第42話 北国の王
「王女殿下、奥様、大丈夫ですか?」
ゆっくりとボートのオールを動かしながら、辺境騎士団の騎士スピノザが問いかけた。
アリスリンデは目の前に座るコリンヌを見ながら、小さくうなづいた。
辺境伯家の屋敷からは馬車でわずか一時間。
アリスリンデは、辺境に初めて来た時にガンターが連れてきてくれた湖に再びやって来た。
水晶の小石がたくさん落ちていた岸辺ではなく、小型の船が接岸できる桟橋が目の前に現れ、そこにはすでに三隻のボートが用意されていた。
一隻のボートにはアリスリンデとコリンヌ、そしてスピノザが乗り込む。
もう一隻のボートにはアリスリンデの侍女ノアと二人の騎士が護衛役として乗った。
最後の一隻には、コリンヌが同伴した侍女と騎士が乗る。
小さなボートの座席は、縦一列だ。
アリスリンデが船頭で後ろ向きに座る。
コリンヌはアリスリンデと向かい合って中央に座り、船尾はオールを持ったスピノザが位置どる。
寒さを心配した侍女長のグレースが、アリスリンデとコリンヌに、温かいグレーのフェルト製で、お揃いのフード付きマントを着せてくれたので、二人はまるで姉妹のように見えた。
顔はほぼ隠れているものの、ときおり見える横顔や強ばった肩の線から、コリンヌがかなり緊張していることが見て取れた。
(いつ、何が起こるかわからない)
アリスリンデは湖を見渡した。
湖は冴えざえとして、緑と青に染まり、まるで宝石のように透き通って見えた。
湖の周囲には紅葉の始まった木々が赤や黄色に色を変えている。
湖の水も大気もすがすがしいのだが、キンと張り詰めているようで、これから夕暮れが近づけば温度がぐんぐんと下がるのだろうと感じられた。
(もしあの二人が何か仕掛けてきたら)
コリンヌは王女とはいえ、側妃の子で、イングリッド王妃にとっては邪魔な存在かもしれない。
同じく側妃の子であるセオドア王子の婚約者だったアリスリンデも、王妃に可愛がられていたとはとてもいえない。
(でもまさか、仮にも王女を傷つけるなんていうことは)
しかしアリスリンデははっきりと否定することはできない。
(もし、自分に利があると判断すれば。王女を利用して辺境伯家を陥れようとする者がいるなら、それはありえないことではない)
ボートは水上をすべるように動き出し、湖岸をよく眺められる場所まで進むと、停止した。
チャプチャプと穏やかに湖水がボートに寄せて、ボートは軽く揺れ続ける。
コリンヌの侍女と騎士を乗せたボートが近寄ってきた。
スピノザが声をかける。
「この辺りの景色は美しいですから、ここで王女殿下に辺境伯領の美しさをご鑑賞いただいては?」
アリスリンデは息を止めてボートの動きを見守った。
(もし、あのボートが体当たりをしてきたら?)
ノアと辺境騎士団の騎士二人を乗せたボートがそんなアリスリンデの懸念を察したように、アリスリンデとコリンヌのボートを守るべく間に入ってくる。
しかし、コリンヌの騎士はほがらかに笑うと、すっと右手を挙げた。
まっすぐに湖の北を指さす。
「本日は気候もよろしいようだ。せっかくですから、もっと先へ。王女殿下に美しい湖の景色を、もっと味わっていただかなければ。王妃殿下のご希望でございます」
「!!」
アリスリンデはスピノザと目を合わせた。
(北……北には、大国であるノルウェグ王国がある。旦那様は国境線は湖だと。でも、具体的には? どこからがノルウェグなの?)
