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気持ちの提出方法

作者: 菱屋千里

★★★<1>


 東京本社の会議室で、月次報告会が行われていた。目の前のモニターには数字が並び、発表者の声が耳に入る。でも、私の視線は向かい側の席に座る菊池に向かっていた。大阪から出張で来ている彼は、真剣な表情でメモを取っている。ペンを握る手に浮かぶ青い血管が、集中している様子を物語っていた。会議中なのに、ついつい彼を見てしまっている自分に気づいた。


 会議が終わり、参加者たちが退室し始めていた。彼が資料を片付けている。


「菊池くん、この資料の件なんだけど」


 企画部の荒木が彼に近づき、必要以上に体を寄せている。赤いネイルで彼の資料を指し示す様子は、まるで縄張りを主張するかのようだ。


「ああ、これですね。こちらに詳細が……」


 真面目に説明する彼の横顔が、荒木の熱っぽい視線に舐められている。なぜか内心に不快感が広がった。荒木は必要以上に笑顔を見せ、彼の一言一句に頷く様子。菊池を追う彼女の目の光は、まるで獲物を捕らえた猫のようだった。


 会話の切れ目に、声をかけた。


「菊池くん」


「あっ、(はなわ)さん」


「今日は泊まりでしょ? 夕食、一緒にどう?」


 荒木とはあえて視線を合わせず、言葉を継ぐ。


「二人で相談したい話もあるし」


 彼の目元に小さな笑みが浮かんだ。


「ぜひご一緒させてください!」


 荒木の表情が一瞬こわばった。


---


 街を見下ろす窓際の席。柔らかな照明に照らされたテーブルの上で、赤ワインのグラスが輝いていた。グラスを持ち上げ、対面に座る彼と目が合う。仕事を終えた菊池は、緩めたネクタイの隙間から喉元を覗かせた。


「お疲れ様。今日も忙しかったわね」


 会話を始める。仕事での冷静さと、今ここにいる自分の切り替えの難しさを感じながらも、彼との距離を少しでも縮めようと思った。一昨年、私のチームに異動して来た彼とは、勤務地の違いもあって、ゆっくり話す機会は限られていた。


「塙さんのおかげで、いい提案になりそうです」


 彼の言葉には、素直さがある。その率直さが私の緊張を緩める。


 ワインで血色が良くなった頬が、薄暗い灯りの中で生き生きと見える。


 仕事の話を一通り終えると、意識的に話題を変えた。


「ところで、菊池くん」


「仕事以外では何してるの?」


 彼は少し考えるように視線を泳がせ、それから少し照れたように答えた。


「最近は読書にはまってます。『手紙の行方』という小説なんですが、すごく面白くて」


「へえ、どんな話なの?」


「郵便局の"行方不明郵便課"で働く主人公が、宛先不明の手紙を正しい相手に届けようとする話なんですけど、色々な事件が……」


 生き生きとした表情で、物語について語る様子に引き込まれる。普段の会議室での彼とは違う、柔らかな表情と言葉選びに、心地よさを覚える。


「塙さんは、最近、お休みの日は何をしてるんですか?」


 少し考えてから答えた。


「美術館に行ったり、一人でゆっくり過ごすことが多いわ」


「いいですね。なんだか洗練されてるって言うか、塙さんらしい」


 思いがけない言葉に、ほんの少し頬が熱くなる。そう思われているなら嬉しい。


「コロナ前は、東京と大阪の交流って限られてたけど、今は随分変わったわね」


「そうですね。ちょうどコロナの1年前に入社でしたらから、とまどいました」


「急にオンライン会議になったりしてね。でも、重要な会議や打ち合わせは結局行き来することになるのよね」


「はい、でも、今日みたいに誘ってくれると、出張も楽しみになりますから」


 ワインが進み、話題は次第に深く、個人的なものになっていく。彼が大学時代から社会人になって数年の間、真剣に付き合っていた人がいたと知った。28歳の男性として、それは特別驚くことではないが、どこか仕事一筋のイメージがあった彼のプライベートを垣間見た気がして、興味が湧いた。


