第41話:グランフェルトの海風
王都レジナルドからの転移を終え、グランフェルト領の転移陣が設置された建物を出た瞬間、少し湿り気を帯びた風が頬を撫で、潮の香りが鼻をくすぐった。
その明らかに異なる空気に、ようやく王都を発ったのだと実感する。
「やっと来れた……」
挨拶に寄るだけのつもりだった王宮で、思いがけず足止めを食らい、気がつけばお祖父様を囲んでの交流会——いや、ほとんど宴会のような状態になっていた。
これ以上「訓練をしてくれ」「サインをくれ」と捕まるわけにはいかないと、早朝の王宮を慌ただしく後にしての、今である。
(……でも、楽しかったな)
客室とは別に、アーサーには専用の部屋も用意されていた。けれど、王宮の警備体制にわずかな不安が残っていたため、結局は皆で固まって泊まることになったのだ。
アーサーはお祖父様とヒロと同室、私はルナと一緒。
少し窮屈ではあったけれど、どこか修学旅行のようで——それはそれで、悪くなかった。
(アーサーも、お兄様と打ち解けられたみたいで良かった)
お祖父様の演舞に、並んで目を輝かせていた二人の姿を思い出す。
やっぱり兄弟なんだな、と自然と頬が緩んだ。
慌ただしくはあったけれど、立ち寄って良かった。
そう素直に思える滞在だった。
——それにしても。
久しぶりの、海。
鼻先をくすぐる潮の香りに、意識が引き戻される。
遠くから聞こえてくる波音が、胸の奥をくすぐった。
思い出されるのは、息子たちを連れて出かけた夏の海水浴場。
人でごった返す浜辺、海の家で借りたパラソルの下、レジャーシートを敷いて子どもたちを見守ったあの日。
サンダルを波に攫われ、泣き出す末っ子。必死にそれを取り返そうと駆け出す長男。
イカ焼き、大アサリ、かき氷……競い合うように齧り付く子供たち。
思い出すだけで、自然と笑みが溢れる。
「これが……海の匂い……」
隣では、アーサーも同じように深く息を吸い込んでいた。
オンタリオ領とはまったく違う、塩を含んだ湿った空気。
遠くで、波が砕ける音が聞こえた。
「ようこそ、グランフェルト領へ!」
朗らかで、よく通る声が響いた。
振り向くと、白髪混じりの金髪を短く整えた、がっしりとした体格の男性が立っていた。
深い青の瞳が、優しく笑っている。
「アル!」
お祖父様が、嬉しそうに駆け寄る。
「ラオウ、久しぶりだな!」
二人は力強く抱き合い、肩を叩き合って再会を喜んだ。
その隣には、銀髪の美しい女性が穏やかな微笑みを浮かべている。
「エレノア様……」
お祖父様が、丁寧に頭を下げる。
「お久しぶりです、ラオウ様。リリーがいなくなって、寂しくなりましたわね」
「ええ……」
一瞬だけ、お祖父様の表情が翳る。
けれど、すぐに柔らかな笑みを取り戻した。
「ですが今は、孫たちに囲まれて賑やかに過ごしております——紹介させてください」
そう言って、私たちは二人に引き合わされた。
習った通りの挨拶をすると、二人は眩しそうに目を細め、「よく来てくれたな」と頭を撫でてくれる。
アルヴィン様がアーサーと視線を合わせ、自分は大叔父にあたるのだと告げると、アーサーは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
けれどすぐに、少し照れたように、けれど確かに嬉しそうに——
「……大叔父上」
と、小さくそう呼んだ。
二台に分かれて馬車に乗り込み、海沿いの道を屋敷へと向かう。
私とアーサーは、お祖父様を挟んでアルヴィン夫妻と同じ馬車に乗った。
窓の外に広がるのは、どこまでも続く青。
白い波、空を舞うカモメ。
「わあ……」
私とアーサーは、すっかり見入ってしまった。
「海……本当に、こんなに大きいんだ……」
「美しいだろう?」
アルヴィン様が、嬉しそうに笑う。
「屋敷の裏手から海岸へ降りる道がある。疲れていなければ、昼餐の後にでも、ゆっくり見に行くといい」
「ありがとうございます!」
胸が弾むのを抑えきれず、少し返事が大きくなってしまった。
「二人とも、海鮮料理はお好きかしら?」
「大好きです! 楽しみにしていました!!」
思わず身を乗り出して答えると、エレノア様がくすりと微笑んだ。
「ハルカ嬢は、リリーによく似ているわね」
「ああ、ワシもそう思う」
お祖父様が「な?」と言いたげにこちらを見る。
