【黄衣の王】
今から、およそ5ヶ月前。
まだ冬が訪れる手前の出来事。
その日の6年生の授業の中に、総合教科の一環として読書の時間が設けられていた。この授業は普通に図書館にあるような書籍を読むものでは無く、異国の本に触れることで他国の文化を肌で感じることを目的に設けられたもので、NPOの【W-Bookers】(児童への世界図書推進委員会)の会長が籠目小学校を訪れ、日本語に訳されていない世界の様々な書籍を子どもたちに紹介し、欲しい本があれば貸し出し、もしくはプレゼントされるという内容のものだった。
担任教師に紹介され、詩織たちの前に現れたW-Bookresの会長は、非常に高齢の人物だった。頭はすっかりと薄く、多少派手に感じるほどに白いヒゲを伸ばしていて、年の頃は米寿を迎えるぐらいにも見えるだろうか?しかし姿勢はピンと背筋が伸びていて、多少若向きの高級そうなスーツに身を包み、軽い動きと流暢で上品なジョークを交えた会話で生徒たちの興味を充分に惹き付けている。その不思議な魅力は子どもたちの世界の本への興味を大きく湧き立たせ、やがて会長の助手がダンボールに入れて運んできたたくさんの蔵書に群がり、楽しんでそれらをワイワイと眺めていた。
真夢も他の生徒たちと同様にアメリカやイギリスの絵本を手に取って、言葉は判らずとも興味深げに読もうと奮闘していたが、この時その子どもたちの輪から外れ、少し離れた所からその様子をポツンと見つめている生徒がいた。
それは、詩織である。
普段の詩織なら他の生徒たちのテンションに合わせ、おそらく興味深々で何冊もの本に手を伸ばしているだろう。しかし今日の彼女は本への興味がどうしても湧かないらしく、自分でも不思議に思うぐらいにテンションの低い心理状態だった。
「お嬢ちゃん。あまり本に興味が湧かないようですな。」
詩織の様子に気付いた会長は、彼女の傍に寄ると声をかけた。
「いえ・・・あの、そんなこと無いです。」
詩織ももう小学6年生なので、どのような行為が相手に失礼にあたるかは良く理解できている。だから彼女は演技でも、せっかくたくさんの本を持って来てくれた会長に報いるため、いかにも面白そうという表情を作りながら一冊の本を手に取ろうとしたが、この会長は年の功か独特の読心術を持っているようで、すぐに詩織の幼い企みに気付いていた。
「いやいや、無理することはありませんぞ。」
「いえ、別に無理なんか・・・。」
詩織は自分の行為が相手を傷付けてしまったのかもと心配になったが、会長はそんな彼女の思いを読み取ったかのようにニッコリと笑顔を浮かべると、脇に携えていたA3程の大きさの厚い茶封筒を詩織に差し出し、無意識に彼女が開いた掌の上に置いた。封筒はずっしりとした重さがあり、どうやらその中には厚手の書籍が封入されているような予測ができる。
「これは・・なんですか?」
「これはアメリカで見つけた、ちょっと変わった本じゃよ。御仁はどうやら普通の本では満足できないぐらいの深い探究心を持っている女の子のようじゃ。ワシはこの本を、深い愛着と興味を持って読むに値する者を探しておったのだが、もしかしたらお嬢ちゃんはそれにふさわしい子なのかも知れん。もし良かったら、この本を読んでみる気は無いかの?」
「でも、あたし英語とか読めないのだ。」
「本を読むに言語への理解は必要無い。本は紙面から言葉を読み取るものだが、真に優れた本は異国異語のものであっても、その意を心に直接届けてくれるもの。この中身はそういう世界でも数少ない物の中の一つじゃよ。」
そして詩織は茶封筒の封を開くと、その本の表紙をチラリと覗いた。表題は異国の語で何と書いているかは判らなかったが、表装は豪華な革張りで、その表面にはキラリと輝く黄色の印が刻まれた紋章が埋め込まれている。
詩織は絵本とは明らかに違う本の雰囲気に、どう考えても読めるレベルのものでは無いと考え、会長に断りの意を伝えようとしたが、その時この本に不思議な出来事が起きた。表がユラリと揺れたかと思うと、不意に読めなかったはずの題名が日本語として詩織の頭に理解されたのである。
その題名は【黄衣の王】
「どうじゃな?読んでみる気持ちは浮かびましたかの?」
「あ・・・はい・・・。」
そして詩織は【黄衣の王】を受け取ると、彼女の図書バッグにわざと大事そうにしまい込んだ。
その日の夜。帰宅した詩織はいつものように宿題を済ませたり夕食を楽しんだりと、普段の日常と何も代わり映えの無い生活を満喫していったが、お風呂から上がり髪を乾かしている頃に、学校での出来事を思い出した。改めて彼女が自分の勉強机を見ると、そこにはいつもより太く膨らんだ図書バッグが無造作に置かれていて、彼女がそれを開くのを待ち侘びるかのようにたたずんでいる。図書バッグの中にあるのは、あのW-Bookersの会長から預かった異様な装丁の異国語の本で、正直詩織はこの本を開くことに抵抗を持っていた。
この本の題名は【黄衣の王】。
それは異国の言葉で書き綴られているにも関わらず、なぜか彼女はその表題をスラスラと読むことができた。それは彼女には言葉にし難い異様な出来事で、小学校の中の授業の一環として手に入れた物なのだから、特に大きな警戒は持たなくとも良いものと一応詩織は理解しているものの、この本からは独特の異様な雰囲気が感じられるような気もする。それがなんとなく彼女が今まで体験してきた奇異な出来事に絡んでいるような気がして、どうにも手を伸ばしたくない感情が生まれていたのである。
しかしあの人の良さそうなW-Bookersの会長が直接詩織に薦めてくれたものなのだから、そう簡単に厚意を無下にするのも気が引ける。単刀直入に言えば、詩織はこの本をそこそこ持て余しているような状況だったのである。