「菊池くん、私……」


 三杯目のワインを前に、勇気を出して話し始めた。


「あなたのこと、仕事だけの関係じゃないといいなと思ってるの」


「僕もです」


 彼が微笑む。整った眉の下で瞳が柔らかな光を帯びる。


「塙さんのこと、素敵だと思ってます」


「素敵」という言葉が耳の奥で何度も反響する。その距離をおいたような褒め方に、少し寂しい気持ちになる。


---


 時間は予想以上に早く過ぎ、別れの時間が来た。店を出て、共に歩きながら駅の方向を指す。


「今夜は楽しかったです。ありがとうございました」


 駅の改札口を背に立つ彼。


「こちらこそ」


 別れ際、思わず彼の肩に触れてしまった。温かさが指先から伝わってくる。一瞬の接触に、息が詰まりそうになる。そして、その一瞬の間に、彼の瞳にも何かが灯ったように見えた。


「また、お話しましょう」


 人混みに吸い込まれていく後ろ姿を見つめる。脈拍が速くなるのを感じる。


 菊池への想いと、上司としての立場との狭間で揺れる気持ち。この夜を境に、私たちの関係は何かが変わり始めたように感じた。



★★★<2>


 最初の夜から一週間が過ぎた。


 自宅のリビングでソファに横たわる。彼との時間が蘇る。彼との触れ合い、彼の肩に触れた時の感触が、まだ指先に残っているような気がする。かつて自分がこんな風に人を想うことがあっただろうか。


「菊池くん」


 思わず口から名前がこぼれ、唇が自然に緩む。どうしてこんな気持になるのだろう。今までは、感情を押し殺して、常に先を読み、冷静でいることが「上司」の役目だと思っていた。でも率直な彼と話していると、そんな仮面をつける必要はなかった。同時に、素顔を見せることが少し怖くもある。


 来週のカレンダーには、大阪出張の予定が入っている。また彼に会える。その予定表の一行だけで心の奥が熱を帯びていく。大阪とのオンライン会議の画面に映る彼の顔を見るたび、以前とは違う感覚が走るようになっていた。


 最初は部署の若手の一人として見ていただけなのに、なぜか彼の仕草や表情に、男性としての魅力を感じるようになっていた。それは確かな変化だった。


 次の出張では、どんな風に彼と過ごせるだろう。そんな思いが、想像の中で膨らんでいく。


---


 目を閉じると、彼の姿が浮かんでくる。


 大阪出張の夜。ホテルの部屋のドアをノックする音。


「失礼します、塙さん」


 ドアを開けると、彼は仕事帰りの姿のままだった。いつものスーツ姿ながら、ジャケットは腕に掛け、第一ボタンを外したシャツから覗く鎖骨のラインが見える。緩められたネクタイが彼の首筋の力強さを引き立てていた。