「さあ、辺境伯夫人。王女殿下をおもてなしください」
王女の護衛騎士が冷たい声で言った。
アリスリンデは、まるで喉もとに剣を突きつけられているような、そんな冷たさを感じた。
「……スピノザ。進みましょう」
もう一隻のボートで、ノアが声にならない悲鳴を上げたのを感じた。
「はい、奥様」
スピノザはそう言うと、再びオールを動かし始めた———。
***
そうして黙々と湖を進んだ時だった。
湖には霧が出てきた。
しかし、霧の中に浮かび上がる大きな船の形は間違えようもない。
王女の侍女と騎士が乗ったボートは、まるで退路を断つかのように、アリスリンデとコリンヌのボートの背後に位置取っていた。
コリンヌの体が震え始め、アリスリンデは慌てて自分が持っていたストールでコリンヌの体を包んでやった。
それは辺境伯領の伝統的な織物で、侍女長のグレースが心配して持たせてくれたものだ。
「あ、アリスリンデさん……」
コリンヌは真っ青な顔で、前方を指差す。
「あれ、あれは……ノルウェグの船です」
アリスリンデはあわてて振り返った。
次第にはっきりとしてきた船の形は、船首と船尾が鋭く巻き上がった、独特な形をしている。
(旦那様———!!)
やがて、ノルウェグの船を囲むようにして、小さなボートが何隻も現れ、自分達に向かってきた時、アリスリンデは思わず心の中で叫んだ。
ノルウェグのボートは速度が早く、あっという間にアリスリンデの目の前に横づけされた。
「その騎士から剣を奪っておけ」
わざわざ大陸共通語で部下に命令をしたのは、ほとんど色がないほど明るい金髪を長く垂らし、頭の上には左右に張り出す白い雄牛のツノを付けた兜をかぶった長身の男だった。
まるで息を吸うように、人に命令を出すのが当たり前の、高貴な身分の男。
彼は今、氷のように薄青い瞳を凝らすようにして、こちらを見ている。
まるで騎士のように鎖帷子を身につけ、その上から毛皮のマントを重ねた男は、ボートの上に並ぶアリスリンデとコリンヌに視線を何度も動かした。
まるでどちらが王女なのか、探るかのように———。
(!!)
その時、アリスリンデは悟った。
(会ったことはない。でもこれはノルウェグの国王、エイリークだ。前国王が戦争での怪我がもとで退位し、若くして国を継いだ男)
同時にアリスリンデはエイリークの様子に、確信する。
(彼は、どちらがコリンヌ王女なのか、わからないのだわ。わたくしはセオドア王子の婚約者だったけれど、イングリッド王妃はわたくしが表に出るのを好まなかった。コリンヌは王女とはいえまだ十六歳。本格的に各国との社交の場に出ていない———それも、イングリッド王妃の方針で。それに、今日の王女殿下は、今までと違って、地味な装いをされている。グレースが着せてくれたフード付きのマントはお揃い。ならば)
アリスリンデは金髪の男に視線を定めると、はっきりとした声で言い放った。
「そなた、何者だ? わたくしがホルツフェラー王国の王女、コリンヌと知っての狼藉か?」
アリスリンデが頭にかぶっていたフードを下ろすと、ふわりとつややかな黒髪が舞い上がった。
「!!」
金髪の男が一瞬、声を失う。
アリスリンデはさらに言い募った。
「貴婦人に名乗らぬとは、なんたる無礼。今すぐ名乗れ。そして道を開けよ」
一瞬、金髪の男はコリンヌに視線を向けた。
しかし、しっかりと体に辺境の織物を巻きつけたコリンヌの姿に納得したらしかった。
金髪の男は微かな微笑みを浮かべ、答えた。
「非礼は詫びよう。私はノルウェグ王国国王エイリークだ。コリンヌ王女殿下。しかし、あなたがすでにわが国の国境を超えておられることにはお気づきか?」
「水の中では、国境線も見えない。そなたが本当のことを言っているとどうわかる?」
「されば、王女殿下をお咎めはいたしませんよ? 私は湖岸に小さな別荘を持っています。賓客として、あなた方をお招きいたしましょう」




