第38話:兄弟の距離
本日はアーサー視点のお話です。
転移陣のある建物を出た瞬間、石畳の冷たい感触と、どこか張り詰めた空気が肌に触れた。
「……ここが、王都……」
思わず、そんな呟きが漏れる。
オンタリオ領で過ごすようになってから、初めて足を踏み入れる王都レジナルド。
目に映るその景色は「初めて」ではないはずなのに、「懐かしさ」や「安堵」はどこにもなく、どこか余所余所しささえ感じた。
王宮へと向かう大通りを、進む馬車の窓から、街の様子を眺めた。
たくさんの店、商品の数も多い。
行き交う人々はみな身綺麗ではあるが、余裕がなさそうで——泥だらけになりながら楽しそうに働くオンタリオ領の領都や農村の人々とは、どこか様子が異なって見えた。
◇◇◇
王宮の門をくぐり、馬車が正面玄関へと着けられる。
中に入ると、磨き上げられた床、高級そうな調度品、そして整然と並ぶ侍従たちが僕たちを待っていた。
案内に従い、王の執務室へと向かう。
一年十ヶ月ぶりの王宮。
執務室へ至る廊下。
すれ違う侍従や騎士たちの視線。
ひそひそと交わされる囁き。
——第二王子。
——あの子が、戻ってきたのか。
かつて、好奇と警戒、そして時に冷ややかな憐れみを含んで向けられた視線。
それらが、記憶の底から否応なく蘇る。
僕は、思わず拳を握りしめた。
——ああ、そうだ。
——ここでは、いつもこんな風に見られていた。
「アーサー」
隣を歩くハルカが、そっと僕の手に触れる。
「大丈夫。今は、私たちも一緒だよ」
その言葉に、自然と肩の力が抜ける。
そうだ。
もう僕は、一人じゃない。
ラオウ様もヒロもルナも、周囲を警戒しながら僕たちの後ろを歩き、温かく見守ってくれていた。
◇◇◇
王の執務室にたどり着く。
案内してくれた侍従がノックをして許可を得ると、目の前に聳え立つ大きくて重々しい扉が開かれた。
ヒロとルナを扉の前に残し、三人で部屋に入る。
王宮を去ることが決まったあの日、初めて入った父上の執務室。
高い天井、深い色合いの木製家具、壁に飾られた歴代王の肖像画。
どれも記憶の中と同じはずなのに、僕の胸はわずかに強張っていた。
「よく来てくれたな」
執務机から立ち上がった父上が、穏やかな声で告げる。
ハルカが美しいカーテシーを行い、ラオウ様も片膝をついて右手を胸に当て、頭を下げる臣下の礼をとった。
「ご無沙汰しております、陛下。アーサー・エヴァーランドがご挨拶申し上げます」
僕もそれに倣い、片膝をつき、頭を下げようとしたが——。
「アーサー、お前は息子だ。膝をつく必要はない」
父上が、そう言って止めてくれた。
「ラオウ殿もハルカ嬢も、楽にしてくれ」
立ち上がったラオウ様が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「この度は、塩の件におきまして、多大なるご助力を賜り、誠にありがとうございました。領民一同、心より感謝しております」
「うむ」
王は満足げに頷いて、ソファを勧めてくれた。
僕らは促されるままに腰を下ろす。
「困難にある者を見捨てぬのは、王家の務めだ。それに——」
父上の視線が、僕へと向けられる。
「お前のいる場所が脅かされるとなれば、なおさらな」
「……ありがとうございます、父上」
僕は、ぎこちないながらも、なんとか笑顔を作って返した。
◇◇◇
コン、コン。
暫くの歓談に一区切りがついた頃、控えめなノックの音と共に、扉が開いた。
姿を現したのは——。
「失礼いたします」
レイノルド兄上だった。
記憶の中より少し背が伸び、体つきもしっかりしている。
でも、間違いなく兄上だった。
背筋をまっすぐ伸ばし、王太子としての威厳を纏った姿。
けれど、その表情には、どこか緊張が滲んでいるように見える。
僕は一瞬だけ、息を呑んだ。
——兄上。
胸の奥が、きゅっと縮む。
忘れようとしていた記憶が、鮮やかに蘇る。
——冷たい言葉。
——向けられなかった視線。
——置き去りにされた夜。
レイノルドの視線が、室内を巡り、そして僕の姿を捉える。
わずかな沈黙。
「久しぶりだな、アーサー。……大きくなったな」
低く、慎重な声。
それでいて、どこか懐かしむような、痛むような響きを孕んでいた。
「……はい」
短く答えたものの、胸の奥がざわつく。
ラオウ様とハルカが立ち上がって挨拶を述べる。
けれど、僕はソファから動くことができず、呆然とその様子を見るともなしに見ていた。
すると——。
父上が、静かに席を立った。
「私は少し席を外そう。兄弟で、話すといい」
そう言って、ラオウ様に声をかけ、連れ立って部屋を出て行ってしまった。
残されたのは、兄上とハルカと僕。
「私も席を外します」
慌てて立ち上がり、出て行こうとするハルカの手を僕は咄嗟に掴んだ。
側にいて欲しい——そう視線で伝える。
ハルカはコクリと頷き、ストンと隣に座り直してくれた。
重い沈黙が、室内に落ちる。
やがて——。
「其方に今までの事を謝らせてほしい……すまなかった」
突然兄上が、深く頭を下げた。
「え……」
僕は、驚きのあまり言葉も出せずに固まった。
「母上のことも、王宮でのことも……僕は、見て見ぬふりをしていた。僕の対応は間違っていた」
顔を上げた兄上の瞳には、ただ後悔の色が宿っていた。
