プロローグ
銀色に跳ねる朝日の輝麟が、残雪を惜しむ風花と共に詩織と真夢の瞳に飛び込んできた!
時はいよいよ年度末を目前に控え、1年の大きな節目を迎える大事な季節が近づいている。今年の鳳町は例年に無い大雪が猛威を奮い、普段雪害にはあまり縁の無い町民たちの苦労を物語る残雪が、まだ街角のそこかしこに仄かな爪痕を残している。春を告げる3月を目の前に、本来そろそろ春の到来を告げる何かしらの予兆が町を駆け抜けるのがこの時期の恒例なのだが、今年は時折まだ僅かながらも降雪が見られ、今日も晴天ながらもチラチラと小雪が舞い、春風代わりの鳳町民のため息が吹きそうな一日の始まりとなっていた。
椎名詩織。朝霧真夢。
どちらも鳳町の籠目小学校に通う、ごく普通の小学生である。彼女たちは成長の過程の中で様々な危機や困難を乗り越えてきた経緯があるが、もうそんな2人も今は小学6年生へと成長している。かつて彼女たちが体験してきた神話の脅威は一言では語り尽くせない程に複雑で怪異なものだったが、今高校に通う神酒を初めとした諸先輩たちや、銀のネコ・ティムを初めとした人以外の心を通わせた仲間たちと共にそれらを退け、今は普通の少女としての生活を当たり前のように満喫している。
元々神酒への記憶の消失に伴い、彼女たちが通過してきた数々の超常的な体験は記憶の彼方へ忘れ去られていたはずだったのだが、あの数ヶ月前の劇的な再会が引き金となり、神酒を初めとした仲間たちの記憶は完全に復元されていた。
しかしそれが影響したのかどうかは判らないが、実はある奇妙な事が起きていた。海底都市ルルイエで2年を過ごした神酒の現地での記憶のほとんどが、あの日を境に消えてしまったのである。彼女がティムと過ごした事や、リャンの事。ドリームランドへの奇妙な旅は断片的には憶えているのだが、細かい所になると頭のモヤがかかったように記憶の映像が薄れ、特にクトゥルーとどのように精神的な対峙を行ってきたか、そして普段どのような生活を送っていたかというような内容が全く思い出せないのだ。
仲間たちの中でも特に秀でた知識と思考力のある輝蘭によると、これはおそらく以前にティムが話していた【過去の再構築】による影響だろうということだった。おそらく神酒が地上に戻ったことにより彼女の記憶が消えたのでは無く、過去の歴史がクトゥルーが存在する事により生じる矛盾を、最も地球に影響が少ない過去に作り変える【再構築】が起きていると仮説を立てたのである。再構築の引き金になったのは間違いなく神酒の帰還で、この先にどのような影響が現れるかは、輝蘭にもどうにも予想のしようが無いということだった。
しかしこの先起きるかも知れない予想外の事象を、ビクビクして待つような面々では無い。神酒は「ティムの事もリャンの事も、一番大事な事は忘れていないから、それでいいよ☆」と楽観的に捉え、結局あれから続く有り触れた日常を心から満喫し、そして季節は冬を越え、とうとう詩織と真夢にとっての『卒業』という大きなイベントを受け入れる準備へと足を踏み入れていたのである。
「マム、もう中学の制服できた?」
「昨日電話がきてね、もうお店の方で出来たって言ってたよ。シオリちゃんは?」
「アハハ・・・。実はこの前寸法合わせに行くの忘れちゃって、今日学校から帰ってから寸法合わせに行くんだ。」
詩織のトレードマークは2つのおさげに黄色いパーカー。そして独特の語尾に『のだ』を付けた言葉遣いが印象的だが、この数年の時の流れは、彼女にちょっとした変化を与えていた。元々動き易いようにといつも短めに切っていた髪を4年生の頃から伸ばし始め、『のだ』という語尾も少しずつ使わないようにと心掛けているのである。3年生の頃には仕草も行動もほとんど男の子と変わらないような彼女だったが、どこかその様子が一人の女性としての雰囲気に溢れてきて、おしとやかで知られている姉の七海と見間違うような場面も増えてきていた。
ちなみに『のだ』の語尾は、実際にはそんなに減ってはいない。
唐突だが、詩織は自分のイメージカラーは黄色だと思っている。
単純に言えば黄色、それもレモンのような淡い色では無く、どちらかというと深く濃い色彩のものが好みなのだが、なぜこの色を好きになったのかという理由は特には無い。だから彼女が使う品物には黄色をあつらえた物は結構多く、ご存知詩織のトレードマークである黄色のパーカーは似たようなデザインの物を計3着も所持していて、1週間のうちにこの3着を着回ししながら学校に通っている。またパーカーの他にもTシャツや靴下にも下地に黄色を使っているものが多く、学校では一部で【イエローモンキー】というニックネームも付けられているほどだった。
