第2話:キレイなモノ
アーサー視点のお話です。
僕が覚えている一番古い記憶は、乳母だったらしい人が部屋を出て行った時のことだ。
それまで使っていた広くてキレイな部屋から、ただ広いだけの薄暗い部屋に移された。
そこで、僕は毎日震えていた。
寒くて寂しくて、いつもお腹を空かせていた。
その部屋には、古びた椅子とテーブルがあるだけ。壁には何の飾りもなく、窓は閉ざされていて、空気が淀んでいた。まるで、誰も使っていない物置部屋のようだった。
誰も来ない。誰も僕を見ない。
たまに侍女が食事を運んでくるけれど、それも冷たいパンと水だけ。固くて、噛むのが辛い。でも、それしかないから食べる。食べないと、もっと体が動かなくなる。
服は古びていて、体に合わない。ぶかぶかの袖からのぞく腕は、骨と皮だけのように細い。
鏡を見ると、そこには知らない子供が映っていた。艶のない黒髪、落ちくぼんだ頬、淡い空色の瞳。その瞳は、まるで何かを諦めたような色をしていた。
これが、僕なんだ。
アーサー・エヴァーランド。第二王子。
侍女は無言で食事を置いて去っていく。時々来る養育係は、いつも数冊の本を置いて「読んでおいてください」とだけ言って、部屋を出ていく。
兄上――第一王子レイノルドは、たまに廊下ですれ違うと、僕を見ていつも顔を背ける。冷たい視線が、僕の存在を否定しているようだった。
現王妃エリザベス様は、僕のことを「あの子」としか呼ばない。そして、できるだけ関わらないようにしている。
父上――国王陛下は忙しい。たまに廊下ですれ違っても、気づかれない。いや、気づいていても、声をかけられない。
僕は、いない方がいいんだ。
そう思うようになったのは、いつからだろう。
母上のことは覚えていない。僕を産んで亡くなったと聞いた。だから、兄上は僕を憎んでいる。母上を奪った僕を。
それは、仕方のないことなんだ。僕が生まれなければ、母上は死ななかったのだから。
だから、僕は――。
ある日、高い熱が出た。
体が重くなって、呼吸するのも苦しくなった。
侍女を呼ぼうとしたけれど、声が出なかった。
魔力過多症。定期的に魔力を使わなければ、体を蝕んでいく病気らしい。でも、使っていい場所なんて知らない。使い方もわからない。
熱い、苦しいーー僕は、このまま、消えてしまうのかもしれない。
それでもいい、と思った。誰も困らない。むしろ、みんな喜ぶかもしれない。
それなら、ここにいない方がいいだろう。
僕は、ふらふらと部屋を出た。足が思うように動かない。廊下を歩いて、階段を降りて、中庭に出た。
外の空気は冷たかった。でも、部屋の淀んだ空気よりは、少しだけ心地よかった。
庭園は広く、色とりどりの花が咲いている。赤い薔薇、白い百合、紫の菫。どれも綺麗だけれど、僕にはまぶしすぎた。
足が、もう動かない。
庭の奥、生垣の陰に倒れ込んだ。誰も来ない場所。ここなら、邪魔にならない。
空が見える。青い空。雲が流れている。
僕もこのまま、あの青い空に溶けて行けたら――。
そう思った。
そのまま、目を閉じた。
もう、いいかな。
もう、消えてしまってもいいよね――。
◇◇◇
次の記憶は、小さな女の子の声だった。
「ちょっと、大丈夫!?」
誰かが、僕の肩を揺すっている。
「起きて! ねえ、起きて!」
必死な声。温かい手。
僕は、ゆっくりと目を開けた。
そこには、小さな女の子がいた。
赤みのある栗色の髪を三つ編みにして、煉瓦レッドのリボンをつけている。淡いアイボリーのドレスを着た、同じくらいの年の女の子。
そして――。
琥珀色の瞳。
光の加減で金色にも見えるその瞳は、心配と慈愛に満ちていた。温かくて、優しくて、まっすぐに僕を見ている。
その瞳を見た瞬間、僕は生まれて初めて思った。
キレイなモノを見つけた、と。
「よかった……意識があるんだね。大丈夫? どこか痛い?」
女の子は、僕の顔を覗き込んでいる。本当に心配そうな顔で。
どうして?