「見た目もだが、言動がどこか似ておる——こんなに食いしん坊ではなかったがな」
その一言に、アーサーが窓の方を向いて小さく笑った。
……ちゃんと見てるからね。
そうして会話を楽しんでいるうちに、馬車はあっという間に目的地へと到着した。
門をくぐると、白壁の屋敷がゆったりと姿を現す。
赤茶の瓦屋根と、柔らかな曲線を描く回廊。
陽光を受け止めるような、開放的な佇まいだった。
正面玄関から足を踏み入れた瞬間、円形の噴水を中心に据えた中庭が視界に広がった。
案内に従って回廊を進んでいくと、柱や壁際には色とりどりの花があふれ、蔦や鉢植えが白壁を鮮やかに彩っていた。
湿り気を含んだ暖かな風が花の香りを運び、この地が穏やかな気候に恵まれていることを、自然と感じさせた。
「……綺麗」
思わず漏れた声に応えるように、噴水の水面がきらりと揺れた。
部屋に案内され、昼食までしばし休憩を取ることになった。
海の見える大きなバルコニーへ続く扉を開けた瞬間、むっとするほど濃い潮の香りが押し寄せる。
「海だ〜」
思わず声を上げ、そのまま外へ飛び出した。
白波がきらめき、カモメが賑やかに鳴き交わす。
浜辺には椰子に似た背の高い木々が並び、その足元には、オンタリオ領では見たことのない鮮やかな花々が咲き誇っていた。
異国情緒あふれる景色に、私の気分はさっきから上がりっぱなしだ。
「お嬢様、そろそろ湯浴みをして、昼餐の準備をいたしましょう」
名残惜しく海から離れ、言われるままに支度を整える。
髪を結い終えた頃、控えめなノックの音が響いた。ちょうど迎えが来たようだ。
案内されたのは、海に面した大きなテラスのある部屋だった。
白いクロスのかかったテーブルには、すでにお祖父様とグランフェルト前公爵夫妻が席についている。
私に続いてちょうど部屋に入ってきたアーサーと並んで腰を下ろす。
それを合図に、料理が次々と運ばれてきた。
まず並べられたのは、艶やかな魚介の前菜だった。
軽く湯通しされ、薄く切られた白身魚は柑橘の香りがほのかに漂い、貝類はぷりっとした身を輝かせている。彩りを添えるのは、ハーブと鮮やかな野菜、そしてきらめくようなオリーブオイル。
続いて、大皿に盛られた魚介の煮込みや、香ばしく焼き上げられた海老と白身魚のグリルが運ばれてくる。 湯気とともに立ちのぼる潮の香りに、思わず喉が鳴った。
「これは……間違いなく美味しいやつだ」
小さく呟いた私に、お祖父様が楽しそうに笑う。
グランフェルトの海の恵みをふんだんに使った昼餐は、目にも舌にも贅沢で、旅の疲れをすっかり忘れさせてくれるものだった。
食後、お茶が用意されると、お祖父様が居住まいを正す。
「この度のオンタリオ領への助力、本当に感謝している」
そう言って、深く頭を下げたので、私も慌ててそれに倣った。
そこから、今回の経緯や塩の開発に至る話が語られる。
他国では海水から塩を作る国は少なく、大抵は岩塩の採掘が主流なのだという。
それゆえ、この技術にたどり着くまでには、かなりの時間がかかったそうだ。
「いつから考えておったんじゃ?」
お祖父様が、感心したように疑問を口にする。
アルヴィン様の表情が、引き締まったものへと変わった。
曰く、ローズ王妃が亡くなった後、エリザベス妃が立后すると聞いた時からだと言う。
この国は『塩』をソルティス領に依存しすぎている——生活に必要不可欠な塩を一領地に委ねるなど、生殺与奪権を与えるようなものだと、アルヴィン様は昔から危惧していたそうだ。
そこに来て、立后。
その子が王位にでも就こうものなら、ソルティス家に権力が集中しすぎる。
息子に爵位を任せ、諸々の重責から解き放たれた今、臣籍降下したとはいえ、元王族として、国のためにもう一肌脱ぐべきだと思った——とのことだった。
その言葉に、お祖父様が深く頷く。
今回、アルヴィン様が危惧していた事態は現実となった。
だが——それでも、間に合って良かったのだと彼は言う。
「素晴らしい先見の明だな。流石はリーダーじゃ」
お祖父様がそう称賛を贈り、続けて、
「おかげで助かった。本当に感謝している」
と、改めて深く頭を下げた。
「感謝は受け取るが、賞賛は明日、自慢の製塩所を実際に見てからにしてくれ」
アルヴィン様はニヤリと笑う。
その笑顔は、自らの技術と積み重ねてきた努力への揺るぎない信頼と自信に満ちていた。




