第36話:助け舟
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王都レジナルドにある王宮。
王の執務室では、国王リチャードが王妃エリザベスと向かい合っていた。
「ソルティス商会が、オンタリオ領への塩の販売を停止したそうだな」
その言葉に、エリザベスは一瞬だけ目を見開いた——ように見えた。だがすぐに、何事もなかったかのように、整えられた微笑みへと戻っていた。
「そうなのですか? 生憎、商会の方針に口を出せる立場ではありませんので、初めて知りましたわ」
「……」
リチャードは、エリザベスをじっと見つめた。
「塩は国民にとって、無くてはならないものだ」
王の声が、少し低くなる。
「撤回してくれるよう、そなたからソルティス侯に口添えしてもらえぬか」
「まあ」
エリザベスが、驚いたような顔をする。
「陛下の頼みですもの、喜んで従いますわ」
だが、その声には温度がない。
「ただ、兄には兄の、領政上の事情もございますので……」
エリザベスは、いかにも困ったように言葉を添えた。
「どこまで聞き入れてもらえるかは……正直なところ、わかりませんわ」
「……そうか」
王は一度、深く息を吐いた。
「それでも構わぬ。できる限り、働きかけてみてくれ」
「承知いたしました」
エリザベスは優雅に立ち上がり、静かに一礼する。
「それでは、失礼いたします」
扉が、パタンと音を立てて閉じられる。
王は一人きりの執務室で、どうすることもできない現実を噛みしめながら、深くため息を吐いた。
◇◇◇
ほどなくして、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、第一王子レイノルドだった。
「父上」
「レイノルドか。どうした?」
「オンタリオ領への塩の納入が止められたと耳にしました」
真剣な眼差しで、レイノルドが切り出す。
「ああ……」
リチャードは短く頷いた。
「その件でソルティス侯にも使者は出しているが、のらりくらりと躱されていてな」
苦々しさを滲ませて、王は言った。
「先ほど出て行かれたのは、エリザベス様ですよね。協力をお願いされたのですか?」
「そうだ。エリザベスからも、兄であるソルティス侯に口添えしてもらうよう頼んだのだが……」
そこで、リチャードは大きく息を吐く。
「……あまり期待はできそうにないな」
「……」
レイノルドは、言葉を飲み込むように唇を噛む。
「このままでは、王国と商会の協約にも反しますよね。補助金の打ち切りを示唆するという手もあるのでは?」
「その案も、すでに会議に諮られた」
リチャードは肩を落とした。
「だが反対が多くてな。どうやら、向こうは根回しを済ませているらしい」
「……そこまで」
レイノルドの拳が、静かに、しかし確かに握りしめられた。
「父上」
レイノルドは顔を上げ、まっすぐにこちらを見た。
「でしたら、僕に一案があります」
「ほう?」
「大叔父上に、連絡を取らせていただけませんか」
思わぬ名前に、王の目がわずかに見開かれる。
「前グランフェルト公爵に、か?」
「はい。新年の宴で、グランフェルト公が話しておられたことを覚えていらっしゃいますか?」
「……確か、隠居した前公爵が前ヒューロン子爵と共に、新しい事業を始めたと」
「はい。その事業、どうやら製塩に関わるもののようです。最近になって、商品化にも成功したと聞いています」
「それは本当か!?」
「ええ。それに、あの領は隣国との交易も盛んです。塩の輸入という手段も、十分に考えられるかと」
王の表情が、ぱっと明るくなる。
「素晴らしい案だ。叔父上なら前辺境伯とも旧知だ。事情を話せば、きっと力になってくれるだろう」
リチャードは深く頷き、レイノルドに視線を向けた。
「頼めるか」
「はい。すぐに手配します」
こうして、閉ざされかけた道に、一筋の光が差し込んだ。
◇◇◇
その数日後。
オンタリオ領の商業ギルドに一通の書状が届いた。
「タイロン様、ミランダ様、ラオウ様!」
ベルンハルトが、興奮した様子で領主館に駆け込んでくる。
「ベルンハルト、どうした?」
タイロンが、驚いたように尋ねる。
「イースト商会から、取引の打診が届きました!」
「イースト商会?」
「はい! グランフェルト公爵領を拠点とする商会です」
ベルンハルトが、書状を広げる。
「現在、グランフェルト領で製塩事業を行っており、そこで生産された塩を販売したいと!」
「グランフェルト領じゃと!」
その名を聞いた瞬間、ラオウが勢いよく立ち上がった。
「アルの奴、いつの間に製塩事業など始めておったんじゃ……だが、これは有難い!」
「父上、グランフェルト前公爵といえば——」
タイロンが確認するように尋ねる。
「父上と、かつてパーティを組まれていた、あの方ですか?」
「そうじゃ」
