いでいた。
老中水野忠邦は厳しい倹約令で幕府体制の引き締めを図ったが、天保の改革も弥縫策の域を出ておらず、幕府財政はますます窮乏していくばかりだった。
貨幣経済の発展に土地と米に依拠する武士階級は追随できず、名家と呼ばれた大名家も商人から金を借りて、その催促状から逃げ回ることしかできなかった。
幕府の厳しい取り締まりに関わらず、経済的に成功した都市生活者(町人や商人)は爛熟した都市文化を謳歌していた。
武士は食わねど高楊枝といえば聞こえはいいが、武士の魂を質草に入れて、腰に竹光を差して滑稽なやせ我慢を演じ続けるのは、もはやファロスでしかない。
武士階級にもそうしたファロスに付き合いきれなくなった人々が現れ、鎖国という葦原の隙間から差込む蘭学知識を貪欲に吸収し、新しい価値観を創造に向けて動き出していた。
鎌倉以来800年も続いた長い長い武士の時代の終わり。
その終わりの始まりに生まれた松平容保は、徳川将軍家の一門衆として幕府の藩屏を強いられた悲劇の人として知られる。
1852年、容保は養父の容敬の死去により、会津藩の封を継ぎ会津藩主・肥後守となった。
会津藩主となった容保は若干、17歳の青年だった。
翌、1853年は幕末の号砲を告げる黒船来航があり、幕命により江戸湾、品川砲台の防備を命じられるなど、会津藩は江戸防衛の枢要を任されることになる。
これは会津藩にとって重い負担であった。
封建制における国防とは、その任に当たる藩の全額持ち出し、手弁当による労役である。
たちまち藩の財政は逼迫した。
しかし、容保は農民からの年貢増徴を進言する家臣の意見を退け、商人から多額の借り入れを行って、殖産興業政策を推し進めた。
それまで幕府や藩の推し進める殖産興業政策といえば、新田開発であった。
つまり、米=税増収政策である。
容保に言わせれば、これは愚策だった。
米が増えれば、増えるほど、米の価値は相対的に下がるからだ。
米の価値が下がるということは相対的に銭の価値があがり、米に依拠する武士は困窮して、銭を持つ商人は栄えることになる。
容保が重視したのは製糸業で、藩内の絹糸生産を厳しく統制すると同時に藩営工場を建設して、工業的な絹糸生産に乗り出した。
若松に建設された会津藩の製糸工場は近代製糸工場の体制を最初から備えており、その先進性は他の追随を許さないものだった。
容保自身が水力紡績機を設計し、工場の建設を指揮監督するなど、幕末五賢侯の一人に数えられることになる容保の才気走る若き日の業績である。
日米和親条約が締結され海外貿易が始まると会津の絹糸は飛ぶように売れた。
さらに容保は海外と日本国内の金銀の交換レートに大きな差があることを利用し、多額の為替差益を得た。
これは一種のマネーロンダリング的な手法を駆使したものであり、容保の元には幕府や大商人達から表向きには存在しないことになっている莫大な資金が集まった。
これらの資本を背景に容保は会津の工業化を推し進め、会津藩は雄藩として幕末の国政を左右するほどになった。
容保は多くの建議書を幕府に提出し、日本の政治的、経済的な西洋化を幕府の指導によって達成されるべきだと訴えた。
究極的には藩という小さな国家を緩やかに解体し、最終的には幕府による単一の日本国統一政体を樹立することまで考えていた。
これは佐幕の極致を突き抜けた一種の幕府自己解体政策である。
当然のことながら、このような急進的な改革提言は保守派の激しい反発を買うことになり、容保は安政の大獄(1858ー1859年)にて罪状不明のまま謹慎処分となった。
その後、桜田門外の変にて大老井伊直弼が倒れると、処分が解かれ公務に復帰したが以後、容保は国政中央から距離をおくようになる。
しかし、時代は容保の思惑を無視して、彼を国政の中央へ押し上げていった。
文久2年(1862年)、容保は幕命により京都守護職に就任する。
幕末にあって京都は日本有数の危険地帯だった。
尊王討幕を叫ぶ不逞浪士による刃傷沙汰は跡を絶たず、街辻のそこかしこに生首が転がっているのは日常茶飯事だった。
幕府役人の暗殺などではもはや誰も驚かなくなっていた。
体制の動揺から朝廷の政治介入を許してしまった幕府としては、京都の政局掌握は急務であり、その土台となる基本的な治安維持は絶対に必要だった。