どうして、僕のことを心配してくれるの?
僕は、何も答えられなかった。声が出ない。ただ、じっとその子を見つめることしかできなかった。
その時、誰かがこちらに来る気配がした。
「ハルカ様! 何を……あっ」
彼女の侍女だろうかー僕を見て一瞬息を呑んだ。
「この方は……第二王子、アーサー・エヴァーランド様です」
「アーサー様? 王子様なの、この子?」
ハルカ、と呼ばれた女の子が、不思議そうに僕を見る。
そして――。
立ち上がって、侍女のところに戻った。
ああ、やっぱり。みんな、離れていく。僕を見て、それから離れていく。
でも、次の瞬間。
「お父様とお母様のところに連れて行く」
ハルカの声が聞こえた。
え?
「このままじゃ、この子死んじゃう!」
ハルカと侍女が、僕を抱き起こそうとする。
どうして?
どうして、僕を助けようとするの?
僕は、驚きで何も言えなかった。
そして、気がつくと、侍女に抱えられて宮殿の中に運ばれていた。ハルカは僕の手を握って、一緒に走っている。
小さな手。温かい手。
初めて、誰かにこんなふうに触れられた。
◇◇◇
そこから、すべてが変わった。
ハルカの父親――タイロン・オンタリオ辺境伯が僕を抱き上げた。大きくて温かい人だった。
ハルカの母親――ミランダ様が、僕に治癒の魔法をかけてくれた。柔らかな青白い光に包まれて、少しだけ呼吸が楽になった。
そして、父上が来た。
父上は、僕を見て顔色を変えた。
「アーサー……!」
その声には、驚きと、そして何か別の感情が混ざっていた。
僕は、初めて父上が僕の名前を呼ぶのを聞いた気がした。
執務室に運ばれて、ソファに横たえられた。
そして、温かいスープが運ばれてきた。
ハルカが、僕の隣に座った。
「はい、あーん」
スプーンにスープをすくって、フーフーと息を吹きかけて冷ましてから、僕の口元に運んでくれる。
僕は恐る恐る口を開けた。
スプーンが口の中に入る。山吹色のスープ。ほんのり甘い香り。
そして――。
温かい。
優しい味。トロッとしていて、甘くて、ポカポカする。
今まで食べたことのない、温かくて優しい味。
「……おいしい」
思わず、声が出た。
ハルカが、にっこりと笑った。
「そうでしょ? かぼちゃのポタージュよ。もっと食べられる?」
僕は小さく頷いた。
ハルカはもう一口、スープをすくう。フーフーと冷まして、また口に運んでくれる。
それを何度か繰り返すうち、僕の体が少しずつ温かくなっていくのを感じた。
冷え切っていた体が、ポカポカする。
心も、少しずつ温かくなっていく。
スープが半分ほどになった頃、僕は小さく呟いた。
「……ありがとう」
ハルカの琥珀色の瞳が、優しく僕を見つめている。
「どういたしまして。もっと食べられる?」
僕は頷いた。
ハルカは最後まで、スープを食べさせてくれた。器が空になると、僕は名残惜しそうに器を見ていた。
もっと食べたい。この温かい味を、もっと。
「また後で食べようね。今は少し休もう」
ハルカが優しく言う。
僕は頷いて、そっと目を閉じた。
でも、ハルカが僕の手を握ってくれていた。
温かい手。
この温かさを、僕は忘れない。
◇◇◇
目を覚ますと、大人たちが話している声が聞こえた。
父上と、タイロン様と、ミランダ様。
僕のことを話しているようだった。
魔力過多症のこと。養育のこと。現王妃のこと。
そして――。
「こんな小さな子をガリガリのままほっとくなんて信じらんない!」
ハルカの大きな声が響いた。
僕は目を開けた。
ハルカが、小さな体をこれでもかというくらいに反らして、父上の前に立っている。昔、乳母がまだいた頃、僕を叱る時によくこんなポーズをとっていたな。
ふふ、なんだか父上が怒られているみたいだ。
「誰もこの子に構わないというなら、私が貰って帰ります! いっぱいご飯を食べさせて、いっぱい楽しいこと教えて、ふくふくに育ててみせます。その頃になって返せと言われたって、返してあげないんだから!」
ハルカの声は、力強くて、優しくて、温かかった。
僕を、欲しいと言ってくれている。
僕を、育てると言ってくれている。
そして――。
「私がこの子をふくふくに育てて、大きくなったらお婿にもらいます!」
その言葉に、僕の心臓が大きく跳ねた。
お婿?
