第43話:風に磨かれた塩
今日も読みにいらして下さり、ありがとうございます。
昨日は浜辺ではしゃぎすぎたせいか、部屋に戻って湯浴みをした途端、眠り込んでしまった。
どうやらアーサーも同じだったらしく、翌朝の朝食の席で、二人揃ってアルヴィン夫妻に夕食に顔を出せなかったことを詫びることになった。
「ふふ。楽しんでもらえたようで、なによりですわ」
エレノア様がそう優しく微笑んでくださり、少し肩の力が抜けた。
「残念だったのう、ハルカ。せっかく海で捕った魚や貝が食べられんかったなあ」
美味かったぞとお祖父様が、明らかに楽しそうな顔でそう言ってくるものだから、私は本気で悔しがった。
すると、エレノア様が「それなら」と言って、デザート代わりにと大アサリのバター醤油焼きを出してくれた。
「オンタリオ領から入荷した醤油が、最近こちらでも出回り始めたのよ」
そう言って、「お口に合うといいのだけれど」と勧めてくれた。
エレノア様、マジ天使——いや、聖女!
本当に本物の聖女様がここにいた!!!
私は感動しながら美味しくいただいた。
ちょっとお行儀悪いかなと思いつつ、もちろん、汁まで飲み干した——優雅にスプーンを使って。
当然、貝殻を掴んで口をつけるなんて真似はしない。
だってヒロの目が怖かったんだもん。
◇◇◇
食事が済むと、皆で馬車に乗り込み、予定通り製塩所へと向かった。
賑わいを見せていた街並みを後にすると、次第に家屋の数はまばらになり、馬車は潮風を孕んだ道を岸壁へと向かって進む。
「着いたぞ。ここが、我が領の誇る製塩所だ」
降りた先に聳え立っていたのは——。
巨大な塔。
いや、塔というよりは、巨大な「壁」に近い。
高さは十メートルを超え、長さは数十メートルにわたって連なっている。
「これが……製塩所……?」
私は、呆然とその巨大な構造物を見上げた。
「ああ。我らはこれを『風の濾過塔』と呼んでいる」
アルヴィン様が、誇らしげに説明してくれる。
「海水を、この塔の頂上から滴り落とすんだ」
「上から……?」
「ああ。近くで見てみるか?」
◇◇◇
塔の上部に案内されると、そこには驚くべき光景があった。
眼下には、壁の内部いっぱいに隙間なくびっしりと敷き詰められた大量の柴——細い木の枝やトゲのある植物が設置されていた。
「この柴の表面を伝って、海水がゆっくり、ゆっくりと流れ落ちていく」
アルヴィン様が、柴の一枝を指差しながら続ける。
「その間、海水は吹き抜ける風と接触して、どんどん水分だけが蒸発していくんだ」
「つまり……」
私は、その仕組みの全容をようやく掴み始めていた。
「落ちていく間に水分が飛んで、塩分濃度が上がる……ということですか?」
「その通り!」
アルヴィン様が、満足そうに頷く。
「塔の上から落とされた海水は、内部をゆっくりと通過する。その間に風にさらされ、水分だけが奪われていく。塔の下に集まる頃には、通常の海水よりもはるかに塩分濃度の高い『濃縮鹹水』になっている。それを最後に釜で煮詰めるわけだ」
「なるほど……これなら、煮詰める時の燃料が劇的に少なくて済みますね……」
アーサーが、感心したように呟く。
「そうだ。ソルティス領のような、広大な平地と乾燥した風土があれば、太陽の力で水分を蒸発させる『天日塩製法』が採れる。だが、残念ながら我がグランフェルト領は湿潤で雨も多い。天日干しには向かなかった」
「そこで、この濾過塔……」
「ああ。隣国から仕入れた基礎技術を元に、この土地の風に合わせて改良を重ねた」
「じゃあ、今度は下から見てみよう」
そう言って先に立ったアルヴィン様の後を追い、私たちは塔の内部階段を降りていった。
途中、彼は壁の一部を指差しながら、歩調を緩めて説明してくれる。
「外からはただの壁に見えるが、内部には計算された『風の通り道』がある。
壁は雨を遮りつつ、風だけを中へ導く構造だ。横殴りの雨は入らず、上昇気流と海風だけが抜けていく。これが、この塔の肝だな」
——なるほど。
私は心の中で、塔の断面図を思い描いた。