しかし、徳川御三家や御三卿家のみならず、他の松平一門衆はことごとく、その任を引き受けることを拒んだ。
火中の栗どころか、燃え盛る火の海に、薪を抱いて飛び込むようなものだからだ。
成功しても益がないどころか、失敗すれば責任を問われた上で、国元にまで火の粉が飛んでくるようなモストデンジャラスな危険牌である。
誰だって、断る。
容保だって、断る。
しかし、容保は最終的に京都守護職を引き受けざるをえなくなった。
当初、容保は幕府の使者に対して仮病(本当に罹患していたという説もある)を使って応対を先送りするなど、京都守護職就任を拒否する構えだった。
容保は京都守護職など水戸藩が引き受ければいいと考えていた。
実際に水戸藩は徳川御三家でありながら、尊王家であることを標榜していた。
天皇の身辺警護を喜んで引き受けそうなものである。
しかし、水戸藩はやはり徳川御三家であり、尊王派と同じぐらい幕府に義理立てる佐幕派を抱えていて、内部で激しく路線対立を繰り返していた。
幕末の水戸藩は政治的暗闘の果てに、多くの藩士が倒れ、家老や若年寄などは尽く暗殺と粛清で死に果てるという凄惨たる在り様であり、精神分裂病のごとき(分裂人格が脳内で殺し合う)様相を呈した。
国学などを弄んだ罰といえばそれまでである。
しかし、あまりにも重い罰だった。
それはさておき、容保の会津藩もまた徳川一門衆として家中に佐幕派を多く抱えており、仮病を使って対応を先送りにする容保に批判が集まった。
中には容保に諫言するとして、自害するものまで現れる始末だった。
会津藩は藩祖保科正之以来の伝統として徳川家宗家に絶対随順する会津藩家訓15ヶ条を掲げ、藩の精神的な支柱としてきた。
会津藩主松平容保は美濃高須藩から養子に入ったこともあり、佐幕派ではあったものの徳川家への絶対随順に否定的だった。
将軍後見職の一橋慶喜は京都守護職就任を拒む容保を追い詰めるために、藩祖の家訓を持ちだして会津藩を煽った。
藩論を割ることを恐れた容保は止む得なく京都守護職就任を受諾し、文久2年12月24日、会津藩兵を率いて上洛した。
以後、容保は朝廷と幕府の間に立って政治的調整に奔走する傍ら、京都の治安維持作戦を展開することになる。
京都守護職は京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、さらに幕臣からなる京都見廻組も指揮下としたが、手が足りないために数多くの外局が作られた。
その一つが池田屋事件で有名な新選組である。
新選組といえば、幕末の血なまぐさいイメージがつきまとうが、実際には過激分子の殺害に至った数は少なく、生け捕りを基本としていた。
京都守護職就任にあたって容保は治安維持部隊に殺生戒を課して過激派の取締であっても極力、生け捕りとすることを命じている。
容保は殺害に至ることでさらに過激な反発を呼び込むことを極度に警戒していた。
そのために作られた武器として有名なのが逆刃刀である。
幕末の京都で活動した会津藩士が帯びた逆刃刀は容保が課した殺生戒に基づき作成されたもので、通常の刀とは逆側に刃を帯びていた。
当然ながら殺傷能力はなく(それでも殴られれば重傷は免れないが)、生け捕りを基本とした容保の方針を反映した武器だった。
20世紀になって週刊少年漫画雑誌に、逆刃刀の使い手が活躍する剣客浪漫漫画が生まれることになるのだが、それはまた別の話である。
こうした容保の方針は手ぬるいものと幕閣から批判に晒された。
しかし容保は殺生戒を取り下げることなく、会津藩の豊かな税収を背景に大量の治安維持部隊を街辻という街辻に24時間配置するという物量作戦を展開。さらに京都市中で大量の公共事業を行って市内経済を安定させた。
結果、京都の治安は劇的に改善した。
とくに過激浪士を支援する不満分子が京都の経済的安定から減少したことが大きかった。
民生の安定こそ、治安の維持の基本であることは、言うまでもないことである。
さらに策謀渦巻く京都において容保は、
「こちらも策を弄して参りましょう」
と進言する家臣に対して、
「是非そうしよう」
と述べて、京都守護職の職権を用いて大量の個人情報を集めて、膨大な資料を編成した。
その編成方法は非常に革新的で、21世紀現在でも2割ほどの手直しが加えただけで日本政府の公文書管理規則としてそのまま使用されるほど優れたファイリングシステムだった。
