第5話 涙の回廊
「ハノーバー伯爵令嬢、ごきげんよう」
「アリスリンデ嬢、ごきげんよう」
王宮の中を抜けるのに、いつも永遠かと思われるほど歩く。
アリスリンデは王妃のサロンを出て、長い長い回廊を歩き、いくつもの応接室がある王宮の本館にようやく戻ってきた。
王族の人々が住む居住棟は、一番奥まったところにある。
通称王妃のサロンと呼ばれているのは、王妃の私的なサロンで、非公式の催し、たとえば今日のように王妃のごく親しい人々を招いて開くお茶会などに使われる。
そんな王妃のサロンは、居住棟に近いところにあった。
アリスリンデは、ようやく王宮正面入り口脇に作られている馬車寄せに出て、侍女のノアがハノーバー家の馬車を探して戻ってくるのを待っていた。
ときおり知り合いの夫人や令嬢達に声をかけられるのに応えつつ待っていると、マグリット夫人にぱたりと出くわした。
「まあ、ハノーバー伯爵令嬢」
マグリット夫人はほがらかに笑いながらアリスリンデに声をかける。
「久しぶりね? 王妃様のお茶会からのお帰りかしら?」
「はい、マグリット夫人は———」
「今日はお約束が重なってしまって、あいにく。夫の付き添いで、国王陛下とご一緒させていただいておりましたの」
「まあ。そうでございましたか」
マグリット夫人の夫は、宰相を務めるマグリット侯爵である。
夫妻で国王に謁見というのも珍しくはないのだろう。
アリスリンデが夫人の慣れた様子に感心していると、すかさずマグリット夫人が話しかけた。
「ねえ、聞いたわよ。先ほどの王妃様のお茶会で、朗読なさったのですって?」
「はい。妃殿下のご指名で———」
「とても好評だったと聞きましたわ。ね、来週のわが家でのお茶会でも朗読してくださいませんこと? わたくし、聞き逃してしまって、とても残念に思いましたの。主人もきっと聞きたいと思うに違いませんわ」
「え、でも」
なんて耳が早いんだろう。
アリスリンデが戸惑った時だった。
「大丈夫。お願いしたい朗読のご本は、お屋敷に届けさせますから。……ご心配でしたら、少し練習もできますわ」
人当たりのよい夫人の、「ね?」という様子に、アリスリンデは断ることができなかった。
マグリット夫人と別れの挨拶を交わして、その後ろ姿を見送っていると、侍女のノアが戻ってきた。
「アリスリンデお嬢様、お待たせして申し訳ございません。さ、馬車はあちらに。お疲れでしょう? 早く屋敷に戻りましょうね」
「ありがとう、ノア」
二人が乗り込んで、従僕がていねいにドアを閉める。
馬車がゆっくりと走り出すと、ノアはアリスリンデを労るように見つめた。
「急に朗読だなんて。でも、お嬢様の朗読は、本当にご立派でしたわ」
ノアの労りに、アリスリンデは困ったように微笑む。
「ありがとう。まさかわたくしが朗読を人前で披露するなんて、思わなかったわ。それが、先ほど宰相夫人にお会いして。宰相夫人にも来週のお茶会で朗読をしてほしいと頼まれてしまったの」
「まあ……!」
ノアが両手で口もとを覆って、思わず声を上げる。
「ノア、わたくし、読書は好きだけれど、人前で朗読をするのは好きじゃないわ。しかも流行の宮廷恋愛小説なのですって」
アリスリンデの声に、深い戸惑いを感じたノアは何かを言いかけて止め、代わりに言った。
「アリスリンデお嬢様、王妃様のサロンから本館に戻る廊下は、『涙の回廊』と呼ばれているんだそうです。」
「涙?」
「はい。いつの世も、令嬢達の苦労は同じですわ。社交界は女性達の戦場。その頂点におられるのは、王妃様ですもの。にっこりと微笑んで王妃様のサロンから退出する。その後に隠れて涙を拭うご令嬢方も多かったのだとか。……アリスリンデお嬢様は、とてもよくやっていらっしゃると、旦那様も、奥様も、そう言ってらっしゃいますよ」
「ありがとう、ノア。……頑張るわ」
ノアはアリスリンデより少し年上。
アリスリンデはノアを姉のように頼もしく思っていた。
もともとは子爵令嬢だったか。
(たしか、婚約破棄をされて、それがきっかけになってわが家に来てくれたのだわ)
貴族令嬢としての知識も礼儀も備えている。
ノアのような女性でさえ、社交界を生き抜くのは簡単ではないのだ。
アリスリンデは無意識のうちに、まるで気を引き締めるように、背筋を伸ばした。