「どうぞ、入って。お疲れ様」


 彼を招き入れる。簡単な仕事の報告から始まった会話は、徐々に日常へと滑り込んでいく。彼の笑い声が部屋に響き、その明るさが空気をやわらかく溶かしていく。


「いつも仕事のことばかりで申し訳ないんですけど、ちょっと聞きたいことがあって……」


 彼がソファの端に腰掛け、視線を上げる。ワイシャツの袖をまくり上げた腕に、青い血管が浮かんでいる。太くはないが、しなやかさを感じさせる引き締まった腕。


「なにかしら?」


「実は……」


 少し躊躇した彼は、長いまつげの下から目を上げた。その瞳に、いつもと違う光が宿っている。


「前から思ってたんですけど……塙さんのことが……気になってて」


 その言葉に、鼓動が耳を打つ。それは単なる尊敬や憧れを超えた告白だった。


「菊池くん……」


 彼の名前を呼ぶと、さらに身を寄せてくる。シャツの隙間から見える胸元、爽やかな石鹸の香り、すべてが感覚を刺激する。


「塙さん……いえ、理沙さん」


 その目には決意と緊張が揺れていた。彼の唇が触れる。柔らかで温かい感触が広がり、時間が止まる。


 彼の手が肩に回される。キスは次第に深まっていく…


---


 ハッと我に返った。


 現実に戻ると、ソファに横たわったまま息が荒くなっていた。額には汗が滲み、体の内側から熱が広がっている。自分でも驚くほどの反応に、恥ずかしさと高揚感が入り混じる。


 立ち上がり、窓際に立って夜景を眺める。光が織りなす海に、心が溶け込んでいくような錯覚。リビングを一周し、落ち着かない足取りがカーペットに跡を残す。


 彼は部下だ。しかも7つも年下。これは明らかにパワハラ、セクハラの領域だ。私、何てこと考えてるんだろう。でも、彼の笑顔、仕草、声の響き。全部が頭から離れない。


 彼があんな風に私を見るわけがない。夢物語だ。でも……あの一瞬の接触のとき、瞳に灯った光は、何かを意味しているかも。そんな甘美な考えが、心に広がっていく。


---


 翌日の午後、オンライン会議が始まった。大阪支社との定例会議だ。画面上の菊池の姿を見た瞬間、昨夜の妄想が鮮明によみがえり、一瞬言葉が喉に引っかかる。


「次の案件ですが、こちらは進捗は順調で……」


 彼の落ち着いた声が耳に届く。慌てて表情を整える。画面越しでも、彼の真剣な表情と、時折見せる微笑みに心が奪われる。


 会議が終わり、参加者がログアウトしていく中で、荒木が画面の端のウィンドウに残っていた。


「菊池くん、次の東京出張の日程、教えてくれる?」


 彼女が甘ったるい声で話しかけているのが聞こえてきた。「予定を合わせたいから」との言葉に、思わず眉をひそめる。画面越しでも、彼女の熱のこもった視線が透けて見えるようだった。菊池はいつもの穏やかさで応じていた。


 荒木もログアウトし、二人だけが残されると、彼が少し表情を和らげた。


「塙さん、それと来週の大阪出張なんですが」


「ええ、何かしら?」


「お店、予約しておきますね。お時間合いますか?」


 その提案に、心が弾んだ。一緒に食事をしたいという彼。あの夜の肩に触れた瞬間を覚えていて、また同じ時間を過ごしたいと思っているのか。それとも単なる上司への気遣いなのか。


「ええ、ぜひ。楽しみにしているわ」


 通話を終えた後も、来週のことを繰り返し考える。ただの親しみの表現なのか、それとも特別な意味があるのか。小さな期待が心の内に芽生えていた。



★★★<3>


 日曜の午後。大阪行きの新幹線に乗り込みながら、彼の肩に触れた時の感触を、また思い出していた。わざわざ休日に、前泊する私と食事をしてくれる。彼の方でも何かを感じているのではないか。車窓から流れる景色を眺めながら、この出張での再会に心を躍らせていた。


 スマートフォンにメッセージが届いた。


「ホテルにチェックインしたら、連絡ください。駅近くなので、歩いて行けるお店を選びました」


 言葉遣いに、以前よりも親しさが漂う。あの夜の出来事が二人の距離を縮めたのだろうか。私への好意も少しはあるだろうか。そう思うと、期待と不安が入り交じる。


 大阪に到着し、ホテルにチェックインした後、約束通り連絡を入れた。


 先週のオンライン会議での菊池と荒木の姿を思い出していた。資料について熱心に話す荒木の顔。彼女の言葉に頷く菊池。その光景は何気ないものだったはずなのに、なぜか記憶に引っかかる。そして、菊池が彼女の質問に答える時の真剣な表情。


「私と話す時と同じ表情……」


 胸が締め付けられる。どうして荒木との会話で見せる彼の表情が気になるのだろう。菊池は誰に対しても誠実なのに、その当たり前の事実が今は少し痛い。


 鏡に映る自分の姿を見つめ、静かに息を吐いた。今夜はもう少し踏み込んだ話もしてみよう。化粧を直し、髪を整え、深呼吸してからロビーに降りると、既に菊池が待っていた。ネイビーのジャケットにグレーのパンツという、オフィスよりも少しだけカジュアルな装い。いつもと違う印象の彼の姿に、心臓は止まりそうなほど早く打っていた。


