第14話 湖にて
「アリスリンデ嬢、休憩にしよう」
馬車が止まると、いつの間に来ていたのか、ガンターがドアを開け、アリスリンデに手を差し出した。
戸惑いながらアリスリンデが馬車を降りると、ずっと馬車の窓から眺めていた大きな湖が、目の前に広がっていた。
「…………!!」
「もう明日には屋敷に着くし、屋敷は湖から少し離れたところにある。ここほど眺めがよくないからな。時間にも余裕があるから、少し休憩するといい。今、お茶を入れさせている。湖を見たことは?」
アリスリンデはまるで海のように広がる広大な湖の光景に驚きながら首を振る。
「いえ……これほど大きな湖は、初めて見ます」
「そうか。よければ水際まで案内しよう。先にお茶を飲むといい」
そう言って、ガンターはアリスリンデを天幕を張った下に連れて行った。
そこには小さなテーブルと椅子が用意されていて、すでにお茶菓子が並べられていた。
「ガンター様もご一緒に」
アリスリンデが言うと、ガンターは少し考えて、椅子に腰を下ろした。
「今日は風が穏やかでよかったな」
「ええ、本当に」
まるで古くからの知り合いのような、何気ない会話を交わした後は、沈黙が落ちた。
お茶を飲み終わると、ガンターはアリスリンデを馬に乗せて、湖の岸辺まで連れて行った。
「歩きにくいと思うから、気をつけろ」
ガンターがアリスリンデの肘に手を添えながら注意する。
たしかに、岸辺は、何か小さな丸石で一面に覆われていて、アリスリンデの小さなヒールの付いた靴では歩きにくかった。
「この石、きれいですわね。透明なのや、青や緑や……いろいろな色があって……キラキラしていて。どんな種類の石なのかしら」
「水晶だ」
「ええ!?」
アリスリンデは呆然として、広々とした岸辺をぎっしりと覆っている、半透明でつややかな丸い小石を見つめた。
「これが全部、水晶……まあ。すごいお金持ちになったような気がしますわ」
「水晶といっても、等級があるらしい。すべてが宝石になるわけではないようだぞ? ———とはいえ」
ガンターはアリスリンデの言葉に苦笑すると、大きな手で近くの石をいくつか拾って、アリスリンデに渡した。
「無料だ。いくつか持って帰るといい」
「ふふ。ありがとうございます。ノアもきっとびっくりするでしょうね」
アリスリンデは持っていた小さな巾着の中に、そっと水晶を入れた。
「この湖は水がきれいで、魚もたくさん獲れる。このあたりでは魚料理が有名だ。あとビールとチーズも名産だな。夏は水泳をしたり、ボートに乗って洞窟巡りもできる。まあ、来年の話になるが……。今年はもう水遊びのシーズンは終わりだ」
「まあ」
ガンターは少し考え込んだ。
「気は進まないかもしれないが、水泳は覚えた方がいいかもしれない。その方がボート遊びの時も安心だからな」
不思議そうな顔のアリスリンデに、ガンターはゆっくりと説明した。
「湖は深い。万が一落ちた時に、もし泳げないと命に関わるかもしれないだろう?」
「あ」
言われてみれば、そのとおりだ。
さぞかし王都の何も知らないお嬢さんと思われただろう。
アリスリンデは顔を赤らめたが、ガンターは表情を変えることなく、湖の話を続けた。
「冬は湖が凍る。氷に穴を開けて、魚を釣るんだ。それにそりに乗ったり、スケートをしたりもできる」
「……素敵ですわね」
そう相槌を打ちながら、アリスリンデはガンターを見上げて、気づいた。
ガンターはただ、アリスリンデの心配をしてくれただけなのだ、ということに。
(てっきり、ガンター様は女性が苦手でいらっしゃるのかと思ったのに。すごく自然に話してくださるのね。領地のことを話してくださって、きっとわたくしの気持ちを盛り上げようとしてくださっているのかも)
しかし、そう思ったとたん、ガンターは不自然に咳をすると、口ごもりながら続けた。
「と、ところで、この先のことなのだが———屋敷に着いたら、ゴホン、まず結婚式の準備をしよう。で、できるだけ早くに結婚したい」
アリスリンデはぼんやりと考えに耽っていた意識を、現実に戻す。
「ええ。結婚式ですわね。もちろんですわ」
「あなたの家族が参列しないのは申し訳ないのだが、早めに既成事実を固めたい」
「わかりました。大丈夫ですわ」
「———詳しいことは、また屋敷に着いてからにしよう。話したいこともあるのだが、それもその時に」
そう言われて、アリスリンデはうなづいた。
「ひとつだけ、聞いておきたいのだが。考えが変わったりは、していないか? 今ならまだ引き返せる。もし、やはり契約結婚は難しいと思ったのなら———」
「大丈夫ですわ」
「しかし、ご家族は」
アリスリンデはそっと湖の向こうに視線を投げた。
「わたくし、あなたと離婚したら、外国に留学にでも行こうかと思っていますの」
離婚、という言葉に、ガンターは一瞬、肩を揺らした。
アリスリンデは微笑んだ。
「家族も、わたくしが目の前にいなければ、文句を言うこともできないでしょう? しばらく社交界から逃げるのもいいかと思って———わたくしの家族は大丈夫です。若い頃、お祖父様も、お父様も外国に留学していたんですのよ。ふふ、どうぞ心配なさらず」
湖は大きく、水平線が広がるその光景は、まるで海のようだった。
たしかに、波はなく、穏やかな水面なのだが、それでも風に吹かれて、岸辺に水が寄せられてくる。
アリスリンデはこんな壮大な景色を初めて見た。
「美しい所ですのね。わたくし、楽しんで一年間過ごせそうです」
「アリスリンデ嬢」
アリスリンデは微笑んだ。
いつのまにか逆転して、今はアリスリンデの方が落ち着いている。
「……その呼び方もご相談しないといけませんわね。夫婦になるのですから」
「そうだな」
ガンターがふと空を見上げた。
つられてアリスリンデも、空を見上げた。
辺境では、王都よりも大きな空が広がっているように見えた。
「体を冷やしてはいけない。そろそろ戻ろう」
ガンターはアリスリンデを馬の背に乗せると、軽々と自分もその後ろに飛び乗って、休憩地に戻った。