完全な密閉でもなく、かといって、むき出しでもない。
湿潤な気候だからこそ、雨を防ぐ「壁」と、風を逃がさない「通路」の両立が必要だったのだ。
「ソルティス領が太陽の恩恵を受けているなら、我々は『風の力』を味方につけた、というわけだ」
アルヴィン様が胸を張る。
「燃料の使用を抑えて濃度を高められる。素晴らしいだろう?」
「本当にすごいです……! でも、あんなに高い塔のてっぺんまで、どうやって海水を上げているんですか?」
好奇心が抑えきれず、私は身を乗り出した。
「いい質問だ。実は、今回の開発で最も苦労したのがそこだ」
アルヴィン様は苦笑する。
「海水を汲み上げる『揚水風車』と、それを補助する魔道具。この二つを安定して連動させる仕組みを完成させるのに、丸々三年かかった」
「三年も……!」
「ああ。風が弱い日でも止まらずに動かすには、魔道具の力が不可欠だった。だが、動力源となる魔石の安定確保が、これまで最大の壁でな」
「魔石……もしかして、今回の取引の?」
「その通りだ!」
アルヴィン様の声が弾む。
「お前さんところの商会と、安定した価格と量で取引する契約が結べた。そのおかげで、魔石を惜しみなく稼働させられるようになった。製塩コストを、限界まで抑えられる目処が立ったんだ」
「そうだったんですね……」
最後の段を降り切り、地上に足を着けた私は、改めて目の前にそびえ立つ風の濾過塔を見上げた。
壁に守られ、風に磨かれ、雨すら計算の内に取り込んだ塔。
そして、はるか頂から落ちてくる、きらきらとした海水の雫。
外からは、ゆっくりと回る風車の音が聞こえてくる。
「お前さんたちは昨日、感謝の気持ちを伝えてくれたが、俺たちにもメリットはある。俺たちだけではなく、実際に塩を手に取る領民たちにもな」
「作る人、売る人、使う人——みんなが嬉しくなる素敵な取引だったんですね!」
「そうだ。商売も、政治も基本はそれだ」
アルヴィン様が、真剣な顔で私たちを見る。
「お前たちは将来、人の上に立つ立場にある。だから、よく覚えておけ——自分だけが得をするやり方は、いつか行き詰まる。ハルカの言う通り、作る人も売る人も、使う人も、みんなが幸せになる道を探せ。そこに手を抜くんじゃないぞ」
「「はい!」」
よし、いい子だ——そう言って、両手で私たちの頭をワシワシと撫でてくれた。
お陰で頭はボサボサになったけれど、素敵な話を聞けて、私たちは晴れやかな気持ちで塔を後にした。
◇◇◇
次に、アルヴィン様が自信満々に案内してくれたのは、塔の裏手に建つ石造りの工房だった。
そこには、濾過塔で濃縮された「濃縮鹹水」を煮詰めるための大きな平釜が並んでいた。
工房の扉を開けると、むせ返るような白い湯気と、潮の香りが私たちを包み込んだ。
「さあ、出来上がったばかりだ。見てくれ」
アルヴィン様に促され、私たちは釜の傍らへと歩み寄る。
そこには、丁寧に水分を飛ばされ、うず高く積み上げられたばかりの「塩」があった。
「わあ……きれい……」
思わず感嘆の声が漏れた。
その塩は、私がこれまで見てきたものとは明らかに違っていた。
ソルティス領の天日塩が、どこか土の匂いを残した灰色がかった大粒の結晶であるのに対し、目の前の塩は、まるで新雪のように純白で、一粒一粒が細かく、真珠のような輝きを放っている。
「手にとってみてもいいですか?」
「もちろんだ。遠慮するな」
指先で一掴みし、光に透かしてみる。
不純物が一切混じっていない、透き通った結晶だ。
私はそれを、そっと舌に乗せた。
「……っ、おいしい」
まず感じたのは、刺すような鋭い塩辛さではなく、舌の上でふわっと溶けるような、まろやかな風味だった。
そして、その後に追いかけてくるのは、ほのかな甘みと、深い海のコク。
「ただ辛いだけじゃないんですね。すごく……優しい味がします」
「ははは! 違いがわかるか。濾過塔で柴の枝を伝わせる際、風だけでなく、木の成分も微かに影響しているのかもしれん。そして何より、魔道具による精密な温度管理で、雑味が出る前に一気に結晶化させているからな」