「お疲れ様です、塙さん」


 その笑顔は、どこまでも自然で親しみやすく、昼間のオフィスとは少し違う柔らかさがあった。笑顔の下には、シャツのボタンを一つ開けた喉元が覗いている。


「お待たせ、菊池くん」


「行きましょうか。お店、歩いて行ける距離ですよ」


 導かれるまま、ホテルを出て夜の街へ。


「ここです」


 案内されたのは、大通りから少し入った路地にある落ち着いた日本料理店。木の温もりが感じられる上品な内装で、仕切りのある半個室のテーブルに案内された。


「いい感じだと思いません? 実は、下見にも来たんですよ」


 得意げに目を輝かせる様子に、内心暖かいものが広がった。そして、周囲の視線を気にせず会話できる環境に心がほぐれていく。すぐに季節の前菜が運ばれてきた。日本酒のメニューを見せられ、菊池のおすすめで純米大吟醸を選んだ。


 グラスに注がれた透明な液体に口をつけると、米の上品な香りが広がり、喉を通った後に微かな甘みが残る。緊張が少しずつ解けていく。


「明日朝のクライアント訪問、大丈夫そうですか?」


「ええ、菊池くんが手伝ってくれたから、準備万端」


 仕事の話題から始まり、少しずつ会話が弾んでいく。


「あのプロジェクトの方も順調そうね」


「ええ、塙さんのアドバイスのおかげです」


 彼は嬉しそうに微笑んだ。その表情に、私も自然と笑顔を返す。話題が変わり、今ではチームが地域を越えて編成されることが増えたという話になった。


「やっぱり人間関係は距離があると難しい部分もあるわよね」


「そうですね。直接でないと、オンラインでは伝わらないことも多いですし」


 彼はグラスの酒を見つめ、少し感慨深げにうなずいた。そこで尋ねてみる。


「そういえば、前に少し話してたけど、大学時代の彼女さんと別れたのも遠距離が原因だったのよね?」


「はい。彼女が東京の会社に就職して、僕は大阪に残ったので…最初は頑張ったんですけど、結局はコロナもあって……」


「それでも、長く続いたんだよね」


「4年ほどです。でも、今思えば、これも仕方ないのかなって」


 彼の表情は穏やかで、深い傷はないようだった。どこか安心する気持ちがあった。


「塙さんは……その、今お付き合いしている方はいらっしゃるんですか?」


 予想外の質問に少し戸惑ったが、率直に答えた。


「ええ、今は特に……」


「塙さん、すごくモテそうなのに」


 そう言われると、どこか切ない気持ちがこみ上げてきた。


「そうかしら。でも、なかなか長続きしないのよね」


 これまで交際したことがある男性は、社会的な立場や知識を誇り、自分を大きく見せようとするタイプが多かった。尊敬されたい、負けたくないという気持ちが見え見えで、関係が長続きしなかった。


「どんな人がタイプなんですか?」


 これまでの相手が求めていたのは、たぶん「ある程度仕事『も』できる女性」「自分の価値の意味をわかってくれる女性」に尊敬されることであって、本当の私ではなかった。だから菊池の率直な目が、時々怖いほどに心地よく感じる。


「そうね…素直で、自分に正直な人かな」


「エリートでカッコいい人じゃないんですか?」


 少し意外な質問に、軽く首を傾げる。


「なぜそう思うの?」


「だって、塙さんも仕事できるし、センスもいいし……」


 思わず苦笑してしまう。やはり私のことを「上司」として見ているのか。それとも、本当に素直な感想なのか。


「そんなことないわよ。褒めすぎ」


「なんか、いつも完璧な印象で……」


 少しずつ本音が出てくる会話に、流れる空気が変わっていく。


「最初、塙さんのこと、すごく怖いと思ってたんですよ」


 突然の告白に、思わず吹き出してしまった。


「そうだったの?」


「はい。異動して最初の東京出張のとき、会議ですごく厳しい質問をされて……」


 彼は照れくさそうに笑った。その笑顔に、胸が熱くなる。


「ごめんなさい。あんまり覚えてないけど……、第一印象、最悪ね」


 年上で経験豊富な部下や、同期入社の男性社員もいる。舐められないようにと、会議では気が張り詰めているのは確かだ。


「でも、的確な指摘でした。塙さんのように、きっちり対応しないと、って思いました」


「私、そんなにきっちりしてないわよ。家では散らかし放題だし、休日はパジャマのまま一日過ごしてるわ」


「えっ、そうなんですか?」


 彼は驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。


「塙さんのそんな一面が聞けて、なんだか嬉しいです。それに、こうしてると、塙さんは話しやすいです」


 目が合った。そこには単なる上司への敬意だけでなく、一人の人間としての信頼が見えた気がした。仕事上の塙ではなく、素の自分を見てくれているという安心感。彼がそう思ってくれているなら嬉しい。


