再出発
私の手を引いて、翔は黙ったままずんずん歩いていく。
マンションではなく、どうやら駅の方へ向かっているようだった。
「ちょっと、翔っ…!どこに行くのっ」
私の問いかけにも答えず、翔は2人分の切符を買う。
終電の1本前の、ビジネスマンでいっぱいの電車に乗って、3つ隣の駅で降りた。私が以前、1人暮らしをしていた街だった。
駅を出てからもずんずん歩いていき、たどり着いたのは…私たちが出会った、あの橋だった。
翔はそこでようやく私の方へ向き直る。
「ここからもう一度、やり直したい。亜紀は誰かの代わりじゃなくて、俺にとってかけがえのない存在だから…。絶対に、失いたくないんだ」
そう言って、翔はポケットからあの指輪を取り出し、川へ向かって思いっきり投げてしまった。
「あっ!」
驚いて翔を見ると、彼は清々しいほどの笑みを浮かべていた。
「これでもう、全部吹っ切れたよ。つぎは、亜紀の番」
「え…?」
翔の指が示したのは、私のコートの右ポケット。…名刺を渡されたの、気づいてたんだ。
「もうこれ以上、俺は何も言わないから…、亜紀が決めて?これからも俺のそばにいてくれるのか、あいつのところに戻るのか…。ただ、俺が愛してるのは亜紀だけだってことは言っておく」
再び微笑んだ後、翔は黙って橋の欄干のほうを向いた。
私はコートのポケットにそっと手を入れ、さっき渡された智之の名刺を取り出し…、意を決して、ビリビリと破った。そして、橋の上から川へばら撒く。智之と…、過去と、ようやく決別できた瞬間だった。
翔の隣に並んで微笑みかけると、彼も嬉しそうに微笑み、ぎゅうっと抱きしめてくれた。私も嬉しくなってしまって、彼の背中に腕を回した。
「俺を選んでくれたって、思っていいんだよね…?」
「うん…っ。たとえ智之を失ったとしても、二度と翔に会えなくなるのはやっぱり嫌なの…。翔も私を必要としてくれるなら、ずーっと一緒にいたい…!」
彼の腕が、いっそう強くなる。今まで、必要以上にスキンシップをとるのは控えていたけど…、いまは、もっと翔にくっついていたい…――。
うちに着くと、もう我慢も限界で…、およそ1か月ぶりに亜紀と肌を重ねた。縺れるようにしながら2人でベッドに潜り、焦れながら服を脱がせ合った。しっかりと抱きついてくる彼女の腕が嬉しくて、順番なんてそっちのけで少し強引になってしまったけれど、亜紀は痛くなかったかな…。
唯子のことがあってからは、亜紀といてもなんだか落ち着かなくて、同じベッドで眠りはしても本当に寝るだけだった。そんな俺の様子も、彼女を不安にさせていた原因の1つだったのかもしれない。
腕枕をしてあげたら、亜紀は嬉しそうに笑って、俺の裸の胸にすり寄ってきた。
今までの亜紀では考えられないくらいに俺を求めて、受け止めてくれて…、愛されてるなあって、今さらながら実感した。嬉しくて、愛おしくて…、涙が出そうだ。
「…亜紀」
「んー?」
「もっと俺に、依存していいよ。もっと、甘えていいんだよ」
「え…?」
突然の言葉に、亜紀は目を丸くして俺を見た。
「亜紀も、本当は依存型なんじゃないかって…、思ってたんだ。いつもは俺と素直に仲良くしてくれるのに、…あいつに会った時だけ、過去に引きずられてる。それに、あいつの執着見てたら、亜紀はあいつとつきあってるときはクールじゃなかったんじゃないかって、気づいた。頼られたり、甘えてくる人が突然いなくなったとき、寂しくなってあんな風になる人って、けっこういると思うんだ。…あ、間違ってたらごめんね」
「…もう、翔にはぜーんぶお見通しなんだなあ。どうしてそんなに、私のことがわかるの…?」
「うーん。亜紀をよく見てるからかなあ。俺の方に伸ばしかけた腕を引っ込めたり、わざと笑うの我慢してるときとかあるよね?…まあ、そういう時は俺がオーバーに抱きしめたりしてたんだけどね」
「私ね…、あの人に依存しちゃったから、失敗したんだと思ってたの。だからもう失敗したくなくて…、翔にずっとそばにいてほしくて、あんまりベタベタしないように気をつけてた。翔が過剰だったのは、私が遠慮してる分もカバーしてたからなんだね」
くすくすとお互いに笑いあって、どちらからともなくキスをした。亜紀の前では煙草を吸わないようにしてるけど、キスしたらさすがに匂うよなあ…。なんて考えてたら、
「私、翔の匂い…好きだよ。煙草も含めて」
亜紀が微笑みながら言って、自分からもう一度キスをした。可愛すぎて、胸の奥が苦しくなる。
「じゃあ、明日の“おはようのキス”、期待してるね」
「えっ!?」
――その頃、都内のとあるビルの奥部屋では、坂上唯子が1人の男に会っていた。
「結局和解したって、どういうことよ!」
「一度は部屋を飛び出したようだったが、すぐに岡本翔が追いかけて行って、別の男と対峙した後、2人で電車に乗って川に行ったあと、マンションに戻っていった」
「川…?」
「岡本が何か小さい物を川に捨てて、たしか『これで吹っ切れた』とか何とか言ってた」
唯子は『何か』について考えをめぐらせ…、それがかつて翔に贈られた指輪であることを悟った。
「そう…。どこまでも、私の言う通りにしないつもりなのね」
男に茶色い封筒を渡して下がらせ、唯子はすぐに電話を1本かける。
「私だけど。……ええ、そう。確認なんてとらなくていいから、一気にばら撒いてよ」