集められた個人情報の管理は容保が自ら行って、政敵に対する脅迫や恫喝に使用した。
特に風紀紊乱が著しかった公家衆は、容保が一瞥くれただけで震え上がった。
それはさておき、治安の改善により、容保は孝明天皇から絶大な信頼を寄せられることになった。
容保は天皇の信頼を背景に、実弟である桑名藩主松平定敬や一橋慶喜と共に一会桑(あるいは橋会桑)という独自の権力構造を作り上げるに至る。
一会桑時代は、容保にとって権勢の絶頂であった。
しかし、同時期から容保には矛盾した行動が目立つようになる。
後に明治維新三傑の一人に数えられることになる木戸孝允(当時は桂小五郎)は同時期、京都に潜伏して討幕の地下活動をしてたが、新選組の追跡により捕縛された。
過激派の大物として斬首に処される運命にあった桂だったが、何者かの手引きにより脱獄に成功して九死に一生を得ている。
後に薩長同盟を手引した坂本龍馬も、幕末の京都において幕府の治安維持部隊の追求を免れて、地下活動を続けていた。
容保が目を光らせる京都でそれが可能だったのは奇妙な話である。
後に明らかになったことだが、容保は京都守護職として過激派を取締る立場にありながら、討幕派に肩入れし、その活動を極秘に支援していた。
その手先となったのが京都御庭番衆であったことは有名であろう。
なお、容保は京都守護職就任するまで京都御庭番衆が在ることを知らされておらず、
「本当にあったのか」
などと友人への手紙に書き残している。
その他にも、
「くノ一はいたが、回天剣舞六連はなかった」
などと意味不明な記述を残している。
それはさておき、同時期の容保の行動は矛盾に満ちており、現在でも歴史的な評価は定まっていない。
開国論者として積極的に海外貿易に関与しながら、攘夷を求める孝明天皇に対して絶対的な忠義を尽くし、禁門の変では会津軍を率いて長州軍を壊滅させておきながら、追い詰められた長州藩士の逃亡を幇助している。
一会桑として幕政に参与して幕府を機構改革して体制の延命を図りつつ、反体制派の巣窟とみなされた勝海舟の神戸海軍操練所の最大の援護者であり続け、坂本龍馬とも極秘に手紙のやり取りを続けていた。
アクセルと同時にブレーキを踏むような行為であり、意味不明である。
容保の本心はどこにあったのだろうか?
現代では、容保の真意は究極的には倒幕であったとするのが通例である。
しかし、彼自身の思惑とは裏腹に立場上、それを直接に実行することは不可能だった。
そのため、迂遠とも言える回りくどいやり方を採用するしかなかったと考えられている。
実際のところ、容保が本気になっていたら、京都にいた維新の志士達はたやすく壊滅させられ、薩長同盟もなく、幕府による日本支配は続いていただろう。
容保はすべてを知る立場にいたのだから、それを敢えて実施しなかったという時点で、体制内の反体制派であったことは明白である。
そして、第二次長州征伐が幕府軍の大敗で終わる中、忠義を捧げてきた将軍家茂が1866年8月29日に急死し、孝明天皇も崩御(1867年1月30日)してしまう。
第15代将軍を継いだ一橋慶喜とは意見が対立することが多くなり、容保は京都政局で孤立して指導力を発揮できなくなっていった。
また、深刻な政治的、精神的な二律背反を抱え込んでいた容保の精神と肉体は限界を迎えつつあり、起き上がることも辛い状態が続くことになる。
そのため、大政奉還(1867年11月9日)が実施され、慶喜が将軍職を返上すると
「台命(将軍の命令)を完遂せり」
として容保は周囲の慰留や制止を振り切って、京都守護職を辞職し、藩兵を率いて会津に帰国してしまった。
所謂、京都退去である。
会津藩に、この大撤退に反対するのものはいなかった。
会津藩としては、藩祖の遺訓に従って限界を超えて宗家に尽くしてきたのであり、宗家が武家の棟梁の座から自ら降りるというのなら、義理を果たしたと考えるのは当然であった。
会津藩の一方的な戦線離脱により、京都の政局は一挙に倒幕派有利となり、新政府の樹立と武力討伐を目指す王政復古の大号令(1868年1月3日)、さらに鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日 -30日)へと突入していくことになる。
