婚約破棄は今夜23時の緊急修繕のあとにしてください、殿下
「門を開けろ。今夜、あの門の中で、お前との婚約を破棄する」
午後七時。転移門保守室の扉を蹴り開けて、ラウレンツ第二王子殿下はそう言った。
私は工具台から顔を上げた。手元には第三照合石の拡大図。壁の時計は、緊急修繕の開始まで残り四時間を指している。
「お断りします」
「なんだと?」
「婚約破棄は、今夜二十三時の緊急修繕のあとにしてください、殿下」
殿下の背中から、桃色のドレスがひょこりと覗いた。コレット・ベルナー男爵令嬢だ。殿下の腕にしがみついたまま、潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。
「ひどいですわ、ミレイユ様。殿下とわたくしの真実の愛を、修繕なんて言葉で邪魔なさるなんて」
真実の愛と修繕は、たぶん同じ秤には載らない。
私は拡大図を裏返し、二人に見える向きで机に置いた。
「王宮の転移門は、通る人の意思を照合して動きます。行き先を本当に望んでいるかを、門が確かめるんです」
「知っている。子どもでもな」
「その照合の記録は、照合石に一時的に残り、通過が終われば消えます。――消える、はずでした」
指先で、図の一点を叩く。髪の毛ほどの細い線が、石の縁を走っている。
「三日前、第三照合石の消去回路にひびが見つかりました。今の門は、前に通った人の記録を消しきれません。次に通る人の照合に、前の人の記録が混ざります」
「だから何だ」
「門前宣誓をなさるおつもりでしょう」
殿下の眉がぴくりと動いた。図星らしい。
門枠の内側で立てた誓いは、照合陣が増幅し、門の記録として残る。この国では、それが王命にも並ぶ証になる。
「宣誓の言葉にも、前の人の記録が混ざります。最悪の場合――前に通った方の本音が、殿下のお口から出ます」
一拍おいて、殿下は鼻で笑った。
「知っているぞ。昨日の茶会で噂になっていた。『門が本心を暴く』とな」
そう。それが問題だった。
欠陥の報告書は、三日前に門の所管長――つまり殿下に提出してある。修繕の告示は殿下の署名待ちのまま止まり、代わりに中身だけが、茶会の噂として王宮じゅうに広まった。
慌てた宰相閣下が、今朝、決定を出した。
――今夜二十三時の修繕まで、転移門を閉鎖する。
「好都合ではないか」
殿下は胸を張った。
「門が本心を映すなら、俺とコレットの真実の愛を、門に証明させてやる。父上は北の視察で留守だ。王命の婚約を解けるのは、陛下の許しか、門前宣誓だけだからな」
「閉鎖は、宰相閣下の決定です」
「門の所管は俺だ」
殿下は懐から金の鍵を抜き、私が止める間もなく、壁の主制御盤へ突き立てた。王族鍵。所管長の権限で、あらゆる封鎖を解く鍵だ。
かちり、と乾いた音。
奥の大広間で、門が低くうなりはじめる。
私は息をひとつ吐き、作業日誌を開いた。ペン先をインクに浸し、いつもの字で書きつける。
『十九時八分。第二王子殿下、王族鍵にて閉鎖を解除。保守係ミレイユ・オルトは反対を表明』
「記録などつけて、どうするつもりだ」
「保守係の仕事です、殿下」
「――その記載に、技師長として連署する」
低い声が、扉の方から落ちてきた。
ヴィクトル・グラーツ魔導技師長。背の高い黒髪の人で、袖をまくった腕に煤の線がついている。今夜の修繕のために、地下の資材庫から上がってきたところらしい。
彼は殿下に目礼だけして、私の日誌に名前を書き足した。迷いのない、角ばった字だった。
「殿下。照合石に負荷がかかれば、ひびが広がります。修繕は朝までかかるでしょう」
「技師の分際で、俺に指図か」
殿下はコレット嬢の腰を抱き、踵を返した。
「夜会は九時、星の間だ。遅れるなよ、ミレイユ。お前にも見届けてもらわねばならんからな」
扉が乱暴に閉まる。
残ったのは、門のうなりと、インクの匂いだけだった。
「行くのか」
ヴィクトル様が、湯気の立つカップを私の前に置いた。保守室の茶はいつも渋いのに、彼が淹れると決まって砂糖が三つ入っている。
「行きます。開いた門を、操作盤の前に誰もいないまま放ってはおけませんから」
