第34話 若き辺境伯は挫折を味わう
翌朝。
夜明けを迎えた直後、コリンヌを乗せた王家の馬車がひっそりと辺境伯邸を出発した。
コリンヌから見送りはいらないと厳命されていたガンターは、一人窓辺に立ち、王女にしては質素な馬車を見送る。
ガンターが付けた辺境騎士団の護衛が隊形を整えて同時に出発した。
それを見届け、ガンターはそっとカーテンを閉めた。
若き辺境伯、ガンター・シュタインは忙しい。
朝は夜明けとともに起き、夫婦の寝室に鎮座する巨大なベッドですやすやと眠る妻、アリスリンデの寝顔をこっそり眺めてから、ベッドの下に置いている剣をつかんで朝の鍛錬に向かう。
ちなみにアリスリンデはベッドの右側、ガンターは左側が定位置である。
そして二人の間には、ふかふかの抱き枕が境界線代わりとして置かれているので、不法越境対策もバッチリである。
越境した際の罰則は定めていないが、ガンターはもし自分がアリスリンデの方に越境した際は、土下座の上、アリスリンデの気がおさまるまで謝罪する覚悟でいる。
妻、といってもお互い納得の上で契約を結んだ、契約結婚の妻であり、夫婦の関係は肉体的な関係なしの白い結婚である。
枕の上に広がるつややかな黒髪、閉じたまぶたを飾るふさふさの長いまつげ、ふっくらとした薄紅色のくちびる———さらに白のナイトドレスからちらりと見える、案外豊かな胸もとなどに注意を向けてはいけない。
(俺がアリスリンデにとっての危険人物になったらどうする……!!)
ガンターはそう己を戒めるものの、すでに契約結婚を後悔しつつある自分の気持ちに、必死でフタをしているところだった。
ガンターがそろりと自分の寝室に戻ると、真っ白でふわふわした大きな犬が、ベッドの下に敷かれた絨毯の上から勢いよく起き上がった。
「わふぅ♡ わふわふわふわふわふっ…………!!」
(わぁ〜っ!! ドンデ! 吠えるな!! アリスリンデを起こしてしまうではないか!?)
「…………(わふっ♡)」
ガンターがあせって小声で叱りつけると、ドンデはぴたりと口を閉じた。
(えらいな、ドンデ。よし、庭に行くぞ)
(わふっ)
小声で会話を交わした一人と一匹は、こうしてそろりそろりと、まだ人気のない屋敷内を歩いて行くのだった。
朝の鍛錬後はさっと水を浴びて、大急ぎで朝食を食べる。
それから午前中いっぱいは辺境騎士団の訓練にかかりきりだ。
しかし週に何回かは自分への「ご褒美」として、アリスリンデと一緒に昼食を取ることにしている。
午後は領主としての仕事が待っている。
気候の厳しい辺境伯領に、十分な食料、家畜のえさなどの備えを確認したり、武器の整備、馬の調教、売買の準備、さらには街道の整備、王都から届く文書への対応などやることに限りはない。
しかし、この日の朝、いつもの実用的な騎士服を身につけたガンターは、騎士団に行くと見せかけて、こっそりと離れへと向かった。
アリスリンデの計らいで、最近では夕食をアマリアとフィンも主屋に呼んで一緒に食べることが多くなった。
おかげで、どことなくぎこちなく遠慮がちだった、養父の後妻であるアマリアともだいぶ自然に話せるようになったのだ。
(これもアリスリンデのおかげだな)
ガンターは大きな体を目立たせないようにと猫背になり、こそこそしながら離れにやってきた。
———アリスリンデにバレないようにするためである。
「ガンター様、おはようございます」
「義兄上! おはようございます!」
アマリアは朝食の支度をしてガンターを迎えてくれた。
フィンは最近、辺境騎士団の訓練にも参加するようになり、今朝も自慢げに騎士服を着込んでいた。
「おはよう」
ガンターが挨拶をして席に着くと、侍女が熱いコーヒーをすぐ運んできてくれた。
「ガンター様、何かお話があるとのことでしたが、どうかなさいましたか?」
アマリアが微笑みながら言う。
この穏やかで控えめな婦人は、アリスリンデがすっかり懐いて親しくしているが、口が固い。
ガンターの話も内密にしてくれるはずである。
「は、それが。あの、婦人、というものは、どのような贈り物を好むものでしょうか……?」
「!!」
アマリアは目を見開くと、まあ、というように口もとを覆った。
「アリスリンデさんへの贈り物でしょうか?」
そう尋ねられて、ガンターは無言でコクコクとうなづく。
アマリアは優しくうなづいた。
「それは素敵ですわ、ガンター様。アリスリンデさんもきっと喜ばれるでしょう」
フィンは朝食を食べながら、同じく嬉しそうに会話に聞き耳を立てている。
「もちろん、お花やお菓子でもいいと思いますけれど……わたくし、宝石を贈られるのがいいのでは、と思います」
アマリアが言った。
「ガンター様は、アリスリンデさんに宝石を贈られたことは?」
「ありません」
アマリアは少しためらった。
しかし、思いきってガンターに尋ねる。
「ガンター様、あの……結婚式で、結婚指輪は用意されたのですか?」
