第2話 見覚えのない令嬢
『セオドア様ぁ……!』
甘い声を出して、さも当然のように、セオドア王子の部屋に入っていった令嬢だったが、ふと、アリスリンデは彼女に見覚えがないことに気づく。
(えぇ? どなただったかしら? 記憶にないわ)
第二王子の婚約者として、社交界の令嬢達のことはすべて記憶しているはず。
そんな自分が見覚えがない……ということに、アリスリンデは動揺した。
「アリスリンデ様」
その時、控えの間で待機していたアリスリンデの侍女ノアが声をかけた。
「……あのご令嬢は?」
ノアの声に潜む、不審げな調子。
ノアもその令嬢に見覚えがないのかと、アリスリンデはほっと息を吐いた。
「ノア、出ましょう」
アリスリンデはいそいそとノアを伴って、セオドアの部屋を後にすると、王宮の回廊に出た。
回廊には王宮を訪問している貴族達も多く歩いている。
ノアはそっと、アリスリンデに声をかけた。
「アリスリンデお嬢様、休憩室でお化粧を直してから、妃殿下のサロンにお伺いいたしましょう」
「そうね」
アリスリンデはノアを従えて、王宮の回廊の一角に、まるで隠し部屋のように用意されている、小さな休憩室に入った。
そこにはデイベッドやドレッサー、ソファとテーブルなどが置かれていて、窓はないものの、気分が悪くなった際に休憩したり、化粧室を使ったり、化粧やドレスを直したりすることができるようになっているのだ。
子どもの頃から王宮に通い続けたアリスリンデにとっては、王宮の中はなじみ深いもの。
どこに何があるかは把握している。
「ノア、あの令嬢を知っている?」
人の目がない休憩室で、アリスリンデはようやくノアに質問した。
ノアは手持ちの巾着の中から、化粧道具を取り出し、ドレッサーの上に置いた。
ノアもまた、困惑した表情である。
「いいえ、アリスリンデお嬢様。わたくし、今まであの方をお見かけしたことはありません。———お嬢様は?」
アリスリンデもそっと首を振った。
「わたくしもなの。おかしいわね? たいていの令嬢達の顔と名前は、頭に入っているのに」
「……殿下が、どこぞで拾い上げた……とか?」
「ノア」
アリスリンデはため息をついた。
「わたくしもそう思ったのだけれど、さすがに———」
(……不安になる必要はないわ。ただ、いつもと同じだけじゃないの)
ノアが手早く化粧を直し、ドレスの着付けを確認してくれる間、アリスリンデはあれこれ頭の中で考えながら、気分が落ち込むのを避けようとしていた。
いつものように。
幼い頃に決められた、婚約者。
今となっては、なぜ自分がこの国の第二王子の婚約者に選ばれたのか、アリスリンデにはよくわからない。
家格という意味では、伯爵家は少々見劣りするのはたしかだ。
公爵家や、侯爵家の立派な令嬢は何人もいる。
しいて言えば、アリスリンデの祖父、ハノーバー前伯爵は博識な学者だった。
カール国王陛下の教育係を務めたこともあるというが。
一方、アリスリンデの父である、現ハノーバー伯爵は貴族の子弟が通う王立学院で教授を務めていた。
(よく言えば、学者肌の家系で、古い家柄。あ、それにお父様は穏やかな人柄で王宮の派閥とも無縁ね。そこがよかったのかしらね……)
目の前の鏡には、珍しい黒髪に、金色の瞳をした令嬢が映っている。
(この外見が気に入って……は、ないわね。殿下もわたくしもまだ子どもだったから)
「アリスリンデお嬢様、元気を出してください。お嬢様は、殿下の正式な婚約者なのですから。それに、ご結婚の暁には、今のように、あわよくばと殿下に近づく令嬢達もいなくなるでしょう」
ノアが微笑みながら、アリスリンデの髪を直してくれていた。
アリスリンデもつられて笑う。
「……ちょっと考えていたのよ。なぜわたくしが殿下の婚約者になったのかしらって。殿下は相変わらず、淡々とした感じでしょう?」
アリスリンデはどこか遠い目をして言う。
「わが家は伯爵家だし、学者肌で地味な家門だわ。」
ノアは目を丸くした。
「まあ。地味な家門だなんて。堅実で、誠実なお家柄ですわ。ハノーバー伯爵家は、他の家門から尊敬されておりますよ? アリスリンデお嬢様ったら、そんなことを考えていらしたんですか」
「ええ。だって、王子妃教育などで王宮に来るたびに、セオドア王子にもご挨拶に行くでしょ。週に一度は、二人でお茶を飲んで。月に一度は、国王ご夫妻がディナーに招いてくださるわ。それに夜会などの社交行事では、殿下がエスコートをしてくださるけれど———」
アリスリンデは言葉を途切らせた。
———でも、それだけだ。
特別なこと、いつもと違うことは起こらない。
二人だけの秘密のお茶会。
こっそりとお忍びでの町歩き。
突然贈られる愛情を込めたプレゼント。
そんなものは、ない。
それは小説の中だけのもの。
アリスリンデにセオドア王子から贈られるプレゼントは、誕生日などの決まった日のみで、王室の伝統とルールに則ったもの。さらに、王妃が事前に品物を確認し、そのお眼鏡に適ったものだ。
セオドアが自分自身で選んでいるとは思えない。
さらに、セオドアの異母兄であるキャメロン王太子にはまだ婚約者がいなかったために、アリスリンデにはあらゆることに、より控えめな態度が求められていた。
『セオドアより目立たないで。ましてやキャメロンより目立つなんて、許されないことよ、アリスリンデ』
王妃の硬質な声が頭の中に響き渡る。
アリスリンデは、ギュッと目を閉じる。
(夢を見ては、だめ)
(政略結婚に、ましてや第二とはいえ、王子殿下との結婚に、愛は不要よ)
(そもそも貴族令嬢の結婚は、政略結婚が主。ときめく恋は、恋愛小説や舞台で楽しむもの)
(王子妃としてふさわしい行動ができるか、それだけが大切なの)
アリスリンデは自分を戒める言葉を、何度も心の中で繰り返した。
「さ、ノア、もう行きましょう。遅れたら大変だわ」
アリスリンデは、ようやく落ち着いた様子で、王妃のサロンに向かった。
それに、と心の中で言葉を続ける。
(結婚生活には、そもそも我慢や犠牲がつきもの、なのでしょう? 家庭教師に聞かなくても、わかったわ。イングリッド王妃殿下と、フランシーン側妃様を見ていれば、それは一目瞭然)
だから、とアリスリンデは思う。
わたくしはけして、結婚に夢や希望を持ったりはしないのだ、と。
そうしてやって来た王妃のサロンだったが、そこで一人の令嬢が目に入った。
(また? あの方は、さっきの———)
見事な金髪巻き毛が揺れている。
細い体と、小さな顔。
表情のないグレーの瞳は大きく、猫の目のようだ。
まるで精巧な作りの人形のようにも見える。
『セオドア様ぁ……!』
アリスリンデの頭の中に、見知らぬ令嬢の、甘やかな声が響き渡った。