「なら俺は、二十三時の段取りを組み直しておく。予備の照合石も、もう一つ出す」
彼の視線が、私の左手で止まった。
「指輪、また外してるな」
「石が大きくて、工具に引っかかるんです」
王家から贈られた婚約指輪は、工具箱の隅で、布にくるまれて眠っている。門守りのオルト家と王家をつなぐために、三年前に陛下が結んだ婚約。その三年間、指輪はほとんどずっとそこにあった。
ヴィクトル様は何も言わず、カップの縁を指で押して、私の方へ少しだけ寄せた。
◇
午後九時。星の間は、蝋燭の光と噂話で満ちていた。
「閉鎖じゃなかったの?」
「殿下が開けさせたそうよ」
「本心が出るって、本当かしら」
大広間の奥に、白い石のアーチが立っている。王宮の転移門。向こう側は離宮の東翼につながっていて、門枠の内はいま、水面のように淡く揺れていた。
私は門の脇の操作盤に立った。作業着の上に、夜会用の外套を一枚羽織っただけの格好だ。
盤の中央に、照合石が三つ並んでいる。第一と第二は澄んだ青。第三だけが、細いひびを抱えて、ほのかに曇っている。
楽団の音がやみ、門の水面が波打った。
離宮側から、コレット嬢が現れた。わざわざ向こうへ回り、門をくぐって登場する演出らしい。桃色の裾が光の粒をこぼし、客たちがため息をつく。
その瞬間、第三照合石が、ぽうっと薄紅に灯った。
通過は終わった。普通なら、灯りはすぐに消える。
消えない。
薄紅の光は、石の奥に沈んだまま、じっとそこに残っていた。
「殿下」
私は操作盤から声を張った。
「今の記録が、消えずに残っています。今なら、まだ間に合います。宣誓は修繕のあとに――」
「黙れ、ミレイユ」
殿下は私を一瞥もせず、門枠の内へ踏み込んだ。
照合陣が足元で輪を描き、金の線が門の内壁を駆けのぼる。盤の上で、第三照合石の薄紅が、ぐっと濃くなった。
照合陣は、一度起動すれば照合が終わるまで止められない。途中で魔力を切れば、殿下の体が門の中に半分だけ取り残される。
私の手は、レバーの手前で止まったままだった。
「我、ラウレンツ・アルベルト・ヴァイスハイムは、この門に誓う!」
朗々とした声が、大広間に響き渡る。
「ミレイユ・オルトとの婚約を破棄し、ここにいるコレット・ベルナーを――」
第三照合石が、脈打った。
「――正直、お顔はそこまで好みではないけれど、王子妃の年金は魅力的ですから、我慢して――妃に迎える!」
しん、と大広間が静まり返った。
殿下の口が、開いたまま固まっている。
けれど照合は終わっていない。照合陣の金の線は、まだ門の内壁を回り続けている。
「ま、待て、今のは」
殿下自身の声は、そこまでだった。
「――ミレイユ様にいじめられたというお話は、ぜんぶわたくしの作り話ですのに――殿下ったら、一度もお確かめにならないのだもの――」
殿下は両手で口を押さえた。押さえた指の隙間から、言葉はなお漏れてくる。
「――門の報告書も、殿下が机に放っておかれたのを、わたくしがお茶会でしゃべっただけで――あっという間に広まって――殿下って、ほんとうにちょろい――」
客の誰かが、扇を取り落とした。
「――本命は近衛のディルク様ですし、ご成婚のあとは、殿下には北の離宮でゆっくりお休みいただいて――」
壁際に控えていた近衛騎士がひとり、すうっと柱の陰へ下がっていくのが見えた。
金の線が、最後の一周を終えた。
門の頂に据えられた照合灯が、ゆっくりと色を結ぶ。
白から、淡い青へ。
淡い青から、澄んだ緑へ。
――偽りなし。
「緑だ……」
「本心だと出たぞ」
「でも、あれ、殿下のお言葉じゃないわよね」
コレット嬢の顔から、血の気がすとんと落ちた。
「ち、ちがいますわ! 門の故障です! 壊れた門の言うことなんて――」
「おっしゃる通り、門の故障です」
私は操作盤から一歩出て、客たちに聞こえる声で言った。
「ただし、混ざるのは、直前に通った方の記録だけです。照合灯の緑は、その言葉が誰かの本心であることを示しています」
直前に門を通ったのは、ひとりだけだ。
大広間じゅうの視線が、桃色のドレスへ集まった。
