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とある人の話  作者: りな


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営業成績は、優秀だった。

数字は雄弁で、私の代わりに語ってくれた。社内で表彰され、名前が掲示板に貼られ、拍手の中で立たされた。誰もが羨む目でこちらを見ているのが分かった。その視線は、誇らしさよりも、どこか居心地の悪さを伴っていた。私はただ、言われたことを一生懸命にやっただけだったからだ。

そんな時に、転属の話が来た。

理由は、期待、だったと思う。できる人間を、より厳しい場所へ――そういう論理は、会社という組織では珍しくない。直属の上司は、有名な人だった。成績も、人脈も、発言力もある。廊下ですれ違うだけで、空気が変わるような人物だった。

「頑張れよ」

「大丈夫さ」

送別の席で、そう言われた。

どちらも、間違ってはいない言葉だった。ただ、薄かった。紙の上を滑るように、私の中に入ってこなかった。励ましというより、処理のための言葉に聞こえた。

転属先でも、仕事は営業が主だった。

だが、空気はまるで違った。数字への執着が、むき出しだった。会話は短く、成果だけが評価される。私は、これまで通りにやろうとした。相手の話を聞き、間を取り、関係を築く。売る前に、まず人として向き合う。それが、自分なりのやり方だった。

しかし、そのやり方は、徹底的に否定された。

「無駄な話はするな」

「歩いて、稼げ」

「数を取れ」

上司の言葉は、命令というより、断定だった。異論の入り込む余地はなく、正解は最初から一つしか用意されていない。私は、自分が否定されているのだと感じた。やり方だけでなく、これまで積み重ねてきた時間ごと、切り捨てられているようだった。

それでも、黙っていた。

反論することで、何かが良くなるとは思えなかったからだ。黙って従えば、いずれ結果が示してくれる――そう信じていた。いや、信じようとしていた。

ただ、一度だけ、声を出した。

自分は、相手とのコミュニケーションを大事にしていること。数字だけでは測れない関係があること。そのやり方は、自分にはできないこと。言葉は慎重に選んだつもりだった。それでも、口に出した瞬間、自分が場違いなことをしているのだと悟った。

上司は、黙らなかった。

一時間以上、言葉が続いた。

それは説教でも、議論でもなかった。上から降り注ぐ、途切れない音だった。理論、実績、過去の成功例。私の言葉が入り込む余地はなく、私はただ椅子に座り、聞くための存在になった。

その時間の長さよりも、終わった後の静けさが、強く印象に残っている。

部屋を出たとき、私はひどく軽かった。何かを失ったというより、削ぎ落とされたような感覚だった。自分のやり方を守ろうとした声は、どこにも届かなかった。その事実だけが、静かに、重く、私の中に残った。

どれくらい、そこで頑張ったのだろう。

時間の感覚は、いつの間にか曖昧になっていた。月日が流れたのか、ただ同じ日を繰り返していただけなのか、自分でも分からない。気がつけば、朝が来て、夜が来る。その間を、仕事で埋めていただけだった。

ある朝、目が覚めて、違和感に気づいた。

右腕が、動かなかった。

寝違えたのだろうかと思い、肩を揺らし、腕を叩いた。つねってみても、感覚はあるのに、命令が届かない。指先は、他人のもののように静かだった。焦りよりも先に、不思議な落ち着きがあったのを覚えている。

会社には、電話をした。

「今日、休みます」

それだけを言った。理由を聞かれたかどうかは、覚えていない。上司は、淡々とした声で、病院の検査結果を伝えるように、と言った――そんな気がする。心配の色はなく、事務的なやり取りだけが残った。

タクシーを呼び、病院へ向かった。

窓の外を流れる景色は、いつもと同じなのに、どこか遠かった。待合室は混み合っていて、番号が呼ばれるまで、長い時間があった。椅子に座り、動かない右腕を膝に乗せて、ぼんやりと天井を見ていた。

検査は、次々と続いた。

レントゲン、血液、機械の音。説明を受けても、頭には入ってこない。廊下では、多くの患者とすれ違った。誰もが、それぞれの痛みや不安を抱えながら、静かに順番を待っていた。その中に、自分の居場所があるような、ないような、不思議な感覚だった。

やがて、医師から結果を告げられた。

「大きな異常は見当たりません」

少し間を置いて、続けて言われた。

「心因性から来ている可能性があります」

その言葉は、軽くも重くもなく、ただ空中に置かれた。

原因が分からないわけではないが、はっきりとも言えない。治療の説明を聞きながら、私は自分の右腕を見ていた。動かない腕は、相変わらず、そこにあった。

病院を出ると、外は昼過ぎの光に満ちていた。

世界は、何事もなかったかのように続いている。その中で、私は初めて立ち止まった。頑張った時間の長さを測る物差しは、もう持っていなかった。ただ、身体が先に、限界を告げてきたのだ――そんな気が、静かに、胸の奥に広がっていった。


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