僕を?
父上が、声を上げて笑い始めた。
「そうか。其方が此奴をふくふくに育てて婿にもらってくれるのか! いいだろう。そなたに我が息子を預けよう。頼んだぞ! ハルカ」
父上が、笑っている。
初めて見る、父上の笑顔。
そして、ハルカが僕の方を見た。
琥珀色の瞳が、まっすぐに僕を見つめている。
「大丈夫だよ、アーサー。これから、いっぱいご飯食べて、いっぱい遊んで、元気になろうね」
その言葉が、僕の胸に染み込んでいく。
ハルカの手が、僕の手を握る。
温かい。
この人と一緒なら――。
僕は、小さく頷いた。
「……はい」
自分でも驚くほど、その声ははっきりしていた。
◇◇◇
そうして、僕はオンタリオ領に来ることになった。
父上が、僕に優しく声をかけてくれた。
「アーサー、オンタリオ領で元気になるんだぞ。父は、お前のことをいつも思っている」
僕は、小さく頷いた。
「……父上」
父上は、僕の頭を優しく撫でてくれた。
初めて、父上に触れられた。
温かかった。
「半年に一度は会いに行く。会いに行けない時は、手紙を書く。だから……元気でいてくれ」
「……はい」
タイロン様が、僕を抱き上げてくれた。
「さあ、行こう。オンタリオ領には、あなたを待っている人たちがたくさんいる」
僕は、タイロン様の腕の中で、ハルカを見た。
ハルカが、にっこりと笑っている。
「ね、アーサー。向こうには、すっごく大きなお祖父様がいるの。熊みたいに大きくて、強くて、優しいの。きっと、アーサーのことも可愛がってくれるよ」
それでも不安で、僕はじっとハルカを見つめた。
「大丈夫。みんな優しいから。それに、私がずっと一緒にいるから」
その言葉に、僕の頬が少しだけ緩んだ。
ミランダ様が転移の術式を組み始める。青白い光が足元に広がる。
「では、一緒に参りましょう」
ミランダ様の声は、温かかった。
光が僕たちを包む。視界が歪み、一瞬の浮遊感。
そして――。
次の瞬間、僕たちは広い場所に立っていた。
広大な敷地。石造りの堅牢な屋敷。遠くには深い緑の森が見える。空は広く、風は爽やかだ。夕日が屋敷を赤く染めている。
王宮とは、まったく違う景色。
開放的で、温かくて、どこか優しい場所。
「ようこそ、アーサー。ここが、私たちの家だよ」
ハルカがそう言った。
家。
僕の、家?
僕は、大きな瞳で屋敷を見上げた。
ハルカが、僕の手をぎゅっと握ってくれている。
その温かさが、僕に教えてくれる。
ここが、僕の居場所になるんだ。
あのキレイな琥珀色の瞳を持つ、ハルカの側。
そこが、僕の居場所になる。
気がつくと、胸の奥から何かがどんどんと溢れ出してきて、僕の新しい家は滲んでよく見えなくなっていた。




