第37話:海を見に行こう
雪が溶け、紫色の蕾をつけた雪割草が顔を出す。
——春だ。
あの不安に満ちた冬が、ようやく終わりを告げようとしている。
そんなことを思いながら迎えたある朝。
「グランフェルト産の塩が、無事に納品されたぞ」
お父様が朝食の席で、嬉しそうにそう報告してくれた。
「本当!」
思わず声が弾む。
「ああ。早速、ノルトハイム村では味噌と醤油の仕込みが始まったそうだ」
「よかった……」
胸を撫で下ろす。
春の仕込みに間に合ったのだ。
村のみんなも、どれほど安心しただろう。
「今回の件では、グランフェルト前公爵に本当に世話になったな」
お父様が、感慨深げに言う。
「全くじゃ。アルには頭が上がらんわい」
お祖父様も、嬉しそうに頷いた。
「そういえば——」
ふと、お祖父様が思い出したように続ける。
「アルからの手紙に書いてあったのだが、今回の件、どうやらレイノルド殿下から打診があったそうじゃ」
「レイノルド殿下が?」
お父様は驚いたように目を見開き、手にしたパンを持ったまま動きを止める。
「ああ。殿下が陛下に進言し、グランフェルトへの連絡を取り付けたようじゃ」
「そうだったのか……」
「レイノルド殿下といえば——」
お母様が、そっとアーサーへ視線を向けて微笑んだ。
「新年の宴でも、アーサー様のことを気にかけていらしたわ。元気に暮らしているとお伝えしたら、とても安堵されたご様子だったの」
「……」
アーサーは一瞬だけ驚いた表情を見せ、すぐに目の前の皿へと視線を落とした。
「よかったね、アーサー」
私は、ぽんとアーサーの肩を叩く。
「ちゃんと、お兄様に気にかけてもらえてるんだね!」
「……うん」
アーサーは、少し頬を染めて小さく頷いた。
そんな様子を見て、お祖父様がにかりと笑う。
「なあ、二人とも。海を見に行かんか?」
突然の誘いに、私たちは食事の手を止めたまま、きょとんと顔を向けた。
「ああ、実はな——」
お祖父様は、一通の手紙を取り出す。
「アルから、視察を兼ねて遊びに来ないかと誘いがあってな」
「え……?」
「製塩の様子も見ておきたいし、今回の件で世話になったから、直接礼をしに行こうと思っておる」
そう言って、私たちを見る。
「二人も一緒に行かんか?」
「いいの!?」
思わず目を輝かせる。
「海、見てみたい!」
今世では初めての海。
海といえば魚介類!
——新鮮なお魚が食べられる!やった!!!
「それにな——」
お祖父様が、今度はアーサーを見る。
「アルは、例の『ドラゴンと騎士』の作者じゃぞ」
「え……」
アーサーが、はっと顔を上げた。
「会ってみたくはないか?」
「……!」
アーサーの目が、一気に輝き出す。
「おまけに、あそこへ行けば、物語に登場した聖女様や、斥候を担当したエドにも会えるぞ」
「本当ですか!?」
思わず、アーサーが立ち上がった。
「ああ。皆、元気にしておるそうじゃ」
「行きたいです! 絶対に行きたいです!」
あまりにも素直で嬉しそうな反応に、私は思わず笑ってしまった。
◇◇◇
食事を終えた私たちは、お父様の執務室へ移動し、旅程について打ち合わせをすることになった。
「馬車で行くとなると、ここから十日以上はかかるな。二人には、少々きついかもしれん」
お父様が地図を広げる。
「転移陣を使って王都まで行き、そこからグランフェルトへ向かうか」
「転移魔法で直接は行けないの?」
私が尋ねる。
「それは禁止されておる。領を跨ぐ転移陣の設置には、国の許可が必要なんじゃ」
悪用する者もいるからな、とお祖父様が続ける。
「原則として、必ず王都を経由する決まりになっておる」
「しかもな、膨大な魔力が要るうえ、費用もかかる。どこにでも設置できるものではない」
「なるほど……」
「うちの領は、有事の際に援軍を送ってもらう必要があったからな」
お祖父様はそう前置きしてから、少し誇らしげに語る。
「ワシがドラゴン討伐を果たした際、その報奨の一つとして設置が許されたんじゃ」
「グランフェルト領も国境を接しているからな」
お父様が頷いた。
「臣籍降下して公爵位を賜った折、同様の理由で転移陣の設置が認められたのでしたな」
「そういうわけじゃ」
お祖父様が、まとめるように言う。
「王都を経由して転移するのが、一番楽で確実ということじゃな」
そう言った後、お祖父様は少し表情を引き締めた。
「ただし——王都レジナルドを経由する以上、王宮に寄らぬわけにはいかん」
「王宮……」
アーサーが、息を呑む。
「レイノルド殿下の口添えがあった以上、殿下にも礼を述べたいが——」
お祖父様は、アーサーをまっすぐ見つめた。
「アーサー。どうしたい?
王宮や殿下を避けたいなら、今回は馬車の旅でも構わんぞ」
「……」
アーサーはしばらく考え込み、やがて意を決したように顔を上げた。
「いえ、王都に行きたいと思います」
「無理をしておらぬか?」
お祖父様が、優しく問いかける。
「はい」
アーサーは、はっきりと頷いた。
「父上にも、久しぶりにお会いしたいですし……」
少し間を置いて、続ける。
「兄上とも……そろそろ、一度きちんと会っておくべきだと思うので」
「アーサー……」
お母様が、温かな目で見守る。
「そうか」
お祖父様は満足そうに頷いた。
「では、そのように進めよう」
「先方の了承が取れ次第、早ければ二週間後には出発じゃ」
お祖父様が、私たちを見る。
「二人とも、しっかり準備しておくように」
「「はい!」」
◇◇◇
その後、執務室を出た私たちは、部屋に戻る前に少しだけ庭を散歩した。
雪解け水を含んだ土の匂いが、春の訪れを感じさせる。
「海、楽しみだね」
私は空を仰ぎながら、そう口にした。
「うん……」
アーサーは、少しだけ緊張した表情をしている。
「大丈夫?」
「……うん」
小さく頷く。
「兄上に会うの、少し緊張する」
ぽつりと、アーサーが呟いた。
「そうだよね……」
私はそっと、アーサーの手を握る。
「でも、大丈夫。お兄様はちゃんとアーサーのことを気にかけてくれてる。前とは、きっと違うよ」
「……そうだね」
その言葉に、アーサーは少しだけ肩の力を抜いたように微笑んだ。
「それに、『ドラゴンと騎士』の作者にも会えるよ?」
「……!」
途端に、アーサーの表情がパッと輝いた。
「楽しみだね」
「うん!」
見上げた空は、春らしい淡い水色に澄み渡っていた。
それは、今のアーサーの瞳と同じ色。
もうすぐ、旅が始まる。
王都レジナルド。
そして、グランフェルト公爵領。
海。
初めての景色。
初めての出会い。
自然と胸が高鳴る。
この先に待つ景色を、アーサーと一緒に見られる——それが、何より楽しみだった。




