ニャルラトテップ
詩織が【黄衣の王・第2幕】を手に入れてからというもの、彼女の性格と生活は大きく一変していた。かつて明るく陽気で、自分の意思をはっきりと示すことが出来た彼女の面影は、今はその片鱗すら見当たらない。あの日のケンカを境に、仲の良かった真夢には話しかけるどころか、彼女のいる方向に視線を向けることは無く、もちろん真夢の誘いに乗ることなど皆無になっている。瞳は暗く淀み、一切の笑顔は消え、その喜怒哀楽すら表情に浮かべることは無い。その暗く沈んだ状況は家に居る時も同様で、七海や母の問いかけにも一切応じず、詩織はまるで、生ける屍のような人格へと変貌してしまっていたのである。
心配した詩織の母は、詩織を病院に連れていこうとしたが、それにも応じる気配は一向に見せなかった。彼女のみならず今は七海も少し落ち込んだ状況にあるので、母の心労はかなりのものがあるだろう。詩織はかろうじて小学校には通ってはいるものの、友だちや担任の呼びかけにも反応を示さず、ただ教室の中で座っているだけの生活が続いている。
ちなみに真夢が指摘した【黄衣の王】の本は、神酒の働きかけで七海が詩織の部屋でそれを見つけ、すっかり焼却処分をしていたが、結局詩織の様子は変わっていない。
そして心配した神酒や瞬たちも下校時に詩織に会いに行ったが結果は同じで、詩織の豹変には、誰もが何の解決策も見出せないでいたのである。
そして、そんなある日のことだった。
下校時にいつものように一人でトボトボと歩いていく詩織の後ろから、こっそりと後を付ける少女たちがいた。それは神酒、香楽、真夢で、3人はなんとか詩織を元に戻そうといろいろと画策していたが良い案が浮かばず、とにかく様子を見守っていたのである。
先の見えない尾行劇は連日のように続いていて、もちろん瞬・輝蘭・七海・絵里子たちも同様の行動を繰り返していたのだが、毎日となるとそれぞれにいろいろと都合や用事もあるため、この日はこの3人の出番となっていた。
仲間たちの心配はもちろんだが、やはり一番憔悴しきっているのは真夢だった。以前から【2人1セット】の間柄は、今はもう完全に壊れきっている。真夢の心傷が深いのは誰が見てもはっきりとしていて、あの日から真夢の瞳は常に涙で充血しているような状況で、家でも一人で涙に暮れていることが多いのだと云う。ともすれば彼女は詩織よりも暗い雰囲気を振りまいているようにも見え、神酒たちは早くなんとか改善策を見つけたいと思っていた。
「今日はなんとかなるかなぁ?ミキさん・・・。」
前にはいつも待ち合わせの場所としていた白壁の通りの陰から、真夢は祈るような表情で神酒に聞いた。真夢はあれからやつれるように体重が減っていて、その姿は痛々しく見える。
「あれから1週間か・・・。判らないなぁ。なんでシオリちゃん、あんなに変わっちゃったんだろ・・・。」
「絶対【黄衣の王】っていう本のせいだよ!」
「うん。だからナミに頼んで、シオリちゃんが持っていた2冊の【黄衣の王】の本は、どっちも見つけて燃やしたんだよね。でも、それでもシオリちゃん全然戻る気配も無いし・・・。」
神酒は割りと楽観的な性格をしているので、他者からの問いかけには『大丈夫だよ』と答えることが多い。しかし今回ばかりは、どうしてもそのような返答をする気にはなれない。
真夢の瞳は相変わらず悲しみに憂いていて、何かのきっかけがあればすぐに泣き出しそうにも見える。そんな彼女を心配しながらも、神酒も香楽もとにかくどうすればいいか判らず、ただ様子を見守っていた。
しかし、その時だった。
「ん?誰か近づいてくるよ。」
香楽は詩織の方へ向け近づいてくる一つの人影に気が付いた。それはただの通りすがりの男性というような雰囲気では無く、明らかに詩織の顔に視線を向け、まっすぐに彼女に近づいていく。男はヒゲの似合う品の良い老齢の紳士だったが、この老人が詩織に近づくにつれ、神酒と香楽に大きな感情の変化が現れた。
神酒を襲う恐怖の感情と、香楽を覆う怒りの感情。
そして彼女たちがその感情の原因に気付いた時、2人の周りの景色が激変した。ふいに辺りにある全ての風景から色彩が奪われ、輪郭線が歪み、生命のある万物が映像の一時停止のように動きを止めてしまったのである。
鳥は色を失ったまま歪んだ形で空中に静止し、風や車の音は無に帰す。通りからの活気溢れる人々の息遣いは完全に気配を消し、辺りはまるで時間が失われた世界のように、全ての動きを停止してしまったのだ。
この不可思議な現象は真夢にも同様の効果を及ばせていたが、なぜか神酒と香楽の2人だけは色彩を失わず、奇妙な現象の影響は皆無だった。そしてその原因に2人の理解が及んだ時、その真相に気付いた神酒と香楽は物陰から老人に駆け寄り、威嚇するような大声で叫んだ。
神酒はその男を見た瞬間、言い様のない悪寒を覚えて全身が震え、他方で香楽は、まるで身体中が炎に包まれて燃え上がるような激しい怒りを覚えた。
確信は無かったが、彼女たちの経験が感覚として男の正体に気付かせたのである。
「やめろ!シオリちゃんに近づくな!!ニャルラトテップ!」
神酒と香楽に残る、おぞましいニャルラトテップの記憶。それは姿形を自由に変える神格のものであっても、あの忌むべき感覚はとうてい忘れられるものでは無い。かつて2人が美鷹の工事現場で出会った時のそれとは、今はどこか違った風貌ではあったが、それでも辺りに振りまく殺気のようなものを伴った異質な空気は変わっておらず、2人はニャルラトテップの脅威が詩織にまで及んでいた可能性が生まれたことに驚愕し、なんとか彼女を守ろうと詩織の傍に駆け寄った。
「まさかあんたが・・・シオリちゃんに何かしたのか!?」
恐怖感に支配されつつも詩織を抱き寄せる神酒とは対照的に、なぜか怒りの感情を爆発させた香楽。彼女は詩織とニャルラトテップの間に割って入ると、怒号の表情で老人に向けて叫んだ。
「今度こそ・・・消滅させるてやる!」
香楽の異常なまでの怒りを伴う感情の高揚は、邪神ニャルラトテップを前にしても臆することは無い。神酒はなぜ香楽がニャルラトテップに対してここまで敵対心を現すのかは判らなかったが、今は頼れるのは彼女だけだと思った。
「ほう、久しぶりだな。あの時の娘たちか。」
「ニャルラトテップ!あんた、シオリちゃんに何かしたのか!?」
「何かしたとして、どうする?」
「こうするのさ!!」