ラオウは、懐かしそうに、そして誇らしげに笑った。
「共にドラゴンを討伐した、ワシの古い戦友じゃ!」
「それは……心強い」
タイロンも、ほっとしたように息を吐く。
「藁にも縋りたい状況の中で、これほど心強い話はありませんな。まさに、最高の援護射撃です」
「ああ、有難い助け舟じゃ」
ラオウは、ぐっと拳を握りしめ、満足そうに笑った。
◇◇◇
後日。
イースト商会の代表——ロベルト・シュトラウスが、オンタリオ領を訪れた。
「お初にお目にかかります。イースト商会会頭、ロベルト・シュトラウスと申します」
四十代半ばだろうか。落ち着いた物腰と穏やかな視線を持つ人物だった。
「ようこそ、オンタリオ領へ」
タイロンが応接室へと案内する。
ラオウも同席し、静かに席に着いた。
「早速ですが、取引内容についてご説明いたします」
ロベルトは資料を広げ、丁寧に言葉を選びながら話し始める。
「まず、グランフェルト製の塩についてですが——こちらは先代公爵様が五年ほど前に立ち上げられた事業です。技術の安定に時間を要しましたが、昨年ようやく商品化に成功いたしました」
みなが真剣な面持ちで耳を傾ける。
「そのため、生産量はまだ多くはありません」
その言葉に、タイロンの表情がわずかに曇った。
「ですが——オンタリオ領には、優先的に納入いたします」
「優先的に……?」
タイロンが、思わず問い返す。
「はい。前公爵アルヴィン様より、強くご要望をいただいておりますので」
そう言って、ロベルトはラオウへ向かって会釈した。
「アルが……」
ラオウが、噛みしめるように呟いた。
「オンタリオ領の現状につきましては、私どももすでに聞き及んでおります」
ロベルトは続ける。
「そこで一つ、追加の提案を。グランフェルト産で賄いきれない分につきましては、隣国からの輸入をご検討いただければと存じます」
「隣国から、か」
「はい。グランフェルト領は隣国と国境を接しており、古くから交易が盛んです。当商会も隣国に支店を構えておりますので、ご要望があれば手配は可能です」
一拍置いて、ロベルトは正直に付け加えた。
「ただし、輸送の都合上、少々お時間を頂戴することと、国内産より二割ほど価格が上がりますが……」
「なるほど」
お父様は深く頷く。
「選択肢は多いに越したことはない。有難い提案だ」
その声には、明らかな安堵が滲んでいた。
「だが、まずはグランフェルト産の塩について詳しく聞かせてくれ。量はどの程度確保できる? 入荷はいつ頃になりそうだ?」
「本日お持ちした量の三倍まででしたら、一月ほどお時間を頂戴すればご用意できるかと」
「本当か!」
お父様は、思わず身を乗り出した。
「その代わりと言っては何ですが……」
ロベルトが、わずかに言いにくそうに言葉を選ぶ。
「オンタリオ産の魔石と皮革、それに——蜂蜜石鹸や米酒を、当商会にて仕入れさせていただけないでしょうか」
「ああ、もちろんだ!」
即答だった。
「むしろ、こちらからお願いしたいくらいだ」
「ありがとうございます」
ロベルトは、今度ははっきりとした安堵の色を浮かべ、深々と頭を下げる。
「それでは、正式な契約書を作成させていただきます」
◇◇◇
その夜。
応接室で、お父様とお祖父様がワインを傾けていた。
「なんとか、目処がついたな」
お父様が、ようやく肩の力を抜いて笑顔になった。
「ああ。アルのやつ、やってくれたわい」
お祖父様も、実に嬉しそうだ。
「これで春の仕込みに間に合う……ノルトハイム村の者たちも、どれほど安堵することか」
「うむ。領民の不安も、ひとまずは払拭できそうじゃな」
二人は静かにグラスを合わせる。
「グランフェルト前公爵には、きちんと礼状を送らねばな」
「ああ。ワシからも、感謝の手紙を書いておく。もちろん、美味い酒も付けてな!」
◇◇◇
その話を聞き、私とアーサーも思わず胸を撫で下ろした。
「よかった……」
安堵の言葉が、自然とこぼれる。
「これで、味噌も醤油も作れるね」
「うん……」
アーサーは小さく頷いたものの、その表情はどこか晴れない。
「アーサー?」
「……助けてくれる人が、いるんだね」
ぽつりと零れたその言葉には、噛みしめるような響きがあった。
「うん。『捨てる神あれば拾う神あり』だね」
「どういう意味?」
「見放されることがあっても、別の場所や、別の誰かが手を差し伸べてくれることもある、っていう意味だよ」
私はそっと、アーサーの手を握った。
「大丈夫。助けてくれる人はいる。味方は、ちゃんといるよ」
「……うん」
アーサーも、ぎゅっと握り返してくれる。
まだ、すべてが解決したわけではない。
それでも、オンタリオ領を覆っていた長い冬に、ようやく終わりが見え始めた気がした。
補足:
アルヴィン・グランフェルト前公爵は、リチャード王から見ると叔父、レイノルドにとっては大叔父になります。
ややこしくてごめんなさい!