ガンターは不思議そうにアマリアを見つめる。
「いや。あの時は時間がなくて———アリスリンデも特に指輪のことは何も」
アマリアは困ったように眉を下げた。
「そうでしたの。ね、それならぜひ、指輪をお贈りになるのがいいと思いますわ。ガンター様のお色の宝石などいかがですか? 妻として、夫の色をまとう宝石を贈られるのは、とても嬉しいことですもの」
「え、と。俺の色、とは?」
「恋人や夫婦では、お互いの髪や瞳の色で選んだ宝石を付けますのよ。ガンター様の場合ですと、髪色の薄茶や……ヘイゼルの瞳から青や緑の入った宝石を選ぶといいと思います」
「なるほど。しかし、そんな宝石が領地で手に入るでしょうか? 王都から取り寄せないとだめでしょうか?」
アマリアは安心させるように微笑んだ。
「領地には、湖で取れる良質の色水晶を加工する宝石商がおりますわ。それに、その店では大抵の宝石を揃えていますので、ご安心ください。ええと、連絡先を書きますね」
「母上、こちらを」
フィンが紙とペンをアマリアに渡す。
「ありがとう、フィン。はい、ガンター様、こちらですわ」
ガンターは渡されたメモをじっと見た。
「……アリスリンデを驚かせたいな。男が一人で行って、宝石を選べるものだろうか?」
「店には知識のある店員がおりますわ。相談に乗ってくれますわよ」
ガンターはほうっと息を吐いた。
「義母上、ありがとう。———やってみます」
アマリアは微笑みながらガンターを見送った。
フィンも食事を終えて、立ち上がる。
「母上。義兄上、ちゃんと選べるといいですね」
アマリアもうなづいた。
「ええ。本当ね」
そうして、辺境騎士団の訓練の後、急いで馬を走らせ、ノックスを置き去りにして宝石店に出かけたガンターだったが、しょんぼりとして戻ってくることになったのだった———。
宝石店に並ぶ、キラキラと輝く色とりどりの宝石達。
指輪だの、ネックレスだの、イヤリングに髪飾り。
ブレスレットもあれば、セットになったアクセサリーもある。
さまざまな色合いの宝石。
さまざまなデザイン、それぞれに違う値段は、安いものと高いものでは数字の桁が驚くほど違い、どれを選んだらいいのか、さっぱり見当がつかない。
(だ、大丈夫だ。アマリアが言ったように、指輪をひとつ、選べばいいのだ。簡単であろう)
ガンターはドキドキする心臓を押さえて言った。
「店主、指輪をひとつもらおうか」
「はい、ありがとうございます。指輪は、どのようなものを? アニバーサリーリング……には早いですね。もしや、おめでたの記念に? それともお誕生日の贈り物? あ、もしや夜会用のカクテルリングでございますか!?」
「いや待て待て待て店主! 矢継ぎ早に言うな。……何の指輪だと?」
「はあ、ですので、どのような指輪をお探しかと」
ガンターは黙った。
さすがに、結婚指輪を用意していなかったので、今から買いたいとは言いにくい。
するとガンターの様子を見て、店主は何か勘違いをしたようだった。
「大丈夫でございます! ご婦人は、宝石がお好きなもの。心を込めて選べば、きっと奥様も許してくださるはず……では、ひとつひとつ、選んでまいりましょう」
店主はどこか労るような表情を浮かべながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「領主様、台は金になさいますか? それとも、銀? あるいは白金がよろしいでしょうか?」
「それはどう違うのだ?」
おかしい。何か誤解されているのでは。
そう思いながらも、ガンターはアリスリンデのために何か選ぼうと努力した。
しかし。
「……もうダメだ。目の前がチカチカしてくる……!! 宝石店とはなんと恐ろしいところだ。ここは魔物の棲家か!? 俺も精神力には自信があったが、これはダメだ。店主!」
「はいっ!!」
「すまない。俺には無理だ。出直させてくれ…………」
「は、はい領主様。あの。差し出がましいことではありますが、もういっそのこと、直接奥様を連れておいでになっては———?」
店主の一言に、ガンターの眉間がピキ! と鳴った。
さらに落ち込んで、ずん、と顔色が悪くなる。
(それはそれでハードルが高いのだが…………なんと言って誘えと?)
赤くなったり青くなったりして数時間粘る領主を前にして、店主もつい本音がこぼれたのだろう。
気の毒なことに、そんな店主をガンターは据わった目でぎろりと睨みつけた。
しかし、一瞬ののち、しゅんとしたガンターは目を逸らし、謝罪する。
「すまん……やはりダメだ。疲れすぎだ。あとで連絡する」
「は……い、ありがとうございました…………」
ガンターを迎えた数時間。
店主と店員もまた、白髪が増えそうな勢いで疲弊していたのは言うまでもない。
こうして結論が出ないまま、ガンターはとぼとぼと屋敷に戻ったのだった。




