第3話:ふくふく計画
オンタリオ領に来て、初めての朝。
僕は、初めて感じる感覚に、ゆっくりと意識が浮上した。
柔らかい。
温かい。
ずっと包まれていたいような居心地の良さ。その正体を確かめたくて、重い瞼を薄く持ち上げた。
天井が見える。木の梁が組まれた、高い天井。大きな窓。そして、お日様の匂いのするふかふかの布団。王宮の僕の部屋とは違う。そうだ、ここはオンタリオ領。昨日、ハルカに連れられて来た場所。
僕の、新しい家。
ふと、右手に感じていた温かいものが、もぞりと動いた気がした。
つられたようにそちらに顔を向けると――。
ハルカが、いた。
赤みのある栗色の髪が、朝日を浴びて柔らかく輝いている。長いまつ毛を時々震わせ、すぅすぅと、小さな寝息を立てている。しかも、僕の手を握ったまま。
僕は、驚いて身を固くした。
どうして?
どうして、ハルカが僕の部屋に?
そっと手を引こうとすると、ハルカの指が僕の手をぎゅっと握る。
「……ん」
ハルカが小さく呟いて、目を開けた。琥珀色の瞳が、ぼんやりと僕を映す。
「あ、アーサー……おはよう」
眠そうな声。でも、優しい声。
「……おはよう、ございます」
僕は小さく答えた。
ハルカは、ふわぁと欠伸をして、それから少し恥ずかしそうに笑った。
「ごめんね。初めての場所だから、夜中に目が覚めて不安になるといけないと思って、こっそり一緒に寝ちゃった」
ハルカが、僕の手を握ったまま言う。
「でも、アーサー、ずっとぐっすり寝てたね。よかった」
一緒に、寝てた?
僕は、顔が熱くなるのを感じた。
誰かと一緒に寝たこと、なんてない。乳母がいた頃も、いつも一人だった。
でも、ハルカは僕が不安にならないように、ずっと手を握っていてくれたんだ。
「あ、でも、みんなが起きる前に部屋に戻らないと。じゃあね、アーサー」
ハルカは僕の手を離して、そっと立ち上がった。
ドアに向かう背中。小さな背中。
その背中を見送りながら、僕は布団の中で小さく丸くなった。
嬉しい。
恥ずかしい。
でも、とても温かい。
誰かが、僕のことを心配してくれた。
誰かが、僕の側にいてくれた。
胸がぽかぽかして、顔が熱い。
僕は布団を頭まで被って、そのぬくもりを逃さないように、ギュッと抱きしめた。
◇◇◇
アーサーの部屋を出ると、お母様が立っていた。
「アーサーもあなたも、よく眠れて?」
全て見透かしたような瞳で問いかけられる。一瞬、怒られるかもと身構えたが、その瞳が楽しそうな光を宿しているのに気がついて、私は肩の力を抜いた。
「うん。大丈夫。夜中に一度も起きなかったし、しっかり眠れたと思う」
「あなたは、少し眠り足りないのではなくて? もう少し寝てきたら?」
心配そうなお母様の提案に「大丈夫」と笑顔で答えながら、私の部屋まで一緒に移動した。
部屋のソファには、複雑そうな顔をしたお父様と、その後ろでオロオロするナタリーが待っていた。どうやら、夜中に抜け出してアーサーの部屋で寝ていたことは、とっくにバレていたらしい。
「お父様、おはよう。ナタリーも、心配かけてごめんね」
「おはよう、ハルカ。色々言いたいこともあるが、とりあえず、夜中に抜け出すのはやめてくれ。心臓に悪い」
「そうですよ、お嬢様。どれだけ心配したことか!」
「ごめんなさい」
「まあまあ、二人とも。落ち着いて。そうね、朝食にはまだ早いし、もう眠れそうにないから、お茶でも飲みながら、これからどうしていくか、少しお話ししましょう」
お母様の提案に従うことにして、私たちはお父様の向かいのソファに腰を下ろした。すると、ナタリーがスッと温かい紅茶を差し出してくれる。私はそれを受け取り、柔らかな湯気の出るカップから、コクリと一口飲んだ。「ふう」と温かい息がこぼれ、体も温まってくる。私はもう一口紅茶を飲むと、お父様とお母様を見た。
「あのね、アーサーの『ふくふく計画』のこと、相談したいの」
お父様が、少し眉を上げた。
「ふくふく計画?」
