「彼」
「…あ」
少し重い、シルバーのジッポを見つけたのは、窓際の席だった。
煙草の甘い香りを纏わせた、彼の姿が目に浮かぶ。今日は少し、疲れてたな。
何気なく蓋を開けると、小さな紙が1枚入っていた。周りに人がいないことを確認して、そっと紙を開く。
『チェックのスカート、可愛い』
はっとして、エプロンの隙間から覗くスカートを見た。ほとんど隠れてるのに、こんなところまで見てるなんて…。
帰ったら、変態扱いしてやろうかな。
「橋元さーん!どうかしたの?」
後ろから大きな声をかけられ、びくりとしながらも紙を戻した。よく通る声の主・1年先輩の川島さんが近づいてくる。
「なんでもありません。知り合いが外を通った気がして、ちょっと見てただけです」
「ここ、この時間でも人多いもんねー。彼氏?」
とたんに彼の顔が浮かび、ぼんっと顔が熱を帯びた。いま、きっと真っ赤だ…。
「いませんよ、彼氏なんて!」
「えー?怪しいなあ。橋元さん、絶対彼氏いると思うんだけどな」
川島さんは去年、23歳で結婚した。すらっとした体型の美人で気の利く彼女は、お客さんからも人気がある。
…それに引き替え私は、身長も低くて童顔。とんでもなくブサイクなわけではないけど、特別綺麗なわけでもない。体型だって普通だ。
―――そんな私には、誰にも言えない秘密がある。
駅から徒歩10分のところにある、ミントグリーン色のマンション。6階の角部屋が我が家だ。ここに引っ越してきて、もうすぐ2年。
部屋の窓を見上げると、明かりが点いていた。もう、またカーテン閉めずに照明点けてるな。彼の癖は、何度言っても治らない。
「ただいまー」
部屋の奥に向かって声をかけると、ぺたぺたと裸足の足音が近づいてくる。
「おかえり!」
レースの暖簾の隙間から、「彼」がひょっこりと顔を出して、にっこりと笑った。
「翔、ジッポ忘れたでしょ」
「まあね。読んだ?秘密の手紙!」
「まあね」
彼に背を向けて靴を脱いでると、後ろから抱きしめられた。煙草の香りが、ふわりと私を包み込む。煙草は嫌いだけど、この香りだけは好きだ。
「もう、なによ。突然」
「3日ぶりだからね。明日も仕事だし、今夜はしっかり充電しないと」
「はいはい。でも玄関じゃなくて、せめて部屋の中にしてね」
彼のスキンシップは、正直言って過剰。最初の頃は遠慮してたのか、それほどでもなかったんだけど。
ソファに座って、彼が作ってくれていたスープをマグカップで飲む。よく煮込まれていて、野菜がほろりと柔らかい。「彼」が料理上手だなんて、きっと私しか知らないだろうな。
リビングの白いソファは、2人掛けより少し狭くて、彼と並んで座ってちょうどいいくらいの大きさ。
彼がいないとき、私は1人で座る気にはなれない。こんなこと、絶対本人には言ってあげないけどね。
「あ!今日、火曜日だよね。ドラマ始まってるじゃない」
「えー、見るの?」
少し嫌そうな彼を無視して、リモコンでテレビをつけた。
『昨日、どうして返信くれなかったの?ずっと待ってたのに』
画面の中で、ヒロインの若い女性が涙目で男性の背中を見つめている。
そして、男性がゆっくりと振り向き…
「『月子さん。あなたには、僕のような男はふさわしくない。…さようなら』」
画面の男性と、私の隣に座っている彼の声がぴたりと重なる。
―――そう。「彼」は、人気俳優・岡本翔。