詩織が女の子っぽく変化を遂げているとしても、この色の趣味には大きな変化は見当たらないが、真夢は詩織の雰囲気の変化に、もしかしたら彼女に好きな男の子でも出来たのかと一度は疑ってみた。しかし詩織と真夢は2人1セットの行動が日常のようになっていて、そのような気配がまるで無いことにも直感で気付いている。そして詩織のこの行動が姉への憧れから生まれたものだと気付いたのは、彼女たちが5年生になった頃のことだった。
ちなみに真夢の印象は、どちらかと言うと3年生の頃とはあまり変わっていない。彼女は元から大人しく控えめな性格があるので、そこに磨きがかかったと言えばいいのだろうか。
真夢は昔からピンクと青をイメージしたカラーがお気に入りで、それを反映させたセーラー服を好んで着用していたが、この感覚は今も大きく変わってはいない。ただ大好きなやんちゃ印の詩織と一緒に成長してきたのだから、昔は外見的イメージに比例した控えめでおしとやかな行動ばかりが目立っていたが、最近は稀にではあるが、どちらかと言うと詩織が驚くような大胆なことを仕出かすこともするようになっていた。
このようにいつでもお互いに引き合う詩織と真夢だが、ただ一つだけ、記憶が復元した日以来から「満たされない」と感じていることがあった。それはティムの存在である。
神酒の記憶が戻ったのだから、当然彼女たちの中には一緒にティムへの記憶も復元されている。ティムはルルイエで神酒と別れた際に、彼が「ちょくちょく遊びに行くよ」と言っていたことははっきりと憶えていて、詩織も真夢も毎日その日が来ることを楽しみに待ち侘びている。もちろん相手が【クトゥルー】なのだから、そう簡単に事が済むとは2人とも思ってはいないのだが、やっぱりティムがいないと何か物足りない。
以前にずっと一緒に暮らしていたことを思い出すと、何かえもいわれぬ寂しい思いが、どうしても心をよぎってしまうのである。
「マム。今日学校終わってから、何か用事ある?」
「ゴメン、シオリちゃん。」
あと残るところ約1ヵ月となった母校・籠目小学校の校門の前で詩織が真夢の今日の予定を聞いたところ、彼女は詩織の前で両手を合わせ、苦笑いしながら頭を下げた。
「今日ね、ピアノの発表会がもうすぐだから、臨時でピアノのお稽古に行かなくちゃいけなくなったの。」
「あ〜そうか。確かマムのピアノ発表、今週の日曜日だったもんね。」
「ゴメンね〜、シオリちゃん。今日は本当はせっかくどっちも習い事が無くて、一緒に遊べる日だったのに。」
「気にすること無いよ。マムのピアノ発表、三世鶏文化会館だったよね。絶対に見に行くから☆」
「うん!マムがんばる!」
もちろんこの程度のことで、どちらも気を悪くするなどということは有り得ない。その辺りの気心はお互いに深いところまでよく理解しているので、すぐに2人は昨日のテレビの事や朝ご飯のことなど、取るに足らない話題に花を咲かせながら、キャアキャアと校門をくぐっていく。
そしてこの様子を、少し離れた場所から笑顔で見つめていた者たちがいた。
「あ〜、もうすぐあんな様子も見れなくなっちゃうのか。ちょっと感傷的になっちゃうね。」
「そうですね。あんなに小さかった2人が、もうすぐ中学生になるなんて。少し信じられないような気もしますね。」
「あたしたちの小学生の時の卒業式のこと、憶えてる?」
「はい。あの時は、本当にいろいろな事がありましたね・・・。」
詩織と真夢の登校の様子を見守っていたのは、神酒と輝蘭だった。
2人は通う高校が違うためにあまり朝に一緒に行動することは無いのだが、年度末の期末試験が早い段階で終わり、また学校の先生方の対応が滑り止め受験に向かう最上級生へ追われてしまうため、在学生の授業が散発的になり時間に余裕ができ、ゆっくりと一緒に逢おうという話になっていたのである。
神酒の高校への通学路の途中にある籠目小学校付近で出逢った神酒と輝蘭は、詩織と真夢を偶然見かけ声を掛けようと思ったが、2人の微笑ましい情景になんとなく声を掛けそびれ、結局ただ見守るだけにしていたのだった。
笑顔ではしゃぎ、小学校の門を楽しそうに駆け抜けていく詩織と真夢。
その無邪気な情景に、神酒も輝蘭も、かつての自分たちの姿を想い重ねていた。
「・・・行きましょうか、ミキさん。」
「・・・うん、行こうか。」
2人は共に並んで歩き出そうとしたが、ふと同時に立ち止まり、そして多くの思い出が残る小学校をもう一度だけ振り返った。
どこかから聞こえる、楽しかった時の終焉を告げるような鐘の音。
神酒と輝蘭には忘れられない記憶となった卒業の日の思い出。
もうすぐ詩織と真夢に訪れるその良き日は、2人の心に何を残してくれるのだろう?