第4話:ご飯と味噌汁
あれから一ヶ月。
アーサーは少しずつ、本当に少しずつだけれど、変わってきている。
最初の数日は、スープやパン粥、それに野菜や果物のペーストを中心に用意した。一度にたくさんは食べられなかったので、様子を見ながら回数や量を調整して食べさせた。食べるのにも起きているのにも体力はいる。アーサーの様子を見ながら、マーサと二人、慎重に進めた。
その甲斐あってか、少しずつアーサーも食べられるようになっていった。徐々に固形物に変え、味のバリエーションを増やし、今では、ささみのほぐし身や、小さめに切った野菜のシチューも食べられるようになっていた。
げっそりと痩せこけた頬には、ほんの少しだけふっくらとした丸みが戻ってきたし、あの怯えたような淡い空色の瞳も、少しずつ柔らかい光を宿すようになってきている。
そして何より、アーサーは以前よりずっと元気になった。ここに来たばかりの頃は、少し歩くだけですぐに疲れて座り込んでしまっていたのに、今では部屋の中を自由に歩き回れるくらいには回復していた。一日中ベッドで眠りがちだったのが、日中は起きて私やマーサとおしゃべりしたり、本を読んだり、窓の外を眺めたりする時間が増えた。
表情も豊かになってきた。最初は無表情で、まるで人形のようだったけれど、今では私が部屋に入ると小さく微笑んでくれるし、おいしいものを食べた時には目を輝かせてくれる。その反応が嬉しくて、ついついアーサーの好きなものばかり立て続けに用意をしては、マーサに呆れられた。
豆乳プリンを出した時には「もう少し食べてもいい?」と遠慮がちに上目遣いでうるうると見つめられ、あまりのかわいさに、危うく魂が持っていかれるところだった。私はこの時、初めてアーサーのポテンシャルの高さに気がついた。……今更気付いたところで、何も変わらないのだが。
まだまだ同じ年の子供たちと比べれば小さくて、長時間走ったり遊んだりするのは難しい。でも、確実に「ふくふく計画」は進行中だ。そのことにひとまずホッとした。
そして今日は、特別な日。
◇◇◇
「お嬢様、本当にこれを?」
マーサが心配そうに、炊きたてのご飯を見つめている。
「うん。アーサー、豆乳や豆腐も大丈夫だし、白くてもちもちしたものは好きだと思うの」
私は自信満々に頷いた。
窯から立ち上る湯気。その向こうに見えるのは、ふっくらと艶々に炊けた白いご飯。
去年から試行錯誤して、やっと今年の夏に初めて収穫できたお米。オンタリオ領の南部の、日当たりのいい湿地帯を開墾して作った、私の自信作だ。
最初は全然うまくいかなかった。種籾を水に浸ける時間、田んぼの水の深さ、土の具合——何もかもが手探りで、何度も何度も失敗した。でも、諦めなかった。前世実家で作っていた時の記憶を頼りに、領の農夫たちと一緒に、試行錯誤を重ねた。まあ、当時四歳の私が言うことにみんな半信半疑だったけどね。
たまたまお祖父様が遠征で赴いた村で食べさせてもらう機会があって、その味に惚れ込んで種苗を分けてもらい、率先して体制を整えてくれたのでできたことだ。つまり、ほぼお祖父様のお陰。ありがとう、お祖父様。ハルカはお祖父様の孫に生まれて幸せです!
そして、ようやく実った初めての収穫。
量はまだ少ないけれど、来年はもっと作付面積を増やす予定だ。いずれは領の特産品として売り出せたらいい。
「それに、今日はもう一つ、アーサーに見せたいものがあるの」
私は、ワゴンの上に並べられたお椀を指差した。
そこには、茶色い汁物が湯気を立てている。
「お味噌汁よ」
「ああ、例の大豆の発酵調味料で作ったスープですね」
マーサが興味深そうに覗き込む。
そう、これも私がどうしても欲しくて、料理長たちと共に試行錯誤を繰り返して作り上げたものだ。大豆はもともとオンタリオ領でよく作られていたので、豆腐や豆乳を作るのはすぐにできた。「にがり」の入手に少し時間がかかったけれど、この時代の製塩方法では大抵副産物として「にがり」ができていた。今まで捨てられるだけだったこの「にがり」が欲しいとお父様とお母様にねだった時には驚かれたけれど。
ただ、味噌や醤油を作るには麹が必要で、それを探すのに苦労した。結局、木灰を使って種麹を作る技術が外国にあると聞き、その技術を仕入れてもらっての今である。
「そうなの。以前出した豆腐や豆乳シチューも、全部大豆製品。大豆って本当に万能で、色々な加工ができるのよ」
私は嬉しくなって、マーサに説明し始めた。
「味噌もその一つで、発酵させて作るんだけど、これが本当においしくて。保存もきくから、遠征に持っていく携帯食にもいいと思うの。いずれは特産品として売り出したいんだ」
「お嬢様の情熱には、いつも頭が下がります」
マーサが優しく微笑む。
「さあ、温かいうちにお持ちしましょう」
