表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とある人の話  作者: りな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/4

4

人事異動があって、人が替わった。

それだけのことのはずなのに、職場の空気は、驚くほど変わった。

「辞めれば」という声は聞こえなくなり、代わりに、

「痛いのは、辛いよね」

そう言って、笑う声が聞こえるようになった。

同情とも、理解ともつかない、柔らかい調子の言葉だった。無理に踏み込まず、無理に遠ざけもしない。その距離感が、私には救いだった。

不思議なことに、そんな時、少しだけ痛みが消えたように感じた。

完全になくなったわけではない。身体の奥に、まだ確かに残っている。ただ、全身を覆っていた重さが、ほんのわずか、薄れた気がした。言葉一つで、痛みの形が変わるのだと、そのとき初めて知った。

薬は、まだ手放せない。

朝と夜、決まった時間に飲む錠剤は、私の生活の一部になっていた。飲まなければ、どうなるのか分からないという不安が、私を縛っている。病院にも通い続けているが、先が見えるわけではない。治るとも、治らないとも、誰も断言しない。ただ、様子を見ましょう、という言葉だけが、繰り返される。

そんなある日、ふと考えた。

まだ、家族がいないだけ、私は自由なのだろうか。守るものがないから、ここまで耐えられたのか。それとも、家族がいたら、誰かが代わりに声を上げてくれたのだろうか。痛みを訴えることを、恥じなくて済んだのだろうか。

答えは、出なかった。

想像の中の家族は、私を支えることも、重荷になることも、どちらもあり得た。現実には、私には私しかいない。その事実が、寂しさなのか、身軽さなのか、まだ判断がつかなかった。

ただ、分かっているのは、痛みが少し和らいだあの瞬間、私は確かに呼吸がしやすくなったということだ。

人の言葉や態度が、身体にまで届く。その当たり前のことを、遅れて知った。


新しく来た人は、あるとき、何でもない調子で言った。

「明けない夜は、ない。そう思うよ」

それが、長い夜を越えてきた人の実感なのか、それとも、どこかで読んだ言葉を、そのまま口にしただけなのか、私には分からなかった。文学的だ、と感じたのも事実だし、同時に、そんな綺麗な言葉を信じきれない自分もいた。夜は、いつも明けるとは限らない。少なくとも、私が知っている夜は、何度も同じ暗さを繰り返していた。

それでも、その言葉が耳に残った。

残ってしまったから、私は、つい口にした。

「もう、辞めたい」

声に出した瞬間、少し驚いた。

それは、ずっと胸の奥に沈めていた言葉だったからだ。

「辞めれば、いいんじゃない?」

返ってきたのは、拍子抜けするほど、あっさりとした回答だった。

「生きてはいけるよ」

慰めでも、説得でもなかった。

生きることと、今の仕事を続けることを、初めて切り離して示された気がした。

続けて、その人は言った。

「自分は、背負うものがあるから、辞められないけど」

重いはずの言葉なのに、どうでもいいことのように言った。その軽さが、逆に本当らしかった。覚悟というより、選択の結果を、ただ受け入れている人の声だった。

「辞めても、仕事がない」

そう言ったのは、私だった。

不安というより、事実を述べるような調子だった。

「じゃあ、続けるしか、ないね」

その人は、そう言った。

その言葉は、突き放すようでいて、不思議と冷たくなかった。

選択肢がないことを認めることは、絶望に近い。けれど同時に、考え続ける苦しみから、私を少し解放した。続けるしかない、という結論は、諦めであると同時に、今日を生きるための、最低限の希望でもあった。

夜は、まだ明けていない。

それでも、続ける、という一行の選択肢が、私の前に残った。

その細い道を歩いていけるかどうかは分からない。ただ、立ち止まっていた足が、ほんの少しだけ、前を向いた気がした。


そして、現在。

私はまだ、ここにいる。

少しだけ、営業をする。

以前のように数字を追いかけるわけではない。ただ、必要なところへ行き、必要な話をして、無理をしない。その「少し」が、今の私にはちょうどよかった。

少しだけ、軽口を叩く。

場の空気を読んで、笑って、冗談めいた言葉を返す。昔なら、そんな余裕はなかった。今は、笑うことで、自分がここにいることを確かめている。

少しだけ、弱音を吐く。

全部は言わない。言えない。でも、「今日はきつい」とか、「ちょっと痛む」とか、そんな短い言葉を、誰かに向けて落とす。それだけで、身体のどこかが、わずかに緩む。

薬は、少しだけ弱くなった。

錠剤の量が減り、効き目の強さも抑えられた。それは、回復の証なのか、慣れただけなのか、分からない。ただ、飲み込むときの抵抗感が、以前より小さくなったのは確かだった。

身体は、まだ痛む。

朝、目が覚めると、どこかが重い。動き出すまでに時間がかかる。それでも、痛みは私の全てではなくなった。背景のように、常にあるが、主役ではない。

病院にも、まだまだ通うように言われている。

終わりは示されない。けれど、「続けていきましょう」という言葉が、以前ほど空虚には聞こえなくなった。

今日は、大丈夫だった。それだけで、十分だった。そして、気づけば、

「明日もきっと」

そう思える自分が、いつの間にか、ここにいた。

夜は、まだ明けない。

空は暗く、先は見えない。

それでも、いつかは明けるのだと――あのとき聞いた言葉を、今度は自分の中で、ゆっくりと噛み締めた。

光を信じているわけではない。

ただ、暗闇の中でも、歩き続けられることを、私は知った。



もし、過去に戻れるのなら、自分に言いたい。まだ壊れていないと思っている、その頃の自分に。

壊れたら、治すのは難しいんだ、と。

壊れたものは、元の形には戻らない。戻ったように見えても、どこかに歪みが残る。時間をかければ癒えると思っているだろうが、時間だけでは足りないこともある。身体は正直で、心より先に、限界を知らせてくるのだと。

逃げるのは、難しいかもしれない。

責任や期待や、「ここまで来たのだから」という言葉が、足を縛る。逃げたら負けだと、誰も言わなくても、そう思い込んでしまう。けれど、それでも言いたい。逃げることは、裏切りじゃない。放棄でもない。

それも、必要な時があるんだ、と。

踏みとどまるより、離れるほうが勇気を要する場面が、確かにある。立ち向かうことだけが、強さではない。壊れる前に、身を引くことも、選択のひとつだ。

頑張るな、とは言わない。

ただ、頑張り続ける自分だけを、正しいと思うな、と言いたい。弱音を吐くこと。助けを求めること。立ち止まること。それらはすべて、生き延びるための行為だ。

過去の自分は、きっと聞かないだろう。

それでも、私は言葉を投げる。

壊れる前に、自分を守れ。

世界は、思っているほど、君ひとりの肩に乗ってはいない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