 日本酒が進み、さらに言葉も表情も柔らかくなっていく。彼のシャツの袖がまくれ上がり、前腕の筋肉のラインが見えた。長いまつげが時折瞬き、その度に影が頬に落ちる。普段のオフィスでは見ることができない姿。


「菊池くん、今日はいつもより格好いいわね」


 そんな言葉を投げかけてみる。彼は頬を赤らめて軽く笑った。


「えっ? 塙さん、酔ってます?」


 酔いは確かにあった。でも、それだけじゃない。この二週間、彼の存在が私の中で膨らみ続けている。彼の笑顔、仕草、言葉の端々が脳裏から離れず、目を閉じれば彼の顔が浮かぶほどだった。


「キスしてもいい?」


 冗談めかした、軽さを装った口調で尋ねた。でも、自分でも驚くほど声が震えている。彼は一瞬言葉を失い、それから混乱したように視線を泳がせ、言葉少なに答えた。


「え…まあ、ダメじゃないですけど……」


 この機会を逃す気はなかった。身を乗り出し、頬に軽くキスをした。間近で感じる肌の温かさに息が詰まる。爽やかな石鹸の香りが鼻腔を満たし、ほんの一瞬、彼の体温が私の唇に伝わった。


 彼は一瞬固まった。耳が赤く染まっている。


「本当にするとは思いませんでした」


 少し照れた表情に、心が躍った。


---


 店を出る頃には、外の空気が冷たくなっていた。


「ホテルまで送ります」


 菊池と並んで歩きながら、夜の街の喧騒が少し遠くに感じられた。先ほどのキスのことが頭から離れない。彼の頬の柔らかさ、一瞬感じた温もり、そして照れながらも嫌がらなかった反応。


 ホテルのエントランスに着くと、彼が足を止めた。


「今夜は楽しかったです」


 その言葉が、胸に小さな針を刺す。こんなに普通の口調で言うの? たった今、私たちの間に何かが起きたはずなのに。


「こちらこそ」


 口から出た言葉と心の中の感情がかみ合わない。どうして素直に言えないんだろう。キスをした後、もっと違う反応を期待していた。……そう、もっと積極的な何かを。


 少し間を置いて、彼は優しい笑顔を見せた。その笑顔さえ痛い。誰にでも向ける笑顔なのだろうか。わからなくて苦しい。


「では、また」


「おやすみなさい」


 彼の後ろ姿が夜の闇に溶けていくのを見送りながら、心が沈んでいく。エレベーターのドアが閉まると同時に、大きなため息が漏れた。バカみたい。何を期待してたんだろう。


 ホテルの部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せる。窓から見える大阪の夜景が、どこか他人事のように遠く感じられる。今夜の出来事が何度も頭をよぎる。彼の言葉、表情、そして頬へのキス。全部が混ざり合って、何が本当だったのかわからなくなる。


 あのキスは間違いだったのだろうか。でも、彼は嫌がらなかった。拒否しなかった。その事実だけが、唯一の救い。


「菊池くん……」


 名前を呼ぶと、少し心が落ち着く。もしかしたら、彼も戸惑っているだけかもしれない。一度や二度のキスで簡単に心が動くわけない。私だって、こんなに惹かれるなんて思ってもみなかった。


 彼は若い。私は上司。障壁は山ほどある。それでも、あの照れた表情、赤くなった耳たぶ。あれは嘘じゃないはず。


 夜景を見つめながら、小さな希望の灯りを胸に抱いた。この灯りを消したくない。たとえどんなに弱い光でも。



★★★<4>


 あのキスの夜から二週間が過ぎた。


 プロジェクトの月次報告会のため、菊池が再び東京本社に来ていた。会議室での発表は落ち着いていて、質問への受け答えも的確だった。彼が話している間、普段通りに振る舞おうとしたけれど、周りの視線が気になって落ち着かなかった。


