第9話 :パトラッシュ
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その朝、私はいつものようにアーサーを朝食に誘おうと、部屋を出た。
「バウッ!」
え? この声は——。
「うわああああっ!?」
今度はアーサーの悲鳴!
「アーサー!」
私は慌てて走り出した。
隣の部屋、ノックの返事も待たずに扉を開けると——。
「ペロペロペロペロ!」
「ひゃっ、ちょっと、待って——」
そこには、ベッドの上、顔中を舐めまわされているアーサーがいた。
舐めているのは——光を反射して青みがかる美しい銀色の毛並み。琥珀色の瞳。
「パトラッシュ!?」
驚きと嬉しさで声が弾んだ。
え、でもなんでここに!? お祖父様と一緒に魔の森まで討伐に出かけているはずじゃなかったの?
パトラッシュが私の声に気づき、ピタリと動きを止めて振り返る。
その瞬間、琥珀色の瞳が、パアッと輝いた。
「バウウ!」
嬉しそうな声を上げて、ベッドから飛び降りると一目散に私に駆け寄ってくるパトラッシュ。
「おかえり、パトラッシュ!」
私も両手を広げて膝をつき、迎え入れるようにその体に抱きついた。
パトラッシュは一瞬で大型犬モードになって、ブンブンと千切れんばかりに尻尾を振りながら、私の顔をペロペロ舐める。ふふふ、本当にかわいい。
良かった、無事に帰ってきてくれて。
「ハ、ハルカ……が飼ってる犬? パトラッシュって言うの?」
よだれでベトベトになったアーサーが、戸惑いながら尋ねる。
私はハッと我に返った。ああ、朝の洗顔がヨダレの洗礼になっちゃった。
慌ててアーサーに駆け寄り、急いでベッドサイドに用意してあった、水桶にタオルを浸し、顔を拭こうとする。けれど、「大丈夫、自分でやれるよ」とアーサーはバスルームに姿を消してしまった。
「パトラッシュ、やりすぎよ」
パトラッシュの前に座り、視線を合わせて注意をすると、パトラッシュはクウンと一声鳴いて、尻尾を丸めて目をうるうるとさせた。
「もう、アーサーは私の家族で、大きくなったらお婿さんになるんだから、仲良くしてね」
そう言うと、パトラッシュはなぜかフイッと視線を逸らし、私の膝に甘えるように頭を乗せた。「もう、甘えん坊さんね」と言いながら、私もその柔らかな毛並みに顔を埋める。久しぶりのパトラッシュの匂い。お日様みたいないい匂いがした。
「お待たせ、ハルカ」
支度を整えたアーサーがバスルームから姿を現す。私は、きちんとパトラッシュを紹介することにした。
「アーサー、驚かせてごめんね。この子はパトラッシュ。3歳の頃から一緒に暮らしている、私の大事な家族の一人。シルバーフェンリルのこどもなのよ」
「え?シルバーフェンリル?…て、あの魔獣だよね?え?犬じゃないの?」
それもそうか、と、私は食堂に向かいながらパトラッシュのことを説明した。
「パトラッシュはね、一年半くらい前にお祖父様が拾ってきたの」
私はパトラッシュの頭を撫でながら話し始めた。
「一年前、魔の森に地龍が現れたの。ドラゴンほどではにけど、レッドベアより大きくて、すごく強い魔物」
「地龍……」
アーサーが興味深そうな顔をする。
「うん。お祖父様とお父様、それにお母様も協力して、やっと倒したの。でも、その戦いで……」
私は少し言葉を選んだ。
「縄張り争いで負けたシルバーフェンリルがいたの。地龍に追い出されて、大怪我をしていて……生まれたばかりの子を残して、亡くなってしまったの」
「……」
アーサーが息を呑んだのがわかった。瞳が悲しそうに揺れている。
この話はしないほうが良かったかな…でも。
「その子が、パトラッシュ。お祖父様が見つけた時、すごく小さくて、弱々しくて。このままじゃ死んじゃうって、屋敷に連れて帰ってきたの。その時にね、私、この子の『お母さん』になったんだ」
私は、勤めて明るい声を出した。アーサーもパトラッシュも、大事な私の家族だもの。ちゃんとお互いを認め合ってほしい。
私はパトラッシュの方を見てにっこり微笑んだあと、アーサーに視線を戻し、話を続けた。
「最初は本当に大変だったの。ミルクも飲めなくて、ずっと震えてて。私、毎晩一緒に寝て、温めてあげたんだ」
そう、あの時は本当に心配だった。私もまだ今より小さくて、体力がなかったから、ずっと起きていられなくて。夜中に何度も目が覚めて、パトラッシュが息をしているか確認した。
少しずつミルクを飲めるようになって、少しずつ元気になって。
今ではこんなに大きくなった。
「パトラッシュって名前も、私がつけたのよ」
いい名前でしょう?と促すと、アーサーはコクンと頷いてくれた。
アーサーも気に入ってくれたかな。「パトラッシュ」は前世で見た某アニメの大好きだったキャラ。本当は「ヨーゼフ」も捨てがたかったんだけど、ヨーゼフはアルプスで十分幸せそうだったからね。今世、一緒に生きるならパトラッシュにしようと決めた。
それにね、と私は話を続けた。
「シルバーフェンリルは、大きくなると馬より大きくなるの。だから、いつかパトラッシュに乗せてもらって、一緒に冒険できたらいいなって」
私が夢を語ると、アーサーの瞳が輝いた。
「そんなに大きくなるの? すごい……僕も、乗せてもらえるかな?」
その夢見るような呟きに、パトラッシュの耳がピクリと動いた。
そして、明らかに不機嫌そうな顔をする。
「もちろん! パトラッシュも、きっと——」
「フンッ」
パトラッシュが、鼻を鳴らした。
「パトラッシュ?」
私が問いかけると、パトラッシュはくるりと向きを変えて、アーサーに背中を向ける。
あ、これは……。
「パトラッシュ、アーサーは大切な家族なんだから、仲良くしてってお願いしたでしょ?」
私が優しく諭すと、パトラッシュは渋々という感じで、もう一度アーサーの方を向いた。
でも、その目は「認めないからな」と言っている。
アーサーは戸惑ったような顔をして、視線を床に落とした。
「あの、パトラッシュは……僕のこと、嫌い?なのかな…」
「ううん、そんなことないよ! ただ、初めて会ったから、ちょっと警戒してるだけ。きっとすぐに仲良くなれるよ」
そう言うのが精一杯だった。
もう、パトラッシュったら。
もしかして、アーサーに嫉妬してる?
