第21話 抱き枕に誓って、死んでも越境など(※ガンターの心の声)
はあっ、はあっ。
日々鍛えているというのに、ガンターの呼吸は荒く、ばたん! と倒れるように木に寄りかかって呼吸を整えた。
恵まれた体格に、武芸に秀でた、若き辺境伯。
正直言って、美貌の、という形容詞がつくことはない、平凡な顔だちではある。
日に焼けているし、顔の作りはゴツいし、髪は薄茶色の平凡な色、薄いのは色であって、毛髪の量ではない———ガンターは日々自分の頭にそう言い聞かせている。
青や緑の混じった、複雑な色調をしたヘイゼルの瞳は美しいが、目そのものは細い。
それが愛嬌があってよいと母———自分を産んでくれた生母だ———は言ったが、はるか昔のことだ。
それに母親はどんな子でも可愛いと言うものだろう。
(それに、言っては悪いが母の容姿と性格は俺とそっくりだ。貴婦人としてそれはどうかと思うが、母方の叔父も俺とそっくりで恐ろしいくらいだ。血筋というのはすごいものだな)
ガンターは勇ましい自分の母親を思い浮かべた。
母はただ一人の男子を辺境伯家に養子に出すと決め、涙ひとつ見せなかったという。
(そうだ。そういえば、しばらく母上に挨拶もしていなかったな。父上にもアリスリンデを紹介……いや、契約結婚の相手でなのに両親に紹介されては、アリスリンデにも迷惑だろう———)
思わず、ガンターの眉が下がり、しゅんとしてしまう。
たしかに、ガンターには悩みがあった。
その悩みを劇的に解決するために、ハノーバー伯爵令嬢アリスリンデに目をつけた。
自分勝手な頼みだったが、従兄弟で第二王子のセオドアに言いがかりをつけられ、婚約破棄されてしまったアリスリンデにとっても、益はある、そう思っていた。
(———アリスリンデが、本当の妻だったらよかった……な……)
冷静に練り上げられた(はずの)アリスリンデとの契約結婚。
なぜこんなに胸が苦しくなるのだろうか。
「しかし、あれは反則だろう……」
真夜中、丸い月がこうこうと周囲を照らし出す中、ぐったりと木にもたれかかったガンターはつぶやいた。
「なんだあの、歩く凶器のような破壊力は」
アリスリンデ。
第二王子の長年の婚約者。
貴族に多い金髪に生まれなかったばかりか、まるで闇夜のようなつややかな黒い髪。
はっとするような、金色の瞳。
アリスリンデは、平凡な、ありきたりな、退屈な貴族の美の観点からは超越した存在だ。
学者の家系であるアリスリンデもまた優秀な頭脳の持ち主であり、その賢さはその表情にも、その姿にも滲み出ているかのようだ。
もちろん、王子妃教育も完璧。
美しく、有能な将来の王子妃、のはずだった。
そんな理性的なアリスリンデが、湯上がりのつやつやとしたお肌によい香りをまとい、白いナイトドレス姿で寝室に入ってくる。
胸もとのリボンのひらひらがガンターの忍耐力を試しているようで、ガンターは即座に負けを認め、部屋を飛び出してしまったのだ。
「ほっそりとしているのに、意外にも胸もとのラインがありがたくも、なんとなまめかしいことか……あわあわあわ!! ち、違うぞ!! 俺は婦人の胸など見ていない! 紳士として当然だろう!? アリスリンデとは契約結婚だ。白い結婚を誓ったのだ!! 間違っても彼女に触れるなんて外道なマネはできないっ!! 安心しろ、ガンター……! あの大きな抱き枕には、十分なサイズがある。抱き枕に誓って、死んでも越境などするものか……!!」
その時、動揺するガンターの背後で、ひひん! と馬が鼻を鳴らせた。
馬を二頭引いて、ノックスが姿を現す。
「それで、ガンター様はご夫婦の寝室から逃げ出したので?」
ノックスを見て、ガンターは細い目を驚きで見開いた。
「うわぁっ!! おまえ、急に驚かすな!!」
「脅かしてなんていませんよ? 主君の身をお守するのも侍従の役割ですから。それで、アリスリンデ様のナイトドレス姿を見ていられなくて、逃げ出してしまったのですか?」
「ぐっ……おまえはあの姿を見ていないから、そんなことが言える。あの上品で優雅なアリスリンデが、ナイトドレス姿なんだぞ? あの細身なのに胸もとがふっくらしていて、そこに薄茶色の細いリボンがひらひらしているんだ。あれでどうしろと!? 黒髪はつやつやしているし、何やらいい匂いが体から漂ってくるし。これが俺の『妻』なんだ。こんな妻を前に、俺は我慢できるのか? いや無理だ。我慢できたらそれは男じゃなかろう!?」
「え? ガンター様は、ご令嬢のヒラヒラくねくねがお嫌いだったのでは?」
「……それとは違う。アリスリンデのリボンは、ひらひらなんだ」
「知らんがな」と言わんばかりの、ノックスの視線が痛い。
ガンターは沈黙した。そしてゆっくりと言葉をつなげる。
「これは契約結婚だ。白い結婚を約束したんだ。俺はアリスリンデを守ると約束したんだ。なのに俺がアリスリンデに危害を及ぼす男になってどうする……」
主君の棒読みのようなセリフに、ふう、とノックスがため息をつく。
「ガンター様。言ってはなんですが、ガンター様の叔父君も、美しい奥様にめろめろで大変なことになっていますよね……?」
「ぐほっ!!」
ガンターは妙な音を発した。
「ご結婚して十年以上経っているのに、まるで新婚かというくらいのラブラブぶりだそうですよね」
「うぐっ……!!」
「まあ、奥様の方も、ダーリン呼びをされているくらいですから、お似合いのご夫婦かと思いますが、ガンター様も確実に、その血を引いていますね……」
「わ———っ!! やめろ、ノックス! それ以上言うな!!」
ぜいぜい言いながら顔を押さえるガンターに、さすがのノックスも同情した。
まるで少年同士に戻ったかのように、ぽんぽんと主人の肩を叩いて問う。
「それで、今夜はどこで眠るつもりなのです?」
「今晩は屋敷を離れようと思う。おまえの実家に泊まらせてくれ」
「ええええぇ?」
しかし、ガンターが両手を合わせて「お願い」ポーズをすると、ノックスはまたため息をついて言った。
「わかりました……今回だけですからね。それに後でアリスリンデ様に怒られても責任は持ちませんから」
「わかってる。それからノックス」
「はい?」
「アリスリンデ様、じゃないぞ。もう俺と結婚したんだ。奥様、と呼べ。アリスリンデの名前を呼ぶなんて、俺が許さん」
ノックスはがくりと肩を落とした。
「ガンター様……本当に、めんどくさい性格ですね……」
こうして二人はノックスが連れてきた馬に乗り、屋敷を後にしたのだった。




