第43話 俺の妻に指一本でも触れたら許さない(俺自身もまだ触れていないんだぞ!?)
ドガッドガッドガッドガッ……!
冷たい大地を力づくで掘り返していくような、重い馬のひづめの音が静かな森に響き渡る。
そこに怒号のように重なるのは、ガンターの従者、ノックスの大声だった。
「遅れるな!! ガンター様を追え……っ!!」
「ひぃいい……っ!! ノックス、無理言うな! 領主様、全速力だぞ!? 追いつけるかよっ!!」
ガンターは必死で駆けていた。
黒の騎士服に黒のマント。
愛馬は大きな黒の牝馬である。
一際体が大きいガンターと並んでも堂々とした体躯のこの馬は、軍馬として駆け回っており、その重量に反して、いったん速度を上げると、かなりの速さで駆け抜けることができた。
轟音を立ててガンターの馬が走り、その後ろを周囲には一目もくれず、真っ白な大型犬が矢のように走って消えた。
「み、湖に着くまでだ! あと少しで着く! 少しでも追いつくんだ!!」
そう叫ぶノックスの声も、千切れちぎれになって、風に乗り消えていく。
「が、ガンター様……っ」
ぜえぜえと呼吸を整えながらも、ノックスはガンターを追った。
「ノックス、ペルシュ、ブルータス、おまえ達は一緒に来い。残りの者は馬の世話を頼む。アリスリンデを取り返していつもの桟橋に戻る。馬はそこに回せ。それから屋敷への連絡もしろ」
「「「はいっ!!」」」
定例の遠征に出発してまもなく、ガンター率いる辺境騎士団のもとにフィンが飼っている大型のウサギ、ジャックラビットが現れた。
どよめく騎士達に目もくれず、ガンターが連れている大型犬のドンデの前に跳ねると、犬とウサギは鼻先を付き合わせて、ふんふんと鼻を鳴らす。
「アオォ———ン……!」
次の瞬間、ドンデはガンターを見上げ、まるでオオカミのような声を上げた。
そしてドンデはくるりと方向を変えると、一目さんに湖へと走り始めたのだ。
「何だと? アリスリンデとコリンヌが!?」
そこからガンターの動きは早かった。
手綱を引き、愛馬の方向を変えると、ドンデの後を追い、全速力で駆け始めた———。
ガンターは湖岸にある洞窟にためらわずに入っていくと、隠してあった小型船を引き出し、すぐに乗り込む。
ガンターの後に、犬のドンデが続いた。
ようやくノックスを筆頭にさらに二人の騎士が船に乗り込み、ガンターは船を出した。
岸辺に残された騎士の一人がはっとしてつぶやく。
「待て。奥様は、王女殿下と一緒だろう? 馬車も手配しないとダメじゃないか?」
騎士達はそうだな、と顔を合わせてうなづいた。
「よし、馬車も頼んでおこう」
「ガンター様、もう奥様のことしか頭にないな……」
「でもなんでわざわざ船で向かったんだ? 馬で向かった方が早いんじゃ」
バカ、と一人の騎士が言う。
「陸で国境を超えたら、立派な領土侵犯じゃないか。戦争をする訳にはいかない、湖ならなんとでも言い訳ができるとガンター様が言っていた。子どもの頃はそうやってよくノルウェグに侵入して遊んだと」
「…………大丈夫なのか、それ」
騎士達はぐんぐんと小さくなっていく小型船を不安そうに見つめた。
そして———。
***
「オラァアアアアアアア!! エイリーク!!」
ドアがばーん!! と開くと、仁王立ちになったガンターが現れた。
「ふざけるな、貴様っ!! わが愛する妻をどこに隠した! いいか、俺の妻に指一本でも触れたら、許さな———」
全身黒づくめ。
ガンターは息も乱さず、すでに愛用の剣を鞘から抜き、隙のない構えで、ビシリ! と前方に向けている。
背後には息も絶えだえなノックスと騎士を二人従えている。
剣をぴたりと向けている先は、金髪の長身の男———ノルウェグの若き王、エイリークである。
「ガンター?」
しかし、ガンターの怒号は、ぴたりと止まった。
エイリークが不思議そうに口を開く前に、すばやくアリスリンデが立ち上がったからだ。
「ガンター! 遅いではないか!?」
「へ? ガンター?」
アリスリンデの元気そうな姿に眉を下げ、抱きしめようとつい両手を開いたガンターが異変に気づく。
「わが国の誇る勇猛果敢な辺境伯ともあろうそなたが、愛する妻の救出にこれほど時間をかけてどうする! 気の毒に奥方は、すっかり弱っておしまいではないか!?」
姿勢よく立ち、金色の瞳をらんらんと輝かせ、朗々とした声で彼女よりはるかに大きな体をした自分を叱りつけるアリスリンデの姿に、ガンターは目を丸くした。
(いや。俺の愛する妻は、すこぶる元気そうなんだが……?)