そのとき、操作盤の上で、ぴしり、と硬い音がした。
第三照合石のひびが、髪の毛の太さから、爪の厚みほどに広がっていた。門のうなりが一段低くなり、水面のような門枠の内が、ざらりと波立つ。
照合はもう終わっている。止めていい。
「皆様、門から三歩お下がりください」
私は外套を脱ぎ捨て、操作盤のレバーに両手をかけた。
停止は七段階。一気に落とすと、門の中に溜まった魔力が逆流する。
一段。うなりが細くなる。
二段、三段。門枠の揺れが、さざ波に変わる。
四段、五段、六段。照合陣の金の線が、外側から順にほどけていく。
七段。
門の内側が、ただの夜の闇に戻った。
蝋燭の炎だけが、まだ少し揺れていた。
「……止まった」
「あの方、ひとりで門を止めたぞ」
「保守係のオルト嬢だ。三年、あの門をひとりで見てきたと聞いた」
ざわめきを割って、灰色の髭の老人が進み出た。宰相閣下だ。騒ぎを聞きつけて、執務室から駆けつけたらしい。
「閉鎖を破ったのは、どなたですかな」
私は作業日誌を開いて差し出した。十九時八分の一行と、その下の角ばった署名。
宰相閣下はそれを読み、ゆっくりと殿下へ向き直った。
「殿下。門前宣誓は、門の記録をもって成立いたします。オルト嬢との婚約破棄は、確かに受理されましょう」
殿下の顔に、ほっとした色が浮かびかけた。
「――記録の全文とともに、陛下へお届けいたします。閉鎖破りの件も合わせて」
その色は、浮かびきる前に消えた。
「ベルナー男爵家には、虚偽の申し立てについて、追って沙汰がありましょう。それと近衛隊長には、ディルクなる騎士の所在を確かめるよう伝えておきます」
コレット嬢がその場にへたりこみ、殿下は口を押さえたまま立ち尽くしていた。
私は日誌を閉じ、宰相閣下に一礼した。
「では、私は修繕がありますので」
時計の針は、十時十五分を指していた。
◇
午後十一時。地脈の潮が、いちばん低くなる時刻。
門の照合石を外せるのは、この潮の引いた数時間だけだ。潮が満ちはじめる夜明けまでに戻さなければ、門は次の新月まで眠ったままになる。
「第二も、やられてる」
照合盤の蓋を外したヴィクトル様が、低く言った。
覗きこむと、第三のひびから枝が伸びて、隣の第二照合石の根元にまで届いていた。殿下の宣誓で、記録の吐き出しに無理な負荷がかかった跡だ。
「二つ交換ですね。予備を出しておいていただいて、よかった」
「言っただろう、もう一つ出すって」
照合石を二つ替えれば、照合陣の調律も一からやり直しになる。合わせる照合点は、三百六十。
「読み上げは私が。調整をお願いします」
「ああ」
それから先は、数字と工具の音だけの時間だった。
「北東十七、偏差プラス三」
「戻した」
「北東十八、偏差なし。十九、マイナス一」
「……戻した」
ヴィクトル様の手は大きいのに、調整ねじを回す指先は驚くほど静かだった。一度で合わない点は、ほとんどない。
日付が変わった頃、彼が無言で紙包みを差し出した。中身は、厨房からもらってきたらしい黒パンとチーズだ。
「食え。読み上げの声が掠れてきてる」
「技師長だって、さっきから同じ点を二回見てます」
「見てない」
「南西四十一。二回目です」
彼は黙ってパンを半分ちぎり、自分の口に押しこんだ。
午前二時。百八十点。
工具を持ちかえたとき、ふと可笑しくなって、声が漏れた。
「変ですね。婚約を破棄されたばかりなのに、今いちばん気がかりなのが、第二照合石の座りなんです」
「知ってる」
ヴィクトル様は、手元から目を上げないまま言った。
「三年、隣で見てた。君は、いつもそうだ」
調整ねじが、きり、と鳴った。
午前三時。北西の二百十一点だけが、何度戻しても、またずれた。
「おかしい。石の座りは合ってる」
ヴィクトル様が眉を寄せる。私は照合陣の線を目でたどり、北西へ伸びる一本が、保守室の方へ引っぱられているのに気づいた。
保守室へ走る。
壁の主制御盤に、金の鍵が刺さったままだった。
王族鍵。殿下が閉鎖を破ったとき突き立てて、そのまま夜会へ行ってしまったのだ。鍵の魔力が、ずっと照合陣を引っぱっていた。