 会議終了後、荒木が菊池に近づいていくのが見えた。長い髪を揺らしながら、彼のデスクへと向かう姿に目が留まる。熱心に何かを話しかけ、また必要以上に体を寄せ、何度も笑顔を見せている。菊池は礼儀正しく応じているが、体はやや後ろに引き、明らかに距離を取ろうとしていた。


 少しムッとする感情が胸の奥に広がった。彼の方から会話を切り上げて離れていくのを見て、内心ほっとする。これが嫉妬というものなのだろうか。


 そんな心の動きを必死に押さえ込みながら、自席に戻ると、彼からメールが届いた。


「後で、お時間いただけますでしょうか。少しお話したいことがあります」


 返信しながら、胸の高鳴りを抑えることができなかった。


---


 夕刻、前回と同じ店の同じテーブルに着いた。窓の外では雨が降り始め、ガラスに水滴が伝う様子が、なぜか心を落ち着かせた。


「今日の発表、良かったわよ」


「ありがとうございます。塙さんのアドバイスのおかげです」


 最初は仕事の話から始まったが、ワインのボトルが半分になる頃、彼の表情が少し真剣になった。


「実は、先週、企画部から話があったんです」


 少し驚いた。自分が所属する営業部ではなく、別の部署からのオファーだという。異動に上司の合意を必要としない、新しい人事制度を適用してきたということか。


「そう、知らなかったわ。うちの部門じゃないから……」


「はい。新しいブランドのチームに入らないかという話です」


「異動の話、受けるの?」


 彼は一瞬言葉を切り、グラスを手に取った。


「はい、受けることにしました」


 菊池の真っ直ぐな目が見つめている。その言葉が頭の中で反響する。異動。私の手元から離れていく。一瞬、息が止まりそうになる。


「新しい製品ラインのブランディングを一から任せてもらえるそうです。自分のアイデアを形にできる機会は貴重ですし……」


 彼の声が遠くから聞こえてくるようだ。成長を応援したい気持ちと、手放したくない気持ちが入り混じる。喜ぶべき? 悲しむべき? 相反する感情が胸の中でぶつかり合う。


「そう」


 短い言葉しか出てこなかった。複雑な感情が胸の中で渦巻いている。本当は何と言えばいいのだろう。彼の成長を願う気持ちはある。だけど、直接一緒に仕事をすることはなくなり、接点は激減するだろう。荒木にしてやられた。だけど、私もやってることは同じ。むしろ悪質かもしれない。上司であることを利用している。胸が締め付けられる。


 でも同時に、同じ東京で働くことになる。それに、直接の上司と部下の関係でなくなるのは、社内恋愛としての障壁が一つ取り除かれることにもなる。そう考えるといい面もある。


 一方で、別の不安もよぎった。もしかしたら私の元で働きたくないのか。あのキスのことがあったから、距離を置きたいと思ったのか。そう考えると、心が痛む。


「企画部って……荒木さんもいる部署よね」


 思わず口にしてしまった。


「はい、そうです。この異動、もともと彼女があちらの上司に提案してくれたんです」


「そう」


 そう答えると、短い沈黙が落ちる。


「塙さん……」


 彼が言いかけたとき、窓の外で稲妻が走った。そのほんの一瞬の光の中、彼の瞳に映る何かを見た。二人の視線が交わり、グラスの中のワインが揺れる。その先にある可能性は、まだ見えないところにある。


「また連絡します」


 言葉には、約束とも単なる挨拶ともとれる曖昧さがあった。返事をする代わりに、グラスを傾けた。


 窓の外では雨が強くなり、街の灯りがぼやけていった。



★★★<5>


 菊池が東京への異動を告げて二週間。突然、会社全体に「コンプライアンス強化に関する重要通達」というメールが一斉配信された。朝一番にそのメールを開き、内容を読み進めるにつれて、表情が固まっていく。


「社内コミュニケーションガイドライン改定について」と題された添付ファイルには、驚くべき内容が記されていた。


---


「近年の社会状況を鑑み、当社では社員間のコミュニケーションに関するガイドラインを下記の通り改定いたします。


 1. 社員間(特に男女2名)での食事・飲酒を伴う会合については、パワーハラスメントおよびセクシュアルハラスメント防止の観点から、事前に「交流届」の提出を義務付けます。


 2. 本ガイドラインは社員の皆様を守るための措置です。ご理解とご協力をお願いいたします。」


---


 画面から目を離し、窓の外に広がる灰色の空を眺めた。大阪出張での菊池とのディナー、あのキス。全部バレてる? 誰かが見てた? 菊池が通報した? 違う、そんなはずない。彼はそんな人じゃない……ないはず。でも、本当は嫌だった?