そう思ったガンターは、アリスリンデの背後にかくまわれて、小さく震えている金髪の少女の姿にようやく気づいた。
(あ。忘れてた。コリンヌ王女もいたんだ)
その時、咳払いをして、エイリークが声をかけた。
「ガンター、久しぶりだな? この別荘も懐かしいだろう……! おまえは招待してなかったが、まあいい。おい、誰かこいつの分も茶を用意してやれ。二番茶でいい。どうせ茶の味などわからん男だからな。お嬢さん方はお茶のお代わりはどうだ?」
コリンヌは小さく首を振ったが、アリスリンデは鷹揚にうなづいた。
「そうだな。せっかくだからもう一杯いただこう」
「辺境伯夫人も、遠慮せずにいかがか? 湖で体を冷やしてしまっただろう。それにしても、あのガンターが年若い花嫁を得たと聞いて半信半疑だったのだが———噂はどうやら本当だったようだ。まるで少女のような初々しさではないか? まあ、花嫁を大事にしておられるようで何よりだ」
エイリークの言葉に、アリスリンデは無表情にうなづいた。
「まだまだ至らぬところも多いが」
その言葉に、ガンターは笑い出しそうになって、なんとかこらえた。
「ところで王女殿下、これでも私とガンターは幼なじみなのだよ。何しろ国境をはさんだお隣同士。よく湖で遊んでいるところに出くわして、戦争ごっこをしたものだ」
しみじみとしたエイリークだったが、その時、アリスリンデがガンターの視線をとらえ、背後のコリンヌを示したのだ。
コリンヌの顔色は悪く、体は小刻みに震えている。
ガンターはアリスリンデの意図を察した。
「エイリーク、わが妻を———いや、わが主君を迎えにきた。返してもらおう。お遊びはもう終わりだ。おまえもまさか、本気で事を構えようとは思っていまい?」
次の瞬間、ガンターはアリスリンデの前にガバッと膝をついた。
「———!」
ガンターはアリスリンデの手に、まるで大切な宝物であるかのようにそっと触れると、心を込めてキスをした。
「わが主君よ。大切なあなたを二度とこの手から離すことはしない」
アリスリンデはガンターの真摯な誓約を聞いて、うっすらと顔を赤らめたが、耐えた。
そっけなく言う。
「よく言った。己の言葉、一生忘れるな」
「この身に代えて」
思わず周囲も見入ってしまいそうな、そんな一幕だったが、ほお〜という嘆声の中で、エイリークは残念そうに言った。
「つまらん」
しきりに首を左右に振る。
「しかしまあ、ホルツフェラーの王女を間近に見れたことは、よしとするか。昨今は公式の絵姿は盛っている場合も多いことだし。実物を見ておくことは大事だ……おいガンター」
ガンターはすでに立ち上がって、小さく震えているコリンヌに再びフードをかぶせるアリスリンデを腕の中に引き寄せているところだった。
「たしかに。おまえのそんな顔を見れるとは滅多にない機会だったな。おまえをひざまづかせられる『王女』殿と末長く仲良くな。これは面白いものが見れた。それに免じて、お嬢さん二人はお返ししよう」
そう言って、エイリークはアリスリンデとコリンヌに笑顔を向けた。
「ノルウェグの若き国王を覚えておいておくれ。まだ独身だ。絵姿なんかより、よほど美男だろう? これからご縁があるかもしれないからな」
アリスリンデはそんなエイリークに、美しいカーテシーで応えた。
コリンヌもアリスリンデの後ろで、カーテシーを取る。
挨拶もそこそこにガンターはアリスリンデとコリンヌを無事に船に乗せると、素早くノルウェグの岸を離れた。
「うわおんっ!!」
「きゃあ」
船内に隠れていた大型犬のドンデが飛び出し、アリスリンデに飛びつく。
「奥様! ご無事で……!!」
泣きながら、侍女のノアが駆け寄ってくる。
ノアと二人の騎士、それにスピノザも無事に小型船に乗り込んでいた。
「あなた方も無事でよかったわ。王女殿下を監視していた侍女と護衛騎士は?」
「すでに姿を消しております」
「まあ」
アリスリンデは、ぐんぐんと遠くなるノルウェグの岸辺を見つめた。
ガンターとノックスは霧の中で慎重に船を進めている。
岸辺から十分に離れた時、初めてガンターは深々とため息をつくと、アリスリンデを抱きしめた。
「……怪我はないか」
アリスリンデの顔、手、指先、とガンターが不安そうに、大きな自分の手で不器用に触れていく。
「手が冷えている。顔も冷たい」
「もう大丈夫ですわ。旦那様、助けてくださって、ありがとうございました」
背後では、はらはらと涙をこぼして、コリンヌが膝を抱えて震えていた。
「ガンターお兄様、アリスリンデさん、本当にごめんなさい……!! わ、わたくしのせいです……!!」
「王女殿下」
コリンヌは深々と頭を下げた。
あの、生意気だった王女のコリンヌが。
「わたくしは、王妃殿下に命じられていたのです。ガンターお兄様の出発後、アリスリンデさんを湖におびきだせと。まさか———まさか、ノルウェグの船が現れるなんて」
アリスリンデはそっとコリンヌのそばに膝をついた。
「アリスリンデさん、み、身代わりになって下さって、あ、ありがとうございました。ごめんなさい———わたくしこそ、臣下の者を守らねばならない立場なのに———わたくしは、ただ、恐ろしくて———あの、ツノのある兜をかぶった男が———」
コリンヌはしゃくり上げた。
「王女殿下———」
「わたくし、恥ずかしい。もっと、もっと王女らしく、学ばなければ。あなたはあんなに堂々として。わたくしは、このままでは、とても公の場には、出られません———」
コリンヌは頭を上げなかった。
涙を流しながら、恥ずかしさと、後悔と、悔しさに、震え続けたのだった。