「うん。アーサーをふくふくに育てる計画!」
私は、前世で五人の息子を育てた経験を思い出しながら、頭の中で組み立てた計画を語り始めた。
「まずね、アーサー、すっごくガリガリでしょ? だから、ちゃんと食べられるようにしないと」
お母様が頷く。
「そうね。あなたと同じ年なのに、体が一回りは小さいもの。栄養失調はかなり深刻だわ」
「だからね、最初はいきなり大食堂でみんなと食べるんじゃなくて、アーサーの部屋で私と二人で食べようと思うの。アーサー、きっと緊張しちゃうから」
「なるほどな」
お父様が腕を組んで考える。
「確かに、いきなりよく知らない大人に囲まれたら、食べにくいかもしれんな」
「それでね、最初は柔らかいものとか、お腹に優しいものから。スープとか、お粥とか。お肉とかは、もっと後。体力がついてきたら、少しずつ増やしていくの」
私は、ナタリーに頼んで机の上からノートを持ってきてもらう。昨夜考えてメモしておいた項目をざっと確認して話を続けた。
「それから、お日様の光をいっぱい浴びること! アーサー、ずっと暗い部屋にいたから。朝はちゃんと起きて、夜はちゃんと寝る。そういうの、大事だと思うの」
「朝日を浴びるのは、確かに大事だな」
お父様が頷く。
「それから、お母様にお願いがあるんだけど……アーサーの魔力のこと、時々診てもらえる?お腹の赤ちゃんの機嫌がいい時でいいから」
「ええ、もちろん。定期的に診察するわ。今はまだ体力がないから、魔石に魔力を移す練習から始めましょう。少しずつ、外で軽い魔法の訓練もできるようになるといいわね」
「ありがとう!」
私は嬉しくなった。
「それからね、一番大事なこと。アーサー、ずっと一人ぼっちだったから、『ここにいていいんだ』って思えるようにしたいの」
お母様が慈しみに溢れた優しい光を瞳に宿し、静かに相槌を打ちながら先を促す。
「だから、最初は私がずっと側にいる。手を握って寝たり、一緒にご飯食べたり。それで、少しずつお父様とかお母様とか、お祖父様とか、お屋敷で働くみんなとも仲良くなってもらえたらなって」
「お嬢様……」
ナタリーが、両手で口を押さえ、言葉を詰まらせる。
「あ、それから体力作りもしないとね。でも、これはもっと後。まずはいっぱい食べて、ふくふくにするのが先!」
私は、ノートを閉じた。
「とりあえず、三ヶ月頑張る! 三ヶ月で、アーサーの顔色が良くなって、体重が増えて、笑顔が増えるようにする!」
お父様とお母様が、顔を見合わせ、弾けるように笑った。
「わかった。お前の計画、全面的に協力する」
お父様が力強く言う。
「私もよ。それと、屋敷の皆にもその計画のこと、ちゃんと話して協力してもらいましょう」
お母様が私の手を取る。
「ただし、一つだけ約束して」
「なあに?」
「無理はしないこと。あなたもまだ五歳よ。アーサーのケアは大事だけれど、あなた自身の健康も大切なの。疲れたら休む。困ったらすぐに大人に相談する。いい?」
「うん、約束する!」
私は頷いた。
お父様が、少し心配そうな顔をする。
「それと、もう一つ。夜中に部屋を抜け出すのは、本当にやめてくれ。どうしてもアーサーが心配なら、ナタリーに頼んで見守ってもらうか、アーサーの部屋の隣に簡易ベッドを置くか……」
「あ、それいい! 隣に簡易ベッド!」
私の目が輝く。
「そうすれば、アーサーが不安になったらすぐに気づけるし、ちゃんと自分のベッドで寝られる」
「では、そうしましょう」
お母様はそう言って微笑むと、執事のセバスを呼んでテキパキと指示を飛ばした。まず、厨房にはメニュー開発と私へのサポートを、侍従とメイドには簡易ベッドの準備。庭師にはアーサーの部屋に飾るお花を。最後にメイド頭のマーサには全面的な私のサポートを頼むことになるようだ。
屋敷中が一丸となって、この計画に向けて動き出した。
これで、アーサーをふくふくに育てる環境が整った。
あとは、実行あるのみ。