アーサーも横から指を伸ばし、味を確かめるなり、目を見開いた。
「これほどの品質、王宮や貴族の料理人たちが放っておきませんよ。ソルティスの塩が『庶民の必需品』なら、これは間違いなく『貴族の愛用品』になる……いや、コストが抑えられるなら、市場を根こそぎ奪いかねない」
「嬉しいことを言ってくれるな」
一瞬だけ嬉しそうに目を細めたアルヴィン様は、やがて冷徹な経営者としての、そして民を守る王族としての強い光をその瞳に宿し、私たちを真っ直ぐ見つめた。
「ソルティス領はこれまで、市場の独占を盾に塩の価格を自在に操ってきた。だが、それも間もなく終わりだ。この『新しい塩』が出回れば、あいつらの塩の価値は一気に下がる。その影響力もな」
私は、手のひらに残った白い粒を見つめた。
強い海風と、長い歳月をかけて考え抜かれた技術、そして私たちが運んだ魔石の力。
それらすべてが結晶となったこの小さな一粒が、これから王国に大きな嵐を巻き起こすに違いない。
「ただし」
アルヴィン様が、顔を曇らせる。
「まだ生産量という点においては、あいつらの足元にも及ばない。せめて今の倍は生産できるようにならなければ、市場を混乱させるだけだからな……残念ながら、やつらに取って代われるのは、早くても数年は先になるな」
「だからこそ、今は“量より質”だ」
アルヴィン様は、白い塩を指先で転がしながら続けた。
「現状、この塔で作れる量では、庶民の台所すべてを支えることはできん。
柴の交換や魔道具の稼働にも手間と費用がかかる。——正直に言えば、今はまだ高級塩の部類だ」
「では……王都向け、ですか?」
私が尋ねると、アルヴィン様は頷いた。
「まずは王宮や上流層に的を絞る。王侯貴族や料理人に価値を理解させ、利益を確保する。
その利益で設備を増やし、柴の交換コストも無理なく吸収できるようにする」
「それで、生産量を……」
「ああ。量が増えれば、価格は必ず下げられる。
最終的には、ソルティスの塩に依存せずとも、全ての民が日常で使える塩にするつもりだ」
その言葉には、遠い理想ではなく、現実を見据えた確信があった。
「今は奴らの独占状態に一石を投じる段階。
だが、近い将来、独占は必ず崩れる——いや、崩してみせる」
アルヴィン様はそう言って、ニヤリと笑った。
◇◇◇
話を聞きながら、私は考えていた——
根本的な原因。それは、塩の産地が少なすぎることだ。
アルヴィン様が財力と権力を投じ、それでも完成までに五年を要したこの事業。
同じことを成し遂げられる者は、この国にそう多くはない。
ならば、今の状況を変えるにはどうすればいいのか。
国に介入してもらうのか、それとも——。
ふと隣を見ると、アーサーもまた、静かに考え込んでいた。
あの夜。
塩の問題が持ち上がり、執務室で自分の立場と責任に向き合っていた彼の姿が、脳裏によみがえる。
——俺にできることを考える。
——今、やるべきことを。
あの時は、まだ答えに辿り着けなかった。
けれど今は違う。
アルヴィン様が示してくれたのは、単なる製塩技術ではない。
目の前の問題をどう受け止め、公の利益へと昇華させるか。
王族として、今いる場所で何を為すべきか——その生きた答えだった。
アーサーにも、同じ景色が見え始めたのかもしれない。
その瞳は、まっすぐにアルヴィン様の背中を見据えていた。
今年最後の投稿となります。
10月に連載を始め、途中で少しお休みを挟みつつも、気づけばあっという間に大晦日を迎えていました。
ここまで続けてこられたのは、読んでくださる皆さまの存在があってこそです。本当にありがとうございます。
いただいた感想や反応が、日々の励みになっていました。
改めて、心より感謝申し上げます。
来年も引き続き、お付き合いいただけましたら幸いです。
皆さまにとって、新しい一年が幸多きものとなりますように。
それでは、よいお年をお迎えください。
╰(*´︶`*)╯♡♡♡




