天使と悪魔
唯子の素肌に触れても、特になんとも思わなかった。むしろ、亜紀の姿を重ねた――。
俺よりずっと背が低くて小柄な彼女は、「女性」というより「妹」のような感じだった。…最初のうちはね。
だから、一緒に暮らすことに俺は何の抵抗もなかった(そもそも俺が言い出したことだけど)。あの夜、一晩中そばにいて…好きっていうより、守ってあげたいっていう思いの方が強かったんだ。
でも、一緒に暮らすうちにどんどん惹かれていって…。気づけば、めちゃくちゃ好きになっていた。
そんな彼女の肌に、初めて触れたのは――一緒に暮らし始めて、半年ぐらい経ってからのこと。抱きしめると、ほんのりと温かくていい匂いがする彼女に、俺は触れるのが怖かった。小さくて、繊細で…壊してしまうんじゃないかという錯覚にも陥った。
けれど、彼女はその細い腕で俺を包み、俺の想いを一心に受け止めてくれた。俺はもうすっかり、彼女の虜だ。
ふと、頭を過るのは…数か月前に、ホームで亜紀が会っていた男。髪型は変わっていたけど、あのとき亜紀を襲おうとしていた男だとすぐに気づいた。
その顔を見た途端、考えるより先に体が動いていた。亜紀を苦しめ、泣かせたあの男が許せなかった。けれど、必死に俺を止める亜紀を見たとき…、ああ、俺がすべきなのは仕返しじゃなくて、亜紀を守ることなんだって気づいた。俺がずっとそばにいて、亜紀を悲しませる全てのものから、彼女を守ること。
依存的な恋愛が多くて、女々しかった俺が脱皮できたのは…紛れもなく、亜紀のおかげなんだよ。
「ねえ。さっきのベッドシーン中、何を考えてたの?全然集中してなかったじゃない」
今日の撮影がなんとか終わり、着替えに行こうとしていたら、唯子に話しかけられた。唯子扮するアキと、その友人の佑人が主人公の目を盗んで一夜を共にしてしまうシーン。久しぶりに見た唯子の肌は、やっぱり綺麗だったけど、ただそれだけだった。
「…べつに。演技はちゃんとしたよ」
「どうせ、彼女のことでも考えてたんでしょ。ほんと、あんたって役になりきれないんだから」
「…小言言うために、わざわざ呼び止めたのか?」
唯子は不敵に笑い、俺の前に1枚の写真を差し出した。そこには、マンションの玄関にいる俺と…、亜紀の姿が写っていた。
「なんだよ、これ…!」
奪い取ろうとしたら、自分のガウンの中に写真を素早く挿し込む唯子。
どうして、そんな写真を…?
「そんなの撮って、一体どうするっていうんだよ」
彼女はくるっと後ろを向き、人もまばらなスタジオの奥へと歩いていく。
「おい…っ」
「橋元亜紀。23歳。千葉県出身。短期大学を卒業後、株式会社ホワイトキッチンに就職。現在は××駅構内のカフェでウェイトレスとして勤務している。住所は△△町3丁目のミントグリーン色のマンションに、俳優の岡本翔と同棲中…」
「えっ……」
「どうして、知ってるのかって?調べたからに決まってるじゃない。あなたが今、どんな素敵な女性とつきあってるのか気になってね。…まさか、ただの一般人だとは思わなかったけど。それに美人でもないし、チビで体型も普通。あんな普通の子、どこがいいんだか」
「…もういいから、狙いはなんだ」
不機嫌を露わにして問うと、唯子は突如真顔になった。
――そして、低い声で囁く。
「この写真をマスコミに流されたくなかったら、私の言う通りにして」