 頭の中がぐるぐる回る。思考が散らばって集まらない。冷や汗が背中を伝う。


 荒木が目撃して報告? でも大阪だった。半個室だった。誰も見てないはず。でも、もし……。


 胸の奥に広がる不安が、全身に毒のように回っていく。菊池との関係も、順調な会社生活も、これでおしまい?


 でも、もし問題になったんだったら、何か人事から連絡があるはず。でも、このタイミング。この妙なタイミング。単なる偶然? 偶然だったとしても、このガイドライン。菊池との未来が、閉ざされてしまう。


「塙さん、おはようございます」


 出社してきた部下に無理に笑顔を作って応じる。内側では嵐のような感情が渦巻いているのに、表情には出さないよう必死に抑える。


 オフィス中がざわついている。「社員を守るためって、何様のつもりだよ」「大人同士の付き合いに会社が口出すなんて」といった不満の声が聞こえてくる。そんな声の一つ一つが、内なる声と重なり合う。


「これって完全プライベートなのか、業務の延長なのかの線引きはどうなるんだ?」


 営業部のベテラン社員が不満げに声を上げた。それを聞いていた若手社員が言いにくそうに続けた。


「あの……同性愛の人だっているじゃないですか」


 一瞬、オフィスが静まり返った。


「そうだよな。男女の組み合わせだけが問題じゃないよな」


 議論が加熱していく様子を遠巻きに聞きながら、苦笑いを浮かべた。会社という場所の中で、人間関係の複雑さがこれほど露わになる瞬間は珍しい。


 その日の午後、人事部からフォローアップのメールが届いた。「交流届」のテンプレートファイルが添付されていた。見出しには「社員間交流届」とあり、日時、場所、目的、参加者の関係性まで記入する欄がある。最後には「本交流が職務上の権力を悪用するものではないことを誓約します」という一文まであった。


 そのメールを見つめると、胸が締め付けられた。


---


 オフィスでは「今日、一杯どう?」という誘いが減り始めていた。


「たまたま同じ店にいたことにしようぜ」

「バレたら面倒なことにならないか?」

「実質、社内恋愛禁止ってことだよな」


 この新しいルールは、人と人の繋がりを遮断する壁のようだった。それを感じるたびに、菊池との関係はどうなるのだろうかという不安が胸をよぎる。


 異動が決まった菊池を送り出す営業部の送別会が開かれることになった。心のどこかでは、これが彼と過ごせる最後の機会になるのではないかという恐れがあった。


 送別会では、大勢でのにぎやかな会話が弾んでいた。菊池の笑顔が、照明の下で輝いている。その姿を見守りながら、これまでの道のりを思い返す。初めて意識し始めた日、大阪でのキス。