「じゃあ、朝ごはんの準備してくる。アーサーの分も、お腹に優しいもの作るね」
私は立ち上がろうとした。
「ハルカ、待って」
お母様が私を止める。
「朝食の準備は、料理長やマーサたちに任せましょう。あなたはまず、少し休んで。それから、アーサーのためのメニューを考えるなら、マーサと相談しながらやるのがいいわ」
「でも……」
「大丈夫。みんな、アーサーを助けたいと思っているから。一人で抱え込まないで、みんなの力を借りるの。それが、一番アーサーのためになるわ」
お母様の言葉に、私は頷いた。
「わかった」
「よし、では俺も準備をしにいくか」
お父様が立ち上がる。
「父上にも話を通しておかないとな。かわいい孫娘が王子様を拾ってきて、ふくふくに育てようとしてるなんて聞いたら、きっと面白がるぞ」
「お祖父様……」
私は苦笑した。
確かに、お祖父様は面白がりそうだ。勢い余って「ワシが稽古をつけてやる!」なんてアーサーを連れ出さないよう、しっかりと話を通しておいてもらいたい。
「さあ、ハルカ。あなたも少し休みなさい。朝食までまだ時間があるわ」
私は、ナタリーに促されて自分のベッドに戻った。けれど、頭の中ではアーサーの『ふくふく計画』のアイデアがぐるぐると回っていて眠れそうにない。
まずは食事。柔らかいものから始めて、少しずつ量を増やす。
それから、生活リズム。朝日を浴びて、夜はしっかり眠る。
魔力過多症の対策も、お母様と一緒に。
心のケアは、私がメインで。たくさん話しかけて、たくさん笑わせて。
そして――。
三ヶ月後には、アーサーがふくふくになって、笑顔いっぱいになっているはず。
そう想像すると、胸がわくわくしてきた。
絶対に、成功させる。
アーサーを、絶対にふくふくに育ててみせる。
そして、大きくなったら――。
そんなことを色々考えているうちに、意識は深く沈んでいった。
◇◇◇
少し休んで体力気力が回復した私は、トレイに朝食を載せて、早速アーサーの部屋に向かった。
今日のメニューは、野菜のポタージュ、パン粥、リンゴをコンポートにしてペースト状にしたもの。
全部、マーサと相談して決めたメニューだ。量は少しずつだけど、色々食べてもらって、アーサーの好きな味を見つけたいと思っている。
「おはよう、アーサー。朝ごはん持ってきたよ」
ドアを開けると、アーサーがベッドの上で小さくなっていた。
「今日は、一緒に食べよう。私も朝ごはん、ここで食べるから」
私は、サイドテーブルに二人分のトレイを置いた。
「ほら、起きて。美味しいご飯、冷めちゃうよ」
アーサーが、もそもそとベッドから出てくる。
「はい、ここに座って」
椅子に座らせて、ナプキンを首に掛ける。
「今日のポタージュは、人参とカボチャ。甘くて美味しいよ」
スプーンにポタージュをすくって、フーフーと冷ます。
「はい、あーん」
アーサーが、素直に口を開ける。
山吹色のポタージュが、アーサーの口に入る。
アーサーの目が、少しだけ丸くなった。
「……おいしい」
「でしょ? 王城でも美味しそうにかぼちゃのポタージュを飲んでたから、好きな味かなと思って」
私はにっこりと笑った。
「かぼちゃはね、夏が収穫時期なんだけど、収穫してしばらく置いておくと、甘味が増して、どんどん美味しくなるの。だから、これから食べるかぼちゃのスープは、毎日どんどん美味しくなるのよ」
アーサーが、興味深そうに私を見ている。
「それにね、秋は『実りの季節』とも言われていて、他にも美味しい果物や野菜がたくさん採れるわ。きっとアーサーも好きな食べ物をいっぱい見つけられると思うの!」
私は、アーサーの手を取った。
「毎日一緒に美味しいご飯をいっぱい食べようね。そうしたら、きっとすぐにふくふくになるよ」
アーサーが、小さく笑った。
その笑顔を見て、私のやる気に火がついた。
よし、これからもっと頑張ろう。
アーサーの笑顔を、もっともっと増やしていこう。
『ふくふく計画』本格始動だ!




