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人事異動があって、人が替わった。
それだけのことのはずなのに、職場の空気は、驚くほど変わった。
「辞めれば」という声は聞こえなくなり、代わりに、
「痛いのは、辛いよね」
そう言って、笑う声が聞こえるようになった。
同情とも、理解ともつかない、柔らかい調子の言葉だった。無理に踏み込まず、無理に遠ざけもしない。その距離感が、私には救いだった。
不思議なことに、そんな時、少しだけ痛みが消えたように感じた。
完全になくなったわけではない。身体の奥に、まだ確かに残っている。ただ、全身を覆っていた重さが、ほんのわずか、薄れた気がした。言葉一つで、痛みの形が変わるのだと、そのとき初めて知った。
薬は、まだ手放せない。
朝と夜、決まった時間に飲む錠剤は、私の生活の一部になっていた。飲まなければ、どうなるのか分からないという不安が、私を縛っている。病院にも通い続けているが、先が見えるわけではない。治るとも、治らないとも、誰も断言しない。ただ、様子を見ましょう、という言葉だけが、繰り返される。
そんなある日、ふと考えた。
まだ、家族がいないだけ、私は自由なのだろうか。守るものがないから、ここまで耐えられたのか。それとも、家族がいたら、誰かが代わりに声を上げてくれたのだろうか。痛みを訴えることを、恥じなくて済んだのだろうか。
答えは、出なかった。
想像の中の家族は、私を支えることも、重荷になることも、どちらもあり得た。現実には、私には私しかいない。その事実が、寂しさなのか、身軽さなのか、まだ判断がつかなかった。
ただ、分かっているのは、痛みが少し和らいだあの瞬間、私は確かに呼吸がしやすくなったということだ。
人の言葉や態度が、身体にまで届く。その当たり前のことを、遅れて知った。
新しく来た人は、あるとき、何でもない調子で言った。
「明けない夜は、ない。そう思うよ」
それが、長い夜を越えてきた人の実感なのか、それとも、どこかで読んだ言葉を、そのまま口にしただけなのか、私には分からなかった。文学的だ、と感じたのも事実だし、同時に、そんな綺麗な言葉を信じきれない自分もいた。夜は、いつも明けるとは限らない。少なくとも、私が知っている夜は、何度も同じ暗さを繰り返していた。
それでも、その言葉が耳に残った。
残ってしまったから、私は、つい口にした。
「もう、辞めたい」
声に出した瞬間、少し驚いた。
それは、ずっと胸の奥に沈めていた言葉だったからだ。
「辞めれば、いいんじゃない?」
返ってきたのは、拍子抜けするほど、あっさりとした回答だった。
「生きてはいけるよ」
慰めでも、説得でもなかった。
生きることと、今の仕事を続けることを、初めて切り離して示された気がした。
続けて、その人は言った。
「自分は、背負うものがあるから、辞められないけど」
重いはずの言葉なのに、どうでもいいことのように言った。その軽さが、逆に本当らしかった。覚悟というより、選択の結果を、ただ受け入れている人の声だった。
「辞めても、仕事がない」
そう言ったのは、私だった。
不安というより、事実を述べるような調子だった。
「じゃあ、続けるしか、ないね」
その人は、そう言った。
その言葉は、突き放すようでいて、不思議と冷たくなかった。
選択肢がないことを認めることは、絶望に近い。けれど同時に、考え続ける苦しみから、私を少し解放した。続けるしかない、という結論は、諦めであると同時に、今日を生きるための、最低限の希望でもあった。
夜は、まだ明けていない。
それでも、続ける、という一行の選択肢が、私の前に残った。
その細い道を歩いていけるかどうかは分からない。ただ、立ち止まっていた足が、ほんの少しだけ、前を向いた気がした。
そして、現在。
私はまだ、ここにいる。
少しだけ、営業をする。
以前のように数字を追いかけるわけではない。ただ、必要なところへ行き、必要な話をして、無理をしない。その「少し」が、今の私にはちょうどよかった。
少しだけ、軽口を叩く。
場の空気を読んで、笑って、冗談めいた言葉を返す。昔なら、そんな余裕はなかった。今は、笑うことで、自分がここにいることを確かめている。
少しだけ、弱音を吐く。
全部は言わない。言えない。でも、「今日はきつい」とか、「ちょっと痛む」とか、そんな短い言葉を、誰かに向けて落とす。それだけで、身体のどこかが、わずかに緩む。
薬は、少しだけ弱くなった。
錠剤の量が減り、効き目の強さも抑えられた。それは、回復の証なのか、慣れただけなのか、分からない。ただ、飲み込むときの抵抗感が、以前より小さくなったのは確かだった。
身体は、まだ痛む。
朝、目が覚めると、どこかが重い。動き出すまでに時間がかかる。それでも、痛みは私の全てではなくなった。背景のように、常にあるが、主役ではない。
病院にも、まだまだ通うように言われている。
終わりは示されない。けれど、「続けていきましょう」という言葉が、以前ほど空虚には聞こえなくなった。
今日は、大丈夫だった。それだけで、十分だった。そして、気づけば、
「明日もきっと」
そう思える自分が、いつの間にか、ここにいた。
夜は、まだ明けない。
空は暗く、先は見えない。
それでも、いつかは明けるのだと――あのとき聞いた言葉を、今度は自分の中で、ゆっくりと噛み締めた。
光を信じているわけではない。
ただ、暗闇の中でも、歩き続けられることを、私は知った。
もし、過去に戻れるのなら、自分に言いたい。まだ壊れていないと思っている、その頃の自分に。
壊れたら、治すのは難しいんだ、と。
壊れたものは、元の形には戻らない。戻ったように見えても、どこかに歪みが残る。時間をかければ癒えると思っているだろうが、時間だけでは足りないこともある。身体は正直で、心より先に、限界を知らせてくるのだと。
逃げるのは、難しいかもしれない。
責任や期待や、「ここまで来たのだから」という言葉が、足を縛る。逃げたら負けだと、誰も言わなくても、そう思い込んでしまう。けれど、それでも言いたい。逃げることは、裏切りじゃない。放棄でもない。
それも、必要な時があるんだ、と。
踏みとどまるより、離れるほうが勇気を要する場面が、確かにある。立ち向かうことだけが、強さではない。壊れる前に、身を引くことも、選択のひとつだ。
頑張るな、とは言わない。
ただ、頑張り続ける自分だけを、正しいと思うな、と言いたい。弱音を吐くこと。助けを求めること。立ち止まること。それらはすべて、生き延びるための行為だ。
過去の自分は、きっと聞かないだろう。
それでも、私は言葉を投げる。
壊れる前に、自分を守れ。
世界は、思っているほど、君ひとりの肩に乗ってはいない。




