第19話 契約条件について話し合うのは大事です
昼食のテーブルを見たアリスリンデの表情が変わった。
ガンターがアリスリンデのために用意した昼食のテーブルは、まっ茶色に染まることもなく、新鮮な野菜の緑も彩を添える、食欲をそそるような色合いに整えられていた。
「地元の湖で獲れる魚をメインに用意した。ホームメイドのピクルスを刻み込んだタルタルソースをかけた白身魚のフライのサンドイッチに、たっぷり玉ねぎとレタスを挟んでいる。それにケールのクリームスープだ」
ガンターがノックスの受け売りを完璧に記憶して説明すると、アリスリンデは目を輝かせている。
「まあ、美味しそうですわね!」
「うん、遠慮なく食べてくれ。率直に話したいこともあるし———」
白身魚のフライのサンドイッチを手に取ったアリスリンデがうなづく。
「ええ。わたくしも伺いたいと思っておりましたの。どうしてガンター様が急いでわたくしなどと結婚なさりたいのか———」
「アリスリンデ嬢、そのような言い方はしないでくれ。あの婚約破棄の場面は俺も見ていたが、あなたに過失はない」
アリスリンデは瞳を揺らせた。
「そうでしょうか……」
しゅん、とした様子のアリスリンデに慌て、ガンターはこほん、と咳をひとつした。
「実は……俺はとあるご令嬢に激しく懸想されているのだ」
「!?」
アリスリンデは、思わず顔を上げた。
激しく懸想!?
まじめな顔をしているガンターだけに、あまりにも意外でちょっと笑えてしまいそうであるが、アリスリンデはこらえた。
「と、とあるご令嬢に、でございますか?」
「そうなのだ。私とて、辺境伯家の当主として、いずれ妻を迎えなければならないことはわかっている。しかし、正直に言って、いますぐ誰でもいいから、と言うわけにはいかない」
「さようでございますね……?」
「そこで、どんな悪口雑言を聞かされても動揺せず、思わぬ事態でも平静でいられるような、そんな女性を見つけられたらと思っていた」
「な、なるほど……?」
アリスリンデは恐る恐る探りを入れてみた。
「そのご令嬢は、かなり激しいご気性のようですね?」
すると、ガンターは無言で深く深くうなづいた。
「若く、美しく、お家柄もまったく何の不足もないお方なのだ。何を思って俺のような辺境暮らしの男を追いかけ回すのか」
ガンターはそのお家柄もよろしいご令嬢に対して、つい「追いかけ回す」などと言ってしまったが、自分では気づかないようだった。
(なんだかだんだん見えてきたわ。つまりわたくしと結婚して、うまくすれば、そのご令嬢を追い払えると思っていらっしゃるのね。それに多少は嫌な思いもするだろうから、少々のことでは動揺しない、婚約破棄も何のその? のしっかりとした女性を求めている……?)
アリスリンデは困惑して眉を寄せる。
そして思い出す。
ガンターがハノーバー伯爵家に改まった様子で姿を現し、こう言ったのを。
『……きみは天性の女優だ! 天才だ! この調子で俺の理想とする強気な妻を演じてほしい!』
(……あれはガンター様の、心からの叫びだったのだわ……)
まさか、そんなにお困りだったとは。
そう思って、アリスリンデは気を引き締めた。
「でも、いいですわ。はっきりとそう、ご自分の益のために結婚してほしいと言われるのは、すっきりします。『あなたに一目惚れをした』などと言われる方が、今は信じられませんもの」
「えっ!?? いや、そうではなく———げほごほごほごほっ……!!」
アリスリンデの発言を聞いたとたん、ガンターは突然激しく咳き込んだ。
「あ。いや、すまない、アリスリンデ嬢。けしてそんなつもりでは」
「いいんですのよ。それならわたくしも切り替えられます。しっかりとお互いが考えていることをすり合わせて、契約書を作成いたしましょう。そして一年間、目標を達成できるように頑張りましょう!」
「えと。それは嬉しいのだが、アリスリンデ嬢? いささか、誤解があるようだが、その、私はそこまでしてあなたを利用しようとする人でなしでは」
「まあまあ。よろしいではありませんか。別人になるというのも、楽しそうです。わたくしもまったく新しい場所で、気分が変わりますわ。ぜひこのお話を受けさせていただきます」
