うたい続けないと死ぬ小鳥
まっくんが倒れて以来、彼と顔を合わせた時の第一声が『まっくん、ご飯食べてる?』になった。
初めて聞いた時、サクちゃんとユキくんは笑い転げていたけど。
毎日顔を合わせられるわけじゃないんだから、結構私としては真剣で。
「大丈夫、昨日はちゃんと食った」
「今日は?」
「えーっと。昼、一緒に食ったよな? JIN」
「ん? それ、俺じゃないし」
「まっくん?」
「わかった、この後。食べに行こう、な?」
なんて、会話をしては、亮くんに生暖かい目で見られる。
そうこうしているうちに、二十九歳の誕生日を迎えて。
あー、まっくんと十年付き合ったんだなーなんて、感慨深く思ってみたりしているところに、真紀が結婚退職するって話が聞こえてきた。
そうか、両親がうるさく言ってくるはずだ。そんな歳、なんだ。
私、まっくんとこの先、どうしていけばいいんだろう?
他の人、なんて考えられない。
両親に『紹介しろ』って言われたら、胸を張って連れて行く。
ご飯、食べないけど。
音楽馬鹿だけど
私にとっては、世界一の彼氏。
でもなぁ。
結婚、ってなると……うーん。
まっくん、家庭に納まる人、かなぁ?
家庭に縛り付けていい人、かなぁ?
それに、夫婦、になったら、将来的に子供って話も出てくるだろう。
そんな時、まっくんの収入で生活できるの?
ああ、そうか。
悦ちゃんや、他の彼女たちが付き合いに二の足を踏んだのは、ここか。って
この歳になって、初めて気づいた。
送別会、ではないけど。真紀と予定をあわせて、ご飯を食べに行った。
彼氏との出会いから始まって、のろけなんだかなんだかわからない話を聞きながら、ピザを齧る。
「ゆりちゃんはー、あのギタリストさんと、結婚しないのー?」
「うーん。どうなんだろ」
「他人事みたいだねー」
って言いながら、もう一切れピザを取り分ける。
「他人事っていうかね。家庭に納まる人じゃないだろうなって」
「芸のためなら、って、女房を泣かしそうな人?」
「それは無いと思うけど。女房のために芸を捨てたら、生きていけなくなりそうな人」
うーん。って言いながら、真紀がワインを口にする。
意外とこの子、呑み助なのよね。
『この店に来たなら、これ、頼まなきゃー』とか言って、ハーフボトル注文してるし。
「正直言って。彼の収入で生活できるかって言ったら、不安だし。でも音楽以外では生活できない人だし」
「だったらー、捨てさせなきゃ、いいんじゃないのー?」
「へ? なに?」
酔ってるのは、私か真紀か。
「だから。音楽を捨てさせないようにー、ゆりちゃんががんばればー? 一緒に居たいんだったら」
「がんばる? 私が?」
「そーだよー。歌わなきゃ死んじゃう小鳥を好きになったなら、歌わせ続けてあげれば良いんだよー」
真紀は酔いを感じさせない、まっすぐな目で私を見た。
「なんか、すごいこと言ったわね」
「うふふふ。最近読んだ本の、受け売りー」
まさか、リアルにそんな話があるとは思わなかったー。とか言いながら、ワインのお代わりを注いでいる。
「ゆりちゃんも、飲む?」
「私は……やめとく」
「そう?」
「うん。あんまり飲むなって言われてるし」
「守るんだー。ゆりちゃん、かーわいい」
さっきの”すごいこと”を言ったのとは同一人物とは思えないようなことを言いながら、真紀がグラスに口をつける。
「ゆりちゃん。彼が見てないところでも言いつけを守っているのはー、それだけ彼の事を考えている証拠だと思うよー」
別れ際に、そう言って。
真紀は、一足先に大人になったような顔で手を振った。
まっくんはこの先、どうするんだろ?
私はこの先、どうしたいんだろ?