鳥羽・伏見の戦いは幕府軍の大敗に終わり、徳川慶喜は部下を置き去りにして軍艦で江戸に逃げ帰るという醜態を晒した。
徳川家の威信は地に落ち、一気に幕府は崩壊していくことになる。
薩長土肥は官軍を名乗り、徳川追討の兵を挙げて東海道を東進していった。
鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の始まりなら、江戸城無血開城までは旧体制と新体制の激突であったと言える。
江戸城無血開城後、上野の寛永寺に立てこもった彰義隊を掃討して(上野戦争)からは、新体制による国内反体制派勢力の掃討戦であったと言えるだろう。
新政府軍が会津へ侵攻したのも掃討戦の一環であった。
この戦いに、会津藩は総力を挙げて徹底抗戦することになった。
所謂、会津戦争(1868年)である。
これは容保にとって、不本意なことであった。
というのも、会津藩は鳥羽・伏見の戦いには参戦しておらず、朝敵認定される理由はまるでなかったからである。
むしろ、大政奉還後の一連の動きを先読みして、会津を危難から救うために、暴挙とも言える一方的な戦線離脱を図ったのが実相であった。
容保の慧眼といえるだろう。
それにも関わらず、新政府は容保を朝敵認定し、その引き渡しを権高に要求してきたのは、京都守護職として過激浪士(維新の志士)を徹底的に取り締まってきた容保に対する逆恨みでしかなかった。
また、大久保利通は東国一の国力を誇る会津藩が、その政治経済力を以て新政府に参与することで、自分たちの地位が脅かされることを危惧していた。
それほどまでに会津藩の国力は突出していた。
会津藩の表石高は25万石でしかなかったが、容保の手腕によって産業と資本の集積が進み、猪苗代湖の水利を利用した水力動力工場が稼働し、様々な工業製品を生産していた。
プロイセン軍に採用されたツュントナーデルゲヴェーア=ドライゼ銃を完全国産化していたのは、幕末においては会津藩のみである。
ボルトアクションライフルの始祖とも呼べるドライゼ銃は、あまりにも先進的過ぎてヨーロッパ諸国でさえ正しくその価値が理解できなかった最新兵器だった。
さらに会津軍は重火器として数十門のアームストロング砲に加え、最新兵器のガトリングガンを大量配備していた。
擲弾筒と呼ばれる簡易な迫撃砲さえ自作し、その軍事力は薩長土肥と同等か、それ以上と考えられてた。
さらに会津軍は鳥羽・伏見の戦いに参加していないことから、軍の主力は完全に無傷で温存されていた。
実際のところ、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が大敗したのは、最大最強の会津軍が戦線離脱していたからであり、会津が参戦していたらどうなっていたか分からなかった。
京都守護職時代に容保が集めた膨大な個人情報が流出すると困る人物がいて、容保の抹殺を図ったという説もある。
特に長州藩の井上毅(金に汚かった)などは不必要なまでに会津征伐に熱心だった。
迫りくる戦争に対して、容保の意思は非戦であった。
容保は会津が抵抗することで内戦が長引き、外国勢力の介入を招くことを極度に警戒しており、一人で全ての責任を引き受けることで、戦争を回避しようとしていた。
容保は覚悟を示すため、白装束で身を固め、断髪した上で藩士を集めた評定の間に姿を現し、静かに救国的見地から非戦の考えを述べた。
異論、反論を述べる主戦派に対しても、
「ならぬものはならぬのです」
と会津藩士であれば誰も知っている什の掟で、非戦の意思を徹底させた。
静かに澄み切った表情は、完全に死人のそれであった。
評定の間は慚愧に咽び泣く藩士の声で満ちたという。
これで戦争は回避されたかのように思われた。
しかし、容保の意思とは無関係に会津藩は戦争に巻き込まれてしまう。
容保は民衆の意思を完全に読み誤っていたのである。
というのも会津藩は他の藩とは異なり、高度な近代工業化を成し遂げており、豊かな税収があったことから、農民に対する課税(年貢)は低く抑えられていた。
どれほど低かったかといえば、一公九民であった。
他の藩はよくて五公五民で、ほとんどは六公四民、七公三民なども当たり前だった。
さらに容保は賦役(労役)のような年貢以外の税を旧弊として尽く廃止した。
