第32話 ガンターお兄様のお嫁さんになるのは、わたくしなの!
アリスリンデは目の前に突然現れたコリンヌ王女をじっと見つめた。
アマリアも穏やかな表情のまま、目だけ見開いて、見つめている。
フィンは思わず両手で口を押さえていた。
ガンターは手にしていたナイフとフォークをお皿の上に置くと、ゆっくりと立ち上がった。
「王女殿下、そのような言葉は王女としてふさわしくありません」
ガンターの一言に、コリンヌはじれったそうに首を振った。
「いやいや! 王女殿下、なんて呼ぶのはやめてちょうだい。昔みたいに、コリンヌって呼んで。ガンターお兄様、あなたに会いに来たのですわ! わたくし、こないだもわざわざ王都からお兄様に会いに来たのよ!? その意地悪なアリスリンデから聞いているかしら?」
「王女殿下。アリスリンデは意地悪ではありませんし、私の大切な妻です。アリスリンデをおとしめるような発言は、お控えください」
「だから何よ。わたくしがガンターお兄様のお嫁さんになると言っているでしょう?」
コリンヌはぷうっとふくれた。
「わかっていらっしゃるのですか? 一国の王女ともあろうお方が、気まぐれに十分な数のお供も連れず、辺境にまでやってくる。その理由が、既婚の従兄に会うためですか? なぜ正式な訪問ではないのです? 国王陛下や王妃殿下がお許しにならないからですよね? このような行いは、王女にふさわしくありません」
ガンターはまるで聞き分けのない子猫のようなコリンヌの前で、その大きな体をわざわざ屈めて、まっすぐ視線を合わせて説教をする。
しかし、コリンヌはひるまなかった。
ぎゅうっと細い手を胸の前で振り絞って言った。
「だって……! わたくし、決めているんですもの! ガンターお兄様のお嫁さんになるのは、わたくしなの!!」
コリンヌが叫ぶと、アマリアとフィンは困ったように顔を合わせた。
「王女殿下」
「いやいや、ガンターお兄様、わたくしはガンターお兄様と結婚するの!! 大好きなのよ、どうしていけないの!?」
コリンヌはガンターの前できゃしゃな体をくねくねとよじり、必死に訴える。
まるで妖精のドレスのような、ミントグリーンのシフォンのドレスも、ヒラヒラヒラ!! と激しく揺れる。
(う。めまいがしそうだ)
ガンターはもはや、何をどう言ったらいいのか、さっぱり見当がつかない。
「コリンヌ殿下———」
それにガンターが忍耐力を総動員して声をかけても、コリンヌはガンターの言葉など聞いていないのだ。
ガラスのように透明感のある、コリンヌの緑色の目が潤み、今にも涙がこぼれ落ちそうになった———その時。
「王女殿下、おあきらめくださいませ」
アリスリンデははっきりと言った。
「へ!?」
コリンヌは振り返り、驚いたようにアリスリンデを見る。
アリスリンデは立ち上がると、問答無用でガンターとコリンヌの間に割って入り、騎士のように勇ましく大きく手を広げると、ガンターに抱きついた。
アリスリンデの意外にも豊かなお胸が、ガンターのたくましい胴にぎゅむっ! と押し付けられる。
しかも、今晩のアリスリンデのドレスは、珍しく薄地でふわりとしたドレスだ。
「!!!!」
ガンターの顔は一瞬にして真っ赤に染め上がった。
アリスリンデはガンターの太い腕の下から顔を出すと、きびきびと話し始める。
「よろしいですか、コリンヌ王女殿下。わたくし、このアリスリンデが旦那様の妻です。正式に結婚した、法的にもたしかな、ガンター様の妻です。わたくしという存在がありながら、旦那様が王女殿下と結婚することは天地がひっくり返っても、あり得ません」
「な、何よ!!! 妻妻妻って、連呼しないで!! わ、わたくしは、ガンターお兄様の愛人になんてならないわ!! わたくしの方が、妻としてふさわしいと言っているの!! アリスリンデ、あなたみたいな女こそ、身を引きなさいと言っているのよ」
「いいえ。お断りします」
アリスリンデはガンターの大きな体に抱きついたまま、今度はその厚い胸板に頭をこすりつけるではないか。
「!!!!」
アリスリンデの意図は、ガンターにはもう理解不能である。
必死になって、頭の中で、羊を数えていた。
(ひ、羊が一匹、羊が二匹、ひ、ひ、ひつじさんがさんびき……!! 平常心だ、ガンター、おまえならできる!!)
