第35話:王子であるということ
ちょっと短めのお話です。
その夜、私はなかなか寝つけず、屋敷の中を歩きながら考え込んでいた。
塩の問題。
ソルティス家の圧力。
領民たちの不安。
どうすれば——。
ふと、廊下の奥にあるお父様の執務室から、かすかな灯りが漏れていることに気づいた。
——まだ会議が続いているのだろうか。
私はそっと部屋に近づいた。
◇◇◇
扉は、わずかに開いていた。
その隙間から、お父様たちの声が漏れ聞こえてくる。
「……結局、ソルティス家の狙いは何だ?」
お父様の低い声が響いた。
「表向きは経済的な牽制じゃろうが、本当の目的は別にあるのではないか?」
お祖父様の声が、重く続く。
「恐らく——」
お母様の静かな声が、それを受けた。
「アーサー様を庇護している我が家の力を、弱めたいのでしょう」
思わず、息を呑む。
——アーサー……?
「なるほどな」
お父様が、深く息を吐いた。
「アーサーが王宮を離れ、オンタリオ領で元気に育っている。それが、彼らには不都合というわけか」
「そうじゃな。アーサーが健やかに育てば、第三王子が王位を継ぐ目は、ほとんどなくなる」
お祖父様の言葉が、重く落ちる。
「だからこそ、後ろ盾となる我が家を弱体化させる……」
お母様の声にも、苦さが滲んでいた。
「そうなれば、ここへ来る前と同じように、アーサー様の立場は脆くなる——それが狙いでしょうね」
「とはいえ、以前とは状況が違う。陛下も、今はアーサーに目を向けておられる。そう簡単に、元に戻ることはあるまい」
「だが、レイノルド殿下は婚約によって後ろ盾を強化された。ゆえに手を出しにくい……だからこそ、狙いやすいアーサーに的を絞ったのかもしれんな」
お父様の言葉には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「……卑劣だな」
「だが、それがソルティス家のやり方じゃ」
重い沈黙が落ちる。
「ふう……」
お父様が大きくため息を吐いた。
「このことは、アーサーには伝えないでおこう」
「ええ」
お母様が悲しげに頷く。
「あの子はきっと、自分を責めてしまう」
「だから——」
お父様の声が強くなる。
「これは大人で解決する。アーサーには何も心配させない」
「それがいいじゃろう」
お祖父様も同意する。
「あの子は、ただハルカと一緒に元気に育てばよい」
◇◇◇
私はそっと扉から離れた。
胸が、ドキドキする。
アーサーのせいで——?
そんなこと、あるわけない。
アーサーは何も悪くない。
だけど——。
ふと背後に気配を感じ、振り返る。
そこに、アーサーが立っていた。
「アーサー……」
声が震えた。
アーサーの顔は、真っ青だった。
「聞いて……たんだね」
「……うん」
アーサーは、小さく頷いた。
その目は、焦点を失ったように遠い。
「アーサー、違うよ。あなたは何も——」
「違わない」
アーサーの声は、驚くほど静かだった。
「僕が……王子だったせいで」
「アーサー……」
「僕がここにいるせいで、オンタリオ家が狙われてる」
震える声。
「僕が……いなければ」
「何言ってるの!」
私は思わず叫んでいた。
「そんなこと、考えないで!」
「でも……」
「でもじゃない!」
私はアーサーの肩を掴む。
「アーサーは悪くない。悪いのは、悪いことをした側だよ!」
アーサーは言葉を失った。
その瞳には涙が溜まっている。
「ハルカ……」
やっと絞り出すように言う。
「僕、初めてわかったんだ」
「何を……?」
「今まで、僕は感情だけで動いていた」
アーサーの声が少しずつ強くなっていく。
「嬉しい、楽しい、悲しい。……でも、それだけじゃだめなんだ」
まっすぐ私を見つめて言う。
「僕は第二王子、アーサー・エヴァーランド」
小さな拳が、ぎゅっと握られた。
「僕の存在が、誰かの運命に影響する。それが——王子という立場なんだ」
私は、言葉を失った。
アーサーの瞳は、もはや「毎日を楽しく過ごすだけの子ども」のものではない。
何かを背負う覚悟を宿した、強く澄んだ光を帯びていた。
「僕……逃げてたんだ」
アーサーは、静かな声で言った。
「王宮でつらいことがあって、ここへ来た。
でもそれは……ただ、逃げていただけだった」
「アーサー……」
「ハルカが優しくしてくれて、タイロン様も、ミランダ様も、ラオウ様も。みんな、温かかった」
言葉を選ぶように、彼は続ける。
「だから、忘れていたんだ。
自分が王子だってことを」
アーサーはそっと涙を拭った。
「僕……いや、俺はもう逃げない」
一度、大きく息を吸い込み、まっすぐ前を見て言い切る。
「俺がここにいることで、オンタリオ家が狙われるなら——
俺が、向き合わなきゃいけない」
「向き合うって……どうやって?」
「わからない」
迷いのない、正直な答えだった。
「でも、考える。
俺にできること、俺がやるべきことを」
私は、アーサーをじっと見つめた。
七歳のアーサー。
ここへ来た頃より、ずっと大きくなった。
体も、心も。
そして何より——その瞳に宿る強さが、確かな成長を物語っていた。
「アーサー」
私は、そっと手を伸ばす。
「一人で、全部背負わなくていい」
「ハルカ……」
「一緒に考えよう。どうすればいいか」
アーサーの手を、ぎゅっと握った。
「あなたは一人じゃない。私がいる。
お父様も、お母様も、お祖父様も——みんな一緒だよ」
「でも……」
「だからこそ」
私は視線を逸らさず、まっすぐに伝える。
「一緒に考えるの。それが、家族でしょう?」
アーサーの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう、ハルカ」
歯を食いしばるようにして、アーサーはかすかに笑う。
「どういたしまして」
私は、同じように微笑んだ。
「今日はもう休もう。疲れたでしょう?」
「……うん」
私はアーサーを部屋まで送り届け、そっと扉を閉めた。
◇◇◇
アーサーは、確かに変わった。
感情のままに揺れる子どもから、
自分の立場と責任を見据えようとする、一人の人へ。
それは、間違いなく成長なのだろう。
……けれど。
(まだ、七歳なのに)
胸の奥が、きゅっと痛む。
本当なら、もっと無邪気に笑っていていい。
何も背負わず、守られる側でいていい年齢だ。
それでも——。
(それが、王子であるということなのかもしれない)
私は深く息を吸い込んだ。
真冬の空気は、暖かい布団の中でも冷んやりと冷たかった。