裁判制度や刑罰に関しても近代化を推し進めており、会津では公平な裁判と公平な税制が確立されていたのである。
容保は藩祖の保科正之公の再来として、会津の民衆から熱狂的に支持されていた。
そして、他の藩に比べて圧倒的に低い税負担を享受してきた会津の領民にとって、新しい領主が来て、税が以前の暗黒時代に戻ることなど、到底受け入れられるものではなかった。
一旦は戦争回避でまとまった会津藩であったが、民衆の義兵運動が爆発し、志願兵が会津若松城に殺到するようになると、容保の意思に反する形で戦争準備を進めるしかなくなってしまう。
戦争回避のために容保を新政府に引き渡すと知れたら、怒り狂った民衆がどうするか分かったものではなかった。
容保と共に戦争回避に奔走した家老の西郷頼母も、ここに至っては死中に活を求める以外にないとして、奥羽越列藩同盟への加盟交渉を進めた。
義兵隊を閲兵した容保は友人に送った手紙にこう書き残している。
「如何せん(どうしてこうなった)、如何せん(どうしてこうなった)」
情けは人の為ならずというが、情けが仇になることもよくある話だった。
会津軍という中核を得た列藩同盟軍は白河口に侵攻。1868年6月10日に新政府軍から南東北の要地白河小峰城(白河城)を奪取した。
新政府軍は逆襲したが、白河城には多数のガトリングガンが運び込まれており、重防御陣地に正面攻撃する形となって大損害を出してしまう。
緒戦を制した列藩同盟軍の士気は大いに上がったが、新政府軍は執拗に白河城を攻撃し、列藩同盟軍を白河城に釘付けとした。
同時期、新政府は関東の反政府勢力の制圧にかかりきりになっていた。
新政府にとって最悪の事態とは、白河から列藩同盟軍が南下して関東の反政府勢力と結託して江戸へ逆撃することだった。
少数兵力ながらも果敢な攻撃で列藩同盟軍を白河に釘付けにした薩軍の伊地知正治の判断は完全に正しいものだった。
しかし、ガトリングガンを配備した白河城への攻撃は、新政府軍に大量の出血を強要するものだった。
伊地知は戦死し、増援にきた土佐軍の板垣退助もまたガトリングガンの弾幕の前に散ることになった。
白河城防衛に参戦した新選組の土方歳三などは薩奸の大物を討ち取ったとして大いに溜飲を下げた。
しかし、容保は勝報に接しても悄然として声もなく、伊地知や板垣の死を惜しんだという。
また、新政府軍は8月までに関東の反政府勢力を壊滅させ、関東の反政府勢力と連携して江戸を逆撃する列藩同盟の大戦略を崩壊させた。
戦術的には列藩同盟軍の勝利だったが、戦略的には新政府軍の勝利といえるだろう。
9月になると白河城は新政府軍の大軍に包囲された。
白河城攻防戦である。
守勢に回った列藩同盟は白河口に防衛線を敷き、新政府軍の北上を阻止しようとした。
そのために白河城は多数のガトリングガン、擲弾筒、アームストロング砲を据え付けられた火力要塞となっていた。
最終的に白河城攻防戦は列藩同盟軍の敗北に終わり、白河口総督西郷頼母は白河城を死守して戦死し、焦土と化した白河城は12月25日になって漸く新政府軍の手に戻った。
勝利した新政府軍だったが、これまで経験したこともない火力戦に、大量の死傷者を出しており、先が思いやられる展開であった。
新政府軍を率いる長州藩の大村益次郎は、大軍の行動が困難になる東北の厳しい冬が来る前に会津、米沢への速攻を考えていた。
白河口で三ヶ月も足止めされたことは大きな誤算だった。
しかし、早期の国内統一のために止まることが許されない新政府軍は、雪に埋まった会津若松の地へ足を踏み入れることになる。
そこで彼らは氷点下の地獄を味わうことになった。
とある兵士は、
「全ての希望は氷付き、流血はごとごとく白く染まった」
と後に冬の奥州の戦いを述懐している。
新政府軍の主力は薩摩藩と長州藩であったが、そのどちらも温かい南九州や瀬戸内、西日本に位置しており、奥州の本気の本気の厳冬というものがどういうものか真に理解しているものは一人もいなかった。
大戦略家の大村益次郎といえども、知らないものには対応できない。
そのため新政府軍は適切な冬季戦装備を欠いたままに会津へ侵攻し、凍傷と低体温症で戦う前から大打撃を受けてしまう。
峠道や街道は雪で埋まり、その中を新政府軍の輜重隊が苦労して武器弾薬燃料を運んだ。 それこそ地の利を知り尽くした列藩同盟軍にとって格好の獲物だった。