私は鍵を抜き、封筒に入れて封をした。表に『陛下への提出物』と書いて、日誌に挟む。
門へ戻ると、ヴィクトル様が盤を覗いたまま言った。
「二百十一、偏差なし。……戻すまでもなかったな」
午前四時。三百点。指先の感覚が鈍くなって、手袋を片方外した。むき出しの手の甲に、彼の手が一瞬だけ重なって、すぐに離れた。
「冷えてる。残りは俺が読むか」
「最後まで読みます。私の門ですから」
「……そうだな」
午前五時四十分。三百六十点目。
「南、零。偏差なし」
「――戻すところがない」
ヴィクトル様が工具を置いた。照合盤の上で、新しい照合石を含めた三つが、そろって澄んだ青に灯っていた。
窓の外は、もう白みはじめている。
◇
「試験通過をする」
ヴィクトル様が、まくっていた袖を下ろしながら言った。
修繕後の門は、技師が一度通って照合を確かめる決まりだ。門枠の内で、決められた試験文を読み上げる。
前にこの門を通ったのは、殿下だ。
修繕がしくじっていれば、殿下の本音が、今度は彼の口から出る。
「……私が通りましょうか」
「君は盤を見ててくれ。それに」
彼は門枠の前で振り返り、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「殿下の本音なら、だいたい想像がつく。聞いても困らない」
彼は門の内へ踏みこんだ。照合陣が輪を描き、金の線が門の内壁をのぼっていく。
私は盤上の照合石を睨んだ。
「門は正しく閉じ、正しく開く」
試験文。混ざりものは、何もない。照合石は三つとも青のまま、薄紅はどこにも灯らなかった。
肩から、すとんと力が抜けた。終わった。この門はもう、誰の本音も勝手にしゃべらせない。
日誌を開こうとして、金の線がまだ回り続けているのに気づいた。
照合陣が閉じていない。彼が、まだ言葉を続けようとしているからだ。
「ヴィクトル・グラーツは、この門に誓う」
ペン先が、紙の上で止まった。
「ミレイユ・オルトを、生涯の伴侶に望む。――三年前、この保守室で、砂糖の入っていない渋い茶を、平気な顔で飲みながら徹夜しているのを見たときから、ずっとだ」
門の頂で、照合灯が色を結ぶ。
白から、淡い青へ。
淡い青から、澄んだ緑へ。
偽りなし。
「……技師長」
声が、うまく出なかった。
「それ、試験文じゃありません。宣誓になってます」
「知ってる」
彼は門枠の内に立ったまま、まっすぐこちらを見ていた。煤のついた頬が、夜明けの光で少し赤い。
「門前宣誓は、門の記録をもって成立する。この国の決まりだ。だから、門の中で言った」
「ずるいです」
「三年待った。少しはずるくさせてくれ」
私は操作盤から手を離し、日誌を閉じた。
門枠の内へ一歩入ると、照合陣が足元で輪を広げた。新しい照合石の、混ざりもののない光。
彼の隣に並んで、息を吸う。
「ミレイユ・オルトは、この門に誓います」
声が震えたのは、徹夜のせいということにしておく。
「ヴィクトル・グラーツを、生涯の伴侶に望みます。――砂糖を三つ入れてくれるのが、ずっと嬉しかったので」
照合灯が、二度目の緑に灯った。
次の瞬間、私の体は床から浮いていた。
「ちょ、技師長!」
「ヴィクトルだ。もう技師長じゃなくていい」
彼は私を横抱きにしたまま、すたすたと門を出た。
「まず寝ろ。九時間は寝ろ。起きたら飯だ」
「日誌がまだ――」
「俺が書く」
「報告書も――」
「俺が書く。陛下への分も、宰相閣下への分も」
彼は保守室の長椅子に私を下ろすと、上着の内ポケットから小さな布袋を取り出した。
中から出てきたのは、石のない、平たい銀の指輪だった。
「工具に引っかからない。君の指の寸法は、手袋の型紙で知ってた」
「……いつから持ってたんですか」
「二年前から」
指輪は、左手の薬指に、すとんと収まった。
工具を握る形に指を曲げても、どこにも引っかからない。
「おやすみ、ミレイユ」
額に落ちてきた唇は、少しだけ煤の匂いがした。
――その朝、王宮転移門の作業日誌の最後の欄には、角ばった字でこう書かれていた。
『五時五十二分、修繕完了。試験通過、異常なし。照合灯、二度とも緑』