通勤の電車の中。
食事の支度中。
一緒のベッドで眠るまっくんの顔を見ながら。
何度も考えては、答えも出ずに、時間が過ぎる。
三十歳だよ、まっくん。次の誕生日は。
私がそんな事を考えているとは気づいてもないだろう まっくんは、相変わらず、時々ご飯を忘れながらも元気にギターを弾いて、曲を作って……している。
地道に売れてきているらしくって、バイトはやめて音楽一本で生活をしている。
そして、私も。外科病棟のチームリーダーを任されるようになった。
「練習の成果がでたな」
『リーダーになった』って、報告したときのまっくんの一言目がそれだった。
「練習?」
「忘れたか? 社会人になってすぐに、大泣きしただろう?」
ああ。あった。って言うか、やった。
あれは、今思うと結構危険な体験だった。
「あの時は、お世話になりました」
冗談めかして、頭を下げる。
「電話、貰ったときは何事かと思った。初めてかけてきた電話がアレって、なかなか無いぞ」
「すみませんねー」
「でもな、あれで ゆうりちゃんの弱さが判った気がしたから、まあいいかって思ってる」
「弱さって?」
「お前、気が強いようでいて、芯に柔らかい部分を持っているんだよ」
「柔らかい、かなぁ?」
「音楽が体に毒になるくらいには、柔らかいんじゃないか」
「そこ?」
「うん、そこ」
スプーンですくったグラタンにフーフー息を吹きかけながら、まっくんが笑う。
「それがわかったから、でも無いけど。一生かかってでも由梨の毒にならない曲、作れたらいいなっていうのが、俺のひそかな野望」
「しゃべったら、”密かな”じゃないと思うけど?」
「そうか?」
「そうでしょ。誰にも言わないから”密かな”野望じゃない?」
「うーん。由梨は、もう俺の一部だからいいと思うけど」
「勝手に一部にしないでくれる?」
「じゃぁ、全部」
「訳、わかんない」
いつもの口調で、やり返して。
心の中では思ってた。
私がまっくんの全部だって言うなら
その証をちゃんと見せてよ。
結局、ずるずると日が過ぎて。真紀の退職から、二年が過ぎようとしていた秋の事。
ひとつのニュースが舞い込んできた。
織音籠の曲がCMに使われる事になった。
ギャラがどうとか、契約がこうとか。部外者の私には計り知れない事だけど。まっくんたちは、とても喜んでいた。
その表情を見ていたらわかる。
彼らは、またひとつ、階段を上った。
『歌い続けないと死んじゃう小鳥なら、歌わせてあげればいいじゃない』
真紀の言葉がふと、浮かぶ。
そうか。
彼が、音楽を続けるのに。
私の人生を音楽の神様に捧げたらいいのか。
子供とか、結婚とか考えずに。
”彼の全部”でいればいいのか。
何か、を悟った気がした。
「由梨、結婚してくれるか?」
人が悟りを開いた、っていうのに。この馬鹿は。
『今から行く』って電話をしてきて。顔を合わせるなり言うこと? それって。
「何で、いきなり」
「うん。織音籠、これで何とかやっていける自信が付いた」
「自信なかったんだ」
「俺、一人なら、何とかなるだろうけど。由梨と結婚して、生活を作れるか、不安だったから」
「まっくんの、ばーか」
泣きそうになって、鼻声になるのが分かる。
「自信、持てないままだったらどうするつもりよ」
「いつかは、って思ってたから、大丈夫」
「大丈夫、じゃないの。分かってる? 子供生むのに、女はリミットがあるのよ!」
「……遅かった?」
心配げに覗き込んでくる。
「まだ、間に合うけど。でも、でも、”いつまでも”は待てなかったわよ!」
「待てずに、どうする気?」
「どうしてやろうかしら」
どうにも出来ずに、悩んでたっていうのに。
「もっと、甲斐性のある男に乗り換える、とか?」
気弱なことを言うまっくんを、必死で睨む。
「乗り換えて欲しいわけ?」
「そんなわけない。何年かかったか分かってるか。他のやつに譲るわけないだろ」
「何年、って。私のほうこそ、何年、待ったって思ってるのよ」
「……ごめん」
ささやくように謝りながら、かさついた手が首筋を抱き寄せる。体勢を崩すように、抱き込まれる。
「ゆ・う・り。音楽以外、何も判ってない俺だけど。一緒にいてくれるか?」
耳元で、声がする。
「まっくんが音楽以外判ってないのは、じゅーぶん知ってる」
「夫にするには、やっぱり拙いかな?」
「どこがまずいのよ。世界一の人だわ」
「本当に?」
「ああー、もう。ご飯も食べない音楽馬鹿だけど。私の正しい名前も弱いところも、世界の誰よりも私の全てを知ってるのは、まっくんでしょうが!」
一緒にいて欲しいのは、私のほうよ。
『ゆうり』って呼んで欲しいのは、まっくんだけだよ。
「よかった」
腕が緩んで、まっくんが顔を覗き込んできた。
互いの顔が近づいて。
この十年、何度も重ねた唇が触れ合う。
「ご飯も水も睡眠も欲しいと思った事のない俺が、ずっと心の底から欲しかったのは、音楽と由梨。この二つだけだよ」
わずかに離れた彼の口から、ささやく声。
まっくんの、ばーか
註 ”最近読んだ本~”= ハヤカワ文庫 グイン・サーガ (栗本薫)より