補給が欠乏し、雪の中で身動きが取れなくなった新政府軍を列藩同盟軍は迅速に包囲殲滅していった。
列藩同盟軍は、ある発明品によって驚異的な速度の雪中機動戦を可能にしていた。
それはスキーであった。
一本、もしくは二本の専用の板を両足に履き、雪上を素早く移動する手段として、スキーはノルウェーで発展した。
さらに19世紀になると欧州全域に広く普及し、人気のある冬季スポーツとなっていた。
スキーの語源もノルウェー語であり、その意味は「薄い板」である。
日本におけるスキー発祥の地は会津であった。
それも開国まもない頃に、文献知識を頼りに会津藩主の容保が自ら作したものが始まりとされている。
容保はスキーの軍事的有用性に着目し、会津藩士に心身を鍛える武芸の一つとしてスキーを奨励した。
容保自身も無類のスキー好きで、冬になると雪で埋まった鷹場にでかけてスキーを楽しんだ。
会津以外の東北各地でも、幕末にスキーが流行しており、生活の道具としてスキーはなくてはならないものとなりつつあった。
これも一つの文明開化と言えるだろう。
関東や西日本にスキーが伝播するのは、明治政府が戊辰戦争でスキーを装備した会津軍に大敗したことを教訓に軍事教練としてスキーを取り入れた後のことである。
雪に紛れるために白装束で身を固めた会津軍はスキーを駆使することで道なき道を走破し、新政府軍の側面や背面に回り込むと素早く包囲して十字砲火を浴びせた。
会津軍の雪中機動戦に新政府軍は全く対応できず、多くの部隊が包囲網の中で壊滅していった。
容保を慕って集まった民兵部隊が特筆すべき活躍を示した。
その中で最も大きな戦果を挙げたのが、「マタギ」と呼ばれる狩猟集団であった。
奥州で伝統的な狩猟業を営む彼らも戦火を前にして郷土防衛のため列藩同盟軍に参加しており、会津軍からスキーと最新式のドライゼ銃を提供され、戦場に赴くことになる。
もとより獲物を追い求めて雪の山間部を自在に駆け巡る術を心得ているマタギにスキーとドライゼ銃を渡すというのは、虎に鷹の翼を与えるようなものだった。
マタギは容保の直轄部隊とされ、各地に潜伏して狙撃兵として運用された。
新政府軍総司令官であった大村益次郎を狙撃したのもその一人で、後の調査で下平村の兵衛というマタギであることが判明している。
下平村の兵衛は、戊辰戦争以前から射撃の名手と知られていた。
兵衛はなんと300m先からの射撃で大村益次郎をしとめている。
この時、大村は前線で新政府軍を督戦している最中であった。
さらに倒れた大村に駆け寄った部下の山田顕義も、兵衛は一発で仕留めており、新政府軍の重鎮をわずか2発の弾丸で絶命させた。
総司令官を失った新政府軍は弔い合戦として大規模な掃討作戦を行ったが、雪の山林に足を踏み入れた討伐隊の尽くが眉間を撃ち抜かれて死亡した。
最初に狙撃されたのは、
「狙撃に注意しろ」
と叫んだ山縣有朋で、叫んだ次の瞬間に眉間を撃ち抜かれて死亡した。
参謀の黒田清隆は物量作戦で兵衛の潜む森を攻撃したが、1,000名の兵士が死亡し、攻撃が失敗した上に自分自身も狙撃され死亡した。
そんな化け物が存在するはずがないとして、小便にでかけた西園寺公望が寝床から厠までの10mの間に眉間を撃ち抜かれて死亡した。
下平村の兵衛の正確な戦果は不明だが、300人から400人前後が下平村周辺の戦いで死亡しており、その特徴的な狙撃から彼の手によるものだと信じられている。
冬季の会津や米沢に侵攻した新政府軍は、総司令官を失った上に壊滅的な打撃を受けて、白河口まで撤退することになった。
さらに新政府軍の悲報は続き、列藩同盟の海上補給路を遮断するために作戦行動中だった新政府艦隊が、宮古湾にて榎本武揚率いる旧幕府艦隊に奇襲され、壊滅した。
宮古湾海戦(1869年5月6日)と呼ばれることになるこの戦いは、旧幕府軍艦の回天が新政府艦隊の軍艦甲鉄に接舷切り込みを敢行するという奇襲攻撃であった。
新政府軍艦隊は陸の戦いで敗戦が相次いでいたことから士気が低下しており、回天の接舷切り込みを防ぎきれず、甲鉄は旧幕府艦隊に鹵獲された。
この勝利により、列藩同盟軍は太平洋側の制海権を確保し、大いに士気を高めた。
しかし、勝報に接した容保は奇妙なことに、言葉もなく杖代わりにしていた愛刀を取り落として、そのまま3日間、自室に引きこもった。