私がアーサーと仲良くしてるから、取られたって思ってるのかな。
パトラッシュは今、一歳半くらい。
まだまだ子供だもの。突然弟ができた上の子みたいに、複雑な気持ちなのかもしれないわね。
「大丈夫、しばらく一緒に過ごせば、アーサーのことも、少しずつ受け入れてくれると思うよ」
私がそう言うと、パトラッシュはアーサーに顔を向け「クゥン」と小さく鳴いた。
まあ、考えてやらないこともない、という感じだろうか。
◇◇◇
食堂に着くと、お父様とお母様が既に席について待っていた。
朝の挨拶もそこそこに、お父様がパトラッシュの姿を見つけ、目尻を下げた。
「おお、パトラッシュ! 帰ってたのか!」
その声に反応し、パトラッシュもお父様に駆け寄って——。
ペロリと手を一回だけ舐めた。
「パトラッシュ、おかえりなさい」
お母様が優しく微笑む。
パトラッシュは挨拶を返すように、今度はお母様に近寄ると、頭を擦り付けて、尻尾を振った。なんだか、お父様に対してより対応が丁寧だ。
「そういえば、パトラッシュ。父上はどうした? 一緒じゃないのか?…ん?何だこれは?」
お父様がパトラッシュの首元を見る。
パトラッシュの首輪には、小さな革袋が括り付けられていた。
「あ、手紙だ!」
私は急いで革袋を取り外した。
中には、折りたたまれた紙が入っている。
開いてみると、お祖父様の力強い文字が書かれていた。
「えっと……『討伐、無事終了。間もなく帰還する。ラオウ』……だって」
「そうか! 無事に終わったのか。よかった」
お父様が満足そうに頷く。
「お義父さまもお元気そうで何よりだわ」
お母様もほっとした様子だった。
「お祖父様、もうすぐ帰ってくるんだね!」
私が嬉しそうに言うと、パトラッシュも「ワン!」と元気よく鳴いた。
アーサーは、少し緊張したような、でもどこか嬉しそうな顔をしている。
「もうすぐラオウ様に……会えるんだ……」
「そうよ、楽しみね」と、お母様が優しく微笑んだ。
話の切れ目を見計らったように、パトラッシュが私のところに戻ってくる。
甘えたいのかな?と思って顔を向けると、
ベロベロベロ! やられた!
「わ、わ、パトラッシュ! 朝ごはん食べられないよ!」
私が笑いながら言うと、パトラッシュは満足そうに尻尾を振った。
ふと見上げると、そんな私たちを、アーサーがじっと見ていた。
少し寂しそうな顔。
ああ、もう。
「ねえ、パトラッシュ。アーサーにも挨拶してあげて」
私がそう言うと、パトラッシュは「えー」という顔をした。
「パトラッシュ」
私が少し強めに言うと、パトラッシュはしぶしぶアーサーに近づいた。
そして——。
チョン。
鼻でアーサーの手を一回だけ突いた。
「あ……」
アーサーが嬉しそうに笑う。
「ありがとう、パトラッシュ」
パトラッシュは「フン」と鼻を鳴らして、私のところに戻ってきた。
その尻尾は少しだけ振れている。
ふふ、素直じゃないんだから。
でも、これからアーサーとパトラッシュが仲良くなれるといいな。
そう思いながら、私はふわふわパンを口に運ぶ。
賑やかな朝は、今日もこうして始まった。
久々の帰宅で知らない子供の匂いを察知したパトラッシュ。気になって偵察に来たようです。
★ パトラッシュ心のヒエラルギー ★
ハルカ→お祖父様→ミランダ→タイロン→パトラッシュ→その他