しかし、アリスリンデは容赦がなかった。
「つ、妻であれば、愛する夫にこんなこともできるんですのよ!? そして、旦那様はわたくしをナデナデしてくださるのです!! さ、旦那様?」
「…………」
ガンターは羊を数えながら、無心にアリスリンデの黒髪を言われたとおりにナデナデした。
コリンヌの顔が真っ赤になり、両手はまるで風に揺れるポプラの木のように、プルプルと震えてている。
「これでおわかりですね? わたくしが妻である以上、たとえあなたが王女殿下であろうと、そのお立場は夫婦関係を壊す悪意の第三者に他なりません。わたくしは妻の座をあなたであれ、他の誰であれ、譲る気持ちはありません。相手を打ち倒すまで、戦い続けますわ! 殿下、そのような子どもじみた夢を見るのはもうおしまいになさって、どうぞお引き取りください」
「なんですって!!! 何よ、あなたなんて、セオドアお兄様に簡単に捨てられたくせに、何を偉そうに———」
「セオドア王子殿下は、わたくしを不要とおっしゃいましたが、ガンター様は違います。ガンター様はわたくしを心から妻にと望んでくださいました。ですから、わたくしも、強くなれるのです」
「…………!!」
静寂。
次の瞬間、ついにコリンヌの目から涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「ひどい。ひどいわ……アリスリンデ、あなたって、やっぱり最低だわ。あなたなんて、大嫌いよ。あなたに何がわかるというの? わたくしはずっと、ガンターお兄様のことだけが大好きだったのよ」
アリスリンデはコリンヌの言葉を聞いて、そっとため息をついた。
「……ですから、わたくしも全力で立ち向かわせていただきましたわ、コリンヌ王女殿下。大切なガンター様のために」
「……うう……」
コリンヌは力尽き、床にしゃがみ込んで泣き出した。
着ているヒラヒラのドレスも、心なしか元気なく、もはや海藻のようにくったりとしおれてしまっている。
コリンヌは両手で顔をおおって、細い肩を震わせながら泣いている。
アリスリンデはアマリアと視線を合わせた。
しかし、立ち上がったのは、フィンだった。
「……王女殿下、さあ、お手を。サロンにご案内しましょう。お気持ちが落ち着くまで、温かいココアでも召し上がってはいかがですか?」
フィンが優しくコリンヌに話しかける。
「う、ふぇっ、ぐすん……」
「大丈夫ですか? 立てなければ……侍女の方をお呼びしましょうか?」
「いいの。立てるわ」
コリンヌはくすんと鼻を鳴らしながら、立ち上がった。
フィンがそっとコリンヌをエスコートして、ダイニングルームを出た。
コリンヌがしゃくりあげる声が小さくなり、やがて消えた。
ガンター、アマリア、アリスリンデの三人が顔を合わせる。
「だ、大丈夫でしょうかね……?」
アリスリンデが少し顔を引き攣らせながら言うと、ガンターは励ますようにぽんぽんと頭を撫でた。
「ああ。間違ったことは言っていない。いつかは、はっきりと言ってやらなければならなかったことだ」
「アリスリンデさん、よく言ったと思うわ。大丈夫よ」
アマリアが励まし、ガンターもうなづいた。
「きみはコリンヌをライバルと認めて、正々堂々と渡さないと宣言してくれた。コリンヌにはかえってよかったと思う。———ありがとう、アリスリンデ」
……旦那様の声が、妙に近い。
アリスリンデは、そろそろと視線を上げ、自分の体をがっしりと抱える太い腕を見る。
ガンターの声は、その上から降ってきている。
さらに、アリスリンデはガンターの体に回された自分の腕を見つめる。
いったい、わたくしは何をしているのかしら?
なぜ旦那様がまるで抱き枕でもあるかのように、がっつりと抱きついているの!?
ようやくアリスリンデは正気になったらしかった。
胸から上が、気の毒なくらいに真っ赤に染まる。
跳ねるようにして、ガンターの体から離れた。
言葉もおかしくなり、挙動不審もはなはだしかった。
「はい!? はい、そうですね!? いえ、とんでもないことでございますわ! ではわたくしこれで。あ、ありがとうございますっ!!!」
そしてあわてまくったアリスリンデは、真っ赤な顔のまま、ダイニングルームを飛び出して行ったのだった。




