離さない
「…あの、大丈夫ですか?」
智之と知り合ったのは、私がまだ短大に通っていた頃だった。アルバイト先の書店で、具合が悪そうにしていた私に、お客さんの智之が声をかけてきたのだ。
店長不在の時間帯。小さな店には、私ともう1人のアルバイト店員(高校生)しかいなくて、休むに休めない時だった。
「はい…。少し、寝不足なだけですから。ご心配をおかけして、申し訳ございません」
そう言って、手にしていた本を棚に差そうと背伸びをしたら、智之が横からすっと手を伸ばして代わりに差してくれた。驚いて彼を見ると、「他に高いとこに立てるやつ、あるの?」と言って、にこっと微笑んだ。
それから彼は、毎日のように店に足を運んだ。ときどき「店長、この子働かせすぎじゃない?」なんて、店長に抗議したりもして、私を気遣ってくれた。私はそんな優しい彼がすごく好きで、わざとその時間にシフトを入れるようにしていたっけ。
彼と私の関係が変わるのには、そう時間はかからなかった。
7歳も年上だけど、どこか頼りなくて可愛い。私はつまらない学生生活の中で見つけた唯一の癒しに目がくらみ、彼の手に光る指輪には…見て見ぬふりをした。
彼とこの先もずっと一緒にいられるなんて、もちろん思ってなかった。そんなこと、初めからわかっていた。
彼には、帰るべき家庭がある。いつかこっそり見に行った、素敵な奥さんと小さな娘さん…。あの2人を悲しませてまで、彼は私を選ぶようなことはしないだろうし、そうしてほしいとも思わなかった。
会社と家庭。その外に、安らげる場所が欲しかった――。そう、智之は言った。私達は、まわりの人を悲しませようとも、自分たちの想いを貫こうとも思っていなかった。ただ、互いに安らぎだけを求めていた。
だからあのとき、智之が奥さんを選んだことは当然だった。とっても悲しかったけど…、でも、少しほっとしたのも事実。背徳的な思いに駆られながら過ごす日々を、終わりにすることができたのだから。
*
亜紀がコートも着ずに部屋を飛び出していくのを、俺は止められなかった。
『翔はきっと、依存する相手が欲しかっただけ』…。亜紀の言葉が頭の中を反芻し、しばらく動けずにいる。昔から依存的な恋愛ばっかりだったのは事実。亜紀はいつもサバサバしていて、俺は満たされない思いをすることもあった。
亜紀が、唯子の代わり?…たしかに、最初はそうだったかもしれない。唯子と別れたばかりで、その寂しさを埋めるために亜紀と暮らし始めた。だけど、一緒に暮らすうちに、『亜紀』っていう1人の女性に惹かれていったんだ。亜紀はもう、代わりなんかじゃない…!
「行かせないよ」
ぐいっと体ごと後ろに引かれ、気づけば誰かに抱きしめられていた。漂うのは、煙草の香り…。
「君は…」
智之が、突然現れた彼に驚いて私の手を離す。その隙を見て、翔は私の凍える肩にそっとコートをかけた。
走ってきたのか、息を少し切らしている。
「翔…、離して」
「離さない」
「離してってば!」
「絶対、離さない」
暴れるのにも構わず、翔は私を後ろから強く抱きしめたまま、少しも動かない。
「…もう不倫じゃ、ないんだよ…?翔が私を守る必要、もうないよ…?」
「俺には亜紀が必要だから。絶対に離してあげない」
いつの間にか、涙が溢れていた。
私は、翔のそばにいてもいいのかな…。翔にとって本当に、唯一無二の存在になれてるのかな。ほんとはずっと、不安だった。
――けれど。それと同時に、智之のことも考えてしまう。
彼と本当の意味で結ばれることは、決してない。そう思っていた。そんな彼が、私と一緒になるために離婚までするなんて。たとえ望んでいたことではなくても、私を選んでくれたという事実が嬉しかった。
彼の家庭を壊したかったわけじゃない。だけど、本当に必要とされたかった。誰かの代わりじゃなく、本当に私だけを。
「帰ろう、亜紀」
まだ混乱している私の肩を抱き、翔は引き返そうとした。そんな翔の目を盗み、智之は私に名刺を握らせた。驚いて振り向くと、『連絡待ってる』彼の目が、そう言っていた。