私たちは、ご飯と豆腐の味噌汁、それに焼き魚を添えて、アーサーの部屋へと向かった。
◇◇◇
「アーサー、お待たせ。朝ごはんできたよ」
部屋に入ると、アーサーはいつものように窓際の席で本を読んでいた。最初の頃は、すぐに疲れて本を読むこともできなかったのに、今では小一時間くらいは集中して読書を楽しめるようになった。
「ありがとう、ハルカ」
本を閉じて席につくアーサーの前に、私は食事の皿を並べていった。
「これ、は……何?」
目の前には、ふっくらと艶々に炊けた白いご飯。そして、湯気を立てる茶色い汁物。
「ご飯とお味噌汁よ。焼き魚もあるけど、ほぐしてからあげるね」
私はニコニコしながら食事を勧めた。
アーサーは恐る恐る、茶碗を手に取った。真っ白な米粒がキラキラと光を反射している。パンや野菜とは明らかに違うその姿に、アーサーの淡い空色の瞳が、大きく見開かれた。
「きれい……」
小さく呟いて、じっと見つめるアーサー。その表情があまりに真剣で、思わず笑みがこぼれた。
「食べてみて。冷めちゃうから」
「あ、うん……」
一口、口に運ぶ。
もぐもぐと咀嚼するアーサーの表情が、みるみる変わっていく。驚き、そして喜び。
「おいしい……! パンとは全然違う……。ご飯って、こんなに甘いんだね」
「でしょう? これ、実はね」
私は身を乗り出した。このご飯について話すと、どうしても熱が入ってしまう。
「去年から試行錯誤して、やっと今年の夏に初めて収穫できたの。オンタリオ領の南部の、日当たりのいい湿地帯を開墾して。最初は全然うまくいかなくて、種籾を水に浸ける時間とか、田んぼの水の深さとか、何度も何度も失敗して……」
気づけば、一気に喋っていた。アーサーは目を輝かせて、頷きながら聞いてくれている。
「それで、これが今年の初めての収穫物なの。まだ量は少ないけれど、来年はもっと作付面積を増やす予定で。いずれは領の特産品として売り出せたらいいなって」
「すごい……。そんな貴重なものなんだ」
「そうよ、とっても貴重なものなの。だからね、アーサーにも食べてほしかったの。一緒に、この初めてのご飯を」
アーサーの頬が、ほんのり赤く染まった。
「ありがとう、ハルカ。大切に、いただきます」
もう一口、ご飯を口に運ぶアーサー。その幸せそうな表情を見ているだけで、私も嬉しくなる。
「あの、ハルカ」
「ん?」
「このスープも……ハルカが?」
アーサーは、茶色い汁物を恐る恐る見つめていた。確かに、この色は初めて見る人には不安かもしれない。
「ああ、そうそう! これもね、最近開発した新商品なの。味噌汁って言うのよ」
私は味噌汁のお椀を指差した。
「大豆から作った『味噌』っていう調味料を使ってるの。以前出した豆乳シチューやその味噌汁に入っている豆腐も、全部大豆から作られているのよ。この食材は本当に万能で、色々な加工ができるの。味噌もその一つで、発酵させて作るんだけど……」
またしても熱く語ってしまう。でも、アーサーは嫌な顔一つせず、ニコニコと嬉しそうに聞いてくれるので、私の話もどんどんと長くなる。
これではせっかくの料理が冷めてしまう。
私はハッと我に帰り、慌ててアーサーに食事の続きを促した。
「さ、温かいうちにどうぞ」
アーサーは小さく頷くと、意を決したように味噌汁のお椀を手に取った。
一口、そっと啜る。
「……っ」
大きく目を見開き、ハフっと熱い息をこぼした後、アーサーの瞳が、きらきらと輝いた。
「おいしい……! これ、すごく、おいしい……!」
もう一口、もう一口と、夢中で味噌汁を飲むアーサー。その様子があまりに可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
「気に入ってくれた?」
「うん! 温かくて、優しい味がして……ご飯と一緒に食べるともっと美味しくなる!」
ご飯を一口、味噌汁を一口。交互に口に運びながら、アーサーは本当に幸せそうに食べてくれる。
この一ヶ月で、食べる量も随分増えた。最初は数口で「もう食べられない」と言っていたのに、今ではお茶碗一杯は完食できるようになった。
「ハルカの作るものは、全部おいしい」
ふと、アーサーが顔を上げて微笑んだ。
その笑顔は、一ヶ月前とは比べ物にならないくらい、柔らかく温かいものだった。
「これからも、色々作るわね。アーサーがもっともっとふくふくになるまで」
「ふくふく……」
アーサーはくすりと笑って、また味噌汁に口をつけた。
朝の食卓に、穏やかな時間が流れる。
9月の柔らかな朝日の中、ゆらゆらと立ち昇る真っ白なご飯と味噌汁の湯気。その向こうで、幸せそうに咀嚼を繰り返すアーサーの、少しふっくらしてきた横顔。
ずっと見続けていたい、そう思ってしまうような幸せな光景だった。