「悲しみをぶつける相手を探して、お前に背を向けた。そんな僕の弱さが、お前を余計に苦しめていたことに、やっと気づくことができた」
遅くなってしまったがな——と自嘲めいた苦笑を漏らし、兄上が再び頭を下げる。
「本当に、すまなかった」
しばらく、僕は言葉を失っていた。
——謝られるなんて、思っていなかった。
——理解される日が来るなんて、想像もしていなかった。
胸の奥が、じんと痛む。
ハルカが、そっと背中に手を添えてくれた。
僕はその温もりを背中に感じながら、ただ、兄上を見つめていた。
逃げ出したい衝動。
責めたい気持ち。
それでも——。
オンタリオ領での日々が、脳裏をよぎる。
温かい食卓。
名前を呼ばれる安心感。
「一人じゃない」と教えてくれた人たち。
僕は、ゆっくりと口を開いた。
「……兄上」
その呼び方に、兄上の肩がわずかに震える。
「俺は……この王宮で、ハルカに出会うまで、『自分はいない方がいい存在なんだ』と思っていました」
込み上がってくる涙を堪えながら、僕は震える声で続けた。
「いつか自分が消えてしまったとしても、きっと誰にも気づかれない。誰も気にしない——そう、思っていました」
兄上の表情が、苦しげに歪む。
「だから、熱が出て、苦しくて、もうダメかもしれないと思った時——僕は、安堵しました」
その言葉に、兄上が息を呑む。
「やっと、母上に会いに行ける。やっと、父上や兄上に迷惑をかけないですむ、と」
僕は、まっすぐに兄上を見た。
「ここでの生活は、それほどまでに辛かったし、寂しかった——だから、ハルカに会って、手を差し伸べてもらった時、僕は逃げることを選びました。王宮から。そして兄上から」
視線が手元に落ちる。
「でも、オンタリオ領で……大切な人たちに出会って、気づいたんです」
拳を握りしめる。
顔を上げて、もう一度しっかり兄上と視線を合わせた。
「逃げたままじゃ、いけないって」
兄上の表情が、わずかに揺れる。
「過去は消えません。でも……謝ってくれたことは、ちゃんと受け取ります」
そして、はっきりと言った。
「俺は——兄上の謝罪を、受け入れます」
少し間を置いて、続ける。
「それに、兄上には今回の塩の件で助けていただいたようですし——お力添え、ありがとうございました」
今度は僕が頭を下げる。
すると、慌てたようにハルカも隣で頭を下げた。
「私からもお礼を言わせてください。レイノルド殿下、この度はグランフェルト前公爵へのお口添えをありがとうございました」
長い沈黙のあと、兄上はゆっくりと息を吐いた。
「礼を言うのはこちらの方だ……ありがとう、アーサー。謝罪を受け入れてくれて——そして、生きていてくれて」
その声は、どこか震えていた。
隣で、緊張した様子で見守ってくれていたハルカが、安堵の息をついたのが分かった。
——すべてが解決したわけじゃない。
でも、僕たち兄弟の間にあった距離は、ほんの少しだけ縮まった気がした。
「ハルカ嬢」
兄上が、改めてハルカに顔を向けた。
「アーサーを助けてくれてありがとう。今日こうして会ってみて、いかにアーサーがオンタリオ領で大切にされているか、よく分かった」
「そんな!」
ハルカが、ワタワタと慌てる。
「アーサーはもう私たちの家族——大切な仲間です。助け合うのは当たり前で、お礼を言っていただくほどのことではありません」
慌てるハルカが可愛い。
僕はそんなハルカの様子に、「ふふ」と自然に笑みが溢れた。
◇◇◇
その後、兄上に聞かれるがままに、二人で代わる代わるオンタリオ領での生活について話した。
ヒロやレオのこと、パトラッシュのこと、双子の妹たちのこと。毎日の訓練や勉強、米作りや酒造りのこともたくさん話した。
雪像祭りの話をした時には——。
「僕も一度見てみたいものだ」
兄上がそう言うので、ハルカが張り切って声を上げた。
「それじゃあ、来年の祭りにはぜひいらしてください!」
気安く兄上を誘うハルカに驚きの視線を向ける。ハルカはそんな僕の視線に気づくと、何故かとびっきりの笑顔をくれた——うん。かわいい。
そんな僕らに、兄上も王宮でのことを教えてくれる。
側近たちのこと、家庭教師のこと、今勉強していること、最近の訓練のようす。
それから、少しだけ母上のことも。
「いつかもっと時間のある時に、ゆっくり母上の話をしよう」
そう話す兄上の瞳は、どこか遠くを見つめていた。
「……さて」
兄上が、話題を変えるように咳払いをした。
「グランフェルト領へ行くそうだな。……海を見るのは、二人とも初めてか?」
「「はい」」
二人の声が揃う。
それが、ちょっとだけおかしくて、ハルカと目が合った瞬間、笑いが漏れた。
「楽しみです」
「そうか」
兄上が、微かに笑った。
「なら、その土産話を、よかったら手紙に認めて送ってくれないか?」
少し恥ずかしそうにそっぽを向きながら、兄上がチラリとこちらを見る。
「父上には時々手紙を書いていると聞いたのでな」
「分かりました——その代わり、兄上も、時々は返事を書いてくれますか?」
自分でも驚くほど、素直に言葉が出た。
兄上は一瞬だけ驚いた表情をした後、くしゃりと泣きそうな顔で笑った。
「ああ、約束する」
今日、初めて言葉を交わした兄上。
今まで一度も視線を合わせることのなかった兄上。
——その瞳が、僕と同じ色だということに、今初めて気がついた。
誤字報告ありがとうございます╰(*´︶`*)╯♡