アリスリンデはそう言うと、深々と頭を下げた。
「アリスリンデ嬢……」
何かが食い違っているような気がする。
ガンターは焦って額の汗を拭いているが、アリスリンデはもう彼の様子は気にせずに、用意された紙に自分が望む条件を箇条書きで書き始めていた。
学問に秀でたハノーバー家の令嬢だけあって、見事な筆致である。
「契約期間は一年間、アリスリンデはガンターの望む賢く強気な妻の役を公私共に演じる。契約期間中は、ガンターはアリスリンデの夫として振る舞い、アリスリンデを守ること。契約期間中のアリスリンデと専属侍女ノアの生活を保障すること。契約終了時にはアリスリンデの再出発への資金として、双方で合意した金額をアリスリンデに贈ること。この結婚はあくまで双方の利益にかなった契約結婚であり、肉体的な夫婦関係の伴わない白い結婚とする」
アリスリンデはにこりと笑った。
「いかがでございますか、閣下?」
ごくり、とガンターが喉を鳴らした。
「よ、よかろう。その内容で異存はない。すぐ契約書を作成する。結婚式は、三日後でいいだろうか? 一日も無駄にする必要はないからな」
アリスリンデもうなづいた。
「はい。望むところでございますわ」
契約書はその後、数時間の間にできあがった。
アリスリンデは同意し、サインをする。
ガンターもサインして、契約はまとめられた。
「結婚式は三日後。明日の午前中にドレスメーカーが来る。大体のサイズで仕立ててあるので、最終的に調整する」
「わかりました」
アリスリンデがガンターの書斎を出ると、ノアが心配そうな表情で寄り添った。
「アリスリンデお嬢様、よいのですか……? こんなにさっさと話を決めてしまって。ご両親に相談もせず」
アリスリンデは微笑んだ。
「いいのよ。わたくし、ある意味嬉しかったの。ガンター様に必要だと思われて。セオドア様には、わたくしはもう不要な存在だった。わたくしでお役に立つなら、やってみようと、そう思ったのよ」
「お嬢様———」
ノアはほうっとため息をついた。
「本当に、お嬢様はお人好しです。わかりました。お嬢様がそうお決めになったことなら、わたくしも最後までお供をいたしますよ」
「ありがとう、ノア。心強いわ」
そうして二人で話しながら歩いていたせいだろうか、アリスリンデはふと足を止めた。
「ねえ、ノア。わたくし達、迷子になったんじゃないかしら」
そう言われて、ノアもあわてて周囲を見回す。
屋敷の中はしんとして、目の前には、中庭に降りるドアが開かれたままになっていた。
「少しお庭を見てもいいかしら。向こうにある建物は、何か知っている?」
中庭に降りると、アリスリンデは前方を指さして言った。
「あれは……離れと呼ばれている建物ですわ。ガンター様の義母、前伯爵夫人とそのお子さんが暮らしているとか」
「お子さん……つまり、ガンター様の義弟、ということかしら」
「ええ。そうだと思います」
二人は庭に立って離れを眺めた。
主屋との間には木が植えられているため、離れの様子はよく見えない。
それでも、白く塗られた外壁と、ドーム型の屋根が見えた。
主屋からは離れに向かって回廊が続いている。
今も一人の召使いが、お茶の用意だろうか、慎重にワゴンを押して離れに向かっている。
「そういえば、ガンター様はご家族のことはお話にならなかったわ。説明するとおっしゃっていたような気がするのだけれど。わたくし、ご挨拶もまだしていない。結婚式には出てくださるのかしら」
アリスリンデは戸惑ったように離れに視線を向ける。
代替わりをして、前当主夫妻が住まいを変える。領地に引っ込んだり、主屋の主寝室を譲るのはごく一般的なことである。
しかし、ガンターの義弟はまだ若いはず。
それに、ガンター自身も未婚なので、家政を取り仕切る女性が必要なようにも思えるが———。
アリスリンデはくるりと踵を返すと、主屋に戻り始めた。
「ガンター様がいずれ説明してくださるでしょう。ノア、わたくし達もお茶にしましょう」
「はい、アリスリンデお嬢様」
その後アリスリンデとノアは、偶然、侍女長のグレースと出会い、今度こそしっかりと部屋への戻り方を教わったのだった。