掃除の下人が容保の部屋を掃除した際に屑籠から、
「神は死んだ」
という意味不明ななぐり書きを回収している。
甲鉄乗員の多くが艦内白兵戦で死傷しており、その内の一人に薩摩藩士の東郷平八郎という男がいた。
長岡藩が担当する北陸戦線も会津軍の増援を受けて長岡城の奪還に成功するなど、各戦線は膠着状態に陥った。
内戦は泥沼になり、長期戦の様相を呈した。
それこそ容保が最も恐れたことであった。
プロイセンの代理公使マックス・フォン・ブラントは蝦夷地と引き換えに、列藩同盟の国家承認と武器支援を持ちかけている。
この提案を容保は絶対不可として拒絶した。
宮古湾海戦以後、容保はなりふりまわず戦争の政治的決着を図ることになる。
勝っている方が講和を求めるというのは奇妙な話であったが、容保はこれ以上の内戦継続は亡国であるとして、絶対講和路線を推し進めた。
新政府も有為な人材を多数失った上に、陸軍が壊滅し、艦隊戦力も半壊したとあっては戦争継続など不可能だった。
しかし、和平交渉は困難が予想された。
列藩同盟は勝利に湧いており、新政府は新政府で復讐に燃えていた。そもそも列藩同盟は朝敵であり、官軍が賊軍と和睦するなど政治的に不可能だった。
しかし、欧米列強の帝国主義が吹き荒れる19世紀に日本人同士が戦い続ければ、最終的には日本国の破滅しか道はない。
この困難な和平交渉をまとめ上げたのが坂本龍馬である。
薩長同盟の仕掛け人である坂本龍馬だが、その真意は平和的な江戸幕府の解体と新政体の樹立にあった。
所謂、無血革命論である。
そのため、薩長が武力討幕に傾くと坂本は日本人同士の内戦を避けるために、幕府に接近して大政奉還を献策するなどしている。
武力討幕を志向する薩長にとって坂本は目障りになり、坂本は京都の近江屋にて潜伏中に薩摩藩の主戦派に襲撃され重傷を負わされた。
この時、坂本が九死に一生を得たのは、会津藩の京都退去後も容保と気脈を通じていた京都御庭番衆による護衛があったためである。
彼らは重傷を負った坂本を匿って、替えの死体を用意するなどして情報を撹乱。薩摩藩の追撃をかわして昏睡状態の坂本を大阪まで脱出させた。
坂本が大阪で息を吹き返したのは当時の医療技術からして奇跡という他ないが、その頃には鳥羽・伏見の戦いが始まり、坂本が目指した無血革命路線は破綻していた。
その後、坂本は大阪城から徳川慶喜と共に船で江戸に脱出し、師である勝海舟と共に江戸城無血開城の交渉をまとめるために奔走した。
泥沼と化した列藩同盟と新政府の戦争を終わらせられる男がいるとしたら、それは坂本龍馬を措いて他にいなかったと言える。
最終的に坂本は列藩同盟が降伏し、容保が剃髪して出家して謝罪することで、天皇が容保を赦免し朝敵認定を取り消すという形で停戦交渉をまとめることに成功する。
朝敵である以上、最低限、列藩同盟が形式的にでも降伏するという形でなければ、新政府との和平は不可能だった。
もちろん、降伏謝罪は形式に過ぎず、実質的には対等講和である。
交渉妥結に至った大きな要因は、新政府の面々が恐れていた徳川慶喜の名誉回復と政権参加を容保が全く要求しなかったことだった。
大久保利通や木戸孝允は、慶喜が新政府に参加して薩長主導の新政府が骨抜きにされ、徳川政権が復活することを極度に警戒していた。
しかし、容保は慶喜などどうなっても構わない、それどころか自分自身の進退でさえ問題ではないと公言し、大久保や木戸を驚かせた。
西郷隆盛は維新完遂のために戦争継続を叫んだが、そうなれば西郷が会津の地で狙撃され死亡することが確定的に明らかであったため、交渉から完全に除外された。
既に新政府は多くの人士を失っており、西郷まで失うわけにいかなかったのである。
また、和平交渉の過程で旧幕臣や新政府と敵対した列藩同盟の藩士も可能な限り、新政府に再雇用されることが決まった。
大久保や木戸は極度に人材難に陥った新政府を切り盛りするために、旧敵の手を借りるしかなくなっていた。
列藩同盟と新政府の和平が成立したのは、1869年6月27日のことである。
交渉中に干支が戊辰から己巳に替わったことから己巳の和約と称される。
和約成立を見届けた容保は剃髪して会津松平家の菩提寺である善龍寺に入り、俗世から離れた生活を送った。
善龍寺時代の容保は特に予定がなければ、一日中、戊辰戦争での戦死者の菩提を弔うために読経して、写経を綴り、断食を行う自罰な生活を送った
責任感の強い容保にとって己の判断誤りから会津に戦火を呼び込み、多くの若者を死に追いやったことは到底、許されるものではなかった。
容保が公職に復帰するのは、明治6年(1873年)のことである。
容保は新政府に参議として迎え入れられ、明治6年の政変で政府機能が停止しかかった明治政府の立て直しに奔走した。
しかし、政府高官としての容保は明らかに精彩を欠いており、西南戦争(1877年)において西郷の死に動揺する大久保らに対して侮蔑的な皮肉を述べるなど、投げやりな態度を隠さなかった。
西南戦争後の後始末が済むと容保は職を辞し、坂本が率いる坂本商会(のちの坂本財閥)に副社長として入社することになった。
この頃から容保は保科姓を名乗るようになり、名は雅号の祥雲を用いるようになる。
改名は新たに人生を生き直す決意を込めたものであった。
保科祥雲といえば、明治経済の巨人である。
近年、テレビやマスコミなどで保科祥雲の功績ばかりが紹介され、大名の松平容保と祥雲が同一人物であることを知らない人が多いのは残念なことである。
しかし、それほどまでに祥雲の経済的な成功は巨大だった。
現代まで続く、祥雲の功績は2つあり、一つは電力開発である。
福島県は21世紀現在でも、県内に多数の発電所を擁する電源地帯である。その始まりは祥雲が始めた猪苗代湖の水利を利用した水力発電事業に遡る。
坂本商会を通じて多数の水力発電機をアメリカから輸入した祥雲は電力事業を興し、福島県のみならず日本全国の電源開発を行って産業用電力を供給した。
日本の商用電源周波数が100V・60Hzで統一されているのは、容保が電力開発のために大量の発電機(GE製60Hz仕様)をアメリカから輸入したためである。
祥雲のもうひとつの事績は鉄道事業である。
坂本商会の鉄道事業として、容保が興したのが東武鉄道株式会社だった。
坂本商会を通じてアメリカから輸入した中古の機関車と客車を使うことでコストダウンを図った東武鉄道は運賃が安く、しかも官営鉄道と異なり全て標準軌を用いていたから輸送力も高かった。
さらに祥雲は画期的な経営手法を考案し、莫大な利益をあげた。
祥雲が考案したのは、鉄道を中心とした都市開発事業であった。
同業他社や官営鉄道は既に存在している都市同士を結んで旅客、貨物運送で利益を上げるだけの存在であった。
それに対して、東武鉄道は何もない場所に鉄道を引いて坂本商会の工場や商店を建設するなどして雇用を生み出し、住宅需要を自ら作り出しては独占的な住宅開発を行うことで莫大な不動産収入を得たのである。
官営鉄道が経営不振で立ち行かなくなると東武鉄道は払い下げを受けたちまち経営をたてなおした。
その際にレールの幅を狭軌から標準軌に改修し、東武鉄道は日本国内から軽便鉄道などを除いて狭軌を一掃した。
容保は鉄道のレールが狭軌であることを病的に嫌っており、
「狭軌死すべし、慈悲はない」
などと述べて部下を困惑させている。
1886年には東海道線を全線開通させるなどして、東武鉄道は東日本の鉄道路線をほぼ完全に独占した。
前述の不動産収入と併せて、電力王、鉄道王、不動産王の三冠王達成である。
しかし、容保は人間的な幸福からは程遠い生活を送った。
経済的な成功を重ねるにつれ、自罰癖が強まり、周囲との軋轢を齎した。
富への嫌悪感から金銭を帯びることができなくなり、自社の鉄道に無賃乗車して警察に逮捕されるなど、奇行が目立つようになる。
そのため家族とも疎遠となり、晩年は孤独だった。
最期は一切の治療を拒否して自己虐待に近い形で、1915年5月9日に容保はストレス性胃腸炎で死去した。
戊辰戦争で多くの若者を死に追いやったことを容保は最期まで悔やんでおり、自罰的生活を送ったのも犠牲者への贖罪であったと考えられている。
容保をそれほどまでに追い詰めるほど、戊辰戦争の傷跡は深いものだった。
もしも、会津戦争が発生せず、列藩同盟が早期に瓦解する形で戊辰戦争が終わっていたとしたら、明治の歩みは10年違ったと言われている。
坂の上の雲は遥かに遠かった。
坂を登る力もない極東の小さな島国の七転八倒こそ明治という時代だった。