「こういう大人数の飲み会なら安心だよな」

「そうそう、届け出もいらないしね」


 そんな会話も交わされる砕けた雰囲気の中、近くに来た菊池が、そっと話しかけてきた。


「塙さん、後で少し話せますか?」


「交流届は……」と言いかけると、菊池は穏やかに微笑んで言った。


「カフェなら、飲み会ではないですよね」


---


 送別会の後、夜の街にあるカフェで向かい合って座った。店内の温かな照明が、窓の外の暗がりと対照的だ。彼はいつもよりも落ち着きがなく、何度も目を逸らす。


「ガイドライン、息苦しいですよね」と菊池が切り出した。


「ええ、でも時代の流れなのかもしれないわ」


 そんなの、本心じゃない。


「でも、僕は……」


 彼はコーヒーカップを見つめながら言葉を選んでいた。テーブル上の小さなランプの光が、横顔を柔らかく照らしている。


「大阪の夜以来、ずっと考えてました。もっとちゃんと、って……」


 胸が高鳴る。彼もあのキスのこと、ずっと考えてたんだ。


「会社のルールに制限されたくないんです」


 息が止まる。その言葉が、私の中の何かを揺さぶった。


「私も同じよ」


「塙さん、覚えてますか? 前に話した彼女のこと」


「ええ、遠距離が原因で別れたんだったわね」


「そう、コロナで会えない日々が続いて……移動が緩和されても、お互い忙しくて、結局、関係を維持できなかった」


 菊池は少し遠くを見つめるように続けた。


「あれから、踏み出せなくて……でも、もう違います」


「だから今回は……違う選択をしたいんです」


「どういう意味?」


 ―― 時が止まった。カフェの喧騒が遠のく。彼の言葉だけが耳の中で繰り返された。


---


 その会話から半年後。


 朝日が窓から差し込み、寝室に柔らかな光のグラデーションを作っている。枕元の時計は7時を指していた。隣で眠る寝顔を見ると、胸に温かいものが広がる。


 静かにベッドを抜け出し、キッチンへ向かう。コーヒーを淹れながら、窓から見える朝の景色を眺めた。季節は移り変わり、木々の緑が濃くなっていた。半年前、この場所に二人で暮らし始めた頃を思い出す。あの頃は不安と希望が入り混じっていたけれど、今は確かな日常がある。


---


 計画は単純だった。会社のルールを破るのではなく、徹底的に守ること。「交流届」を毎日提出し、二人の関係を公にすることで、かえって保護されるという逆説。これは、あくまで届け。知らせるだけで、許可してもらうものではない。そもそも業務外の行動を制限するなんて、会社としてできるはずもない。それこそコンプラ違反だ。


 最初の1か月、会社からの反応はなかった。2か月目に入った頃、困惑した様子の人事担当者から電話があった。


「塙さん、毎日交流届が……」


「ええ、ガイドラインに従っています」


「いや、そうではなくて」


 彼は言葉を詰まらせた。


「同じ内容で、しかも、終了時間が……」


「たまたま、同じ相手というだけです」


 電話の向こうで、ため息が聞こえた。


「分かりました。ルール通りですので……」


 それ以来、特に指摘はなくなった。


---


 コーヒーの香りに誘われたのか、菊池がキッチンに入ってきた。


「おはよう、理沙」


 寝ぼけた声と表情なのに、胸がキュッと締め付けられる。こんな何気ない瞬間が、こんなにも愛おしいなんて。


「おはよう。コーヒー入れたわ」


 朝の光の中で向かい合って座る。窓からの光が彼の顔を照らし、輪郭が柔らかく縁取られる。昨日も、一昨日も、その前も同じ光景なのに、毎朝新鮮な喜びがある。テーブルの上のノートパソコンが目に入った。


「入力しないと」


「そうね」


 コーヒーを飲みながら、二人で小さく笑った。心の奥で、この幸せが続きますようにと祈った。


 彼との時間を、毎日きちんと届け出てきた。日付と時間だけを変えながら地道に入力する作業。一見、形式的な作業だけど、私たちには意味がある。テーブルのノートパソコンを開き、彼に尋ねる。


「今日、帰りは何時頃?」


「ちょっと遅くなりそう。たぶん9時過ぎかな」


 答えに頷き、交流届のファイルを表示する。日付欄に今日の日付、時間欄に「21:15-08:00」と入力した。そして、場所は「自宅」。メールに添付する。


 交流届をまとめて入力しておくことはしない。


「今日も一緒にいたい」

「明日も一緒にいたい」


 そんな当たり前の願いを、毎日新しく形にする。この関係が永遠かどうかは誰にもわからない。だからこそ、交流届は毎日入力する。


 くだらないルールだと思っていた。でも、このひと手間が、何気ない日常を、かけがえのない一日一日の積み重ねに変えてくれる。


 送信ボタンを押す。彼と目が合う。同時に笑みがこぼれた。

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― 新着の感想 ―
コロン様の「酒祭り」企画より読ませていただきました。 凄くしっとりとした大人な雰囲気が良いです。 塙さんと菊池君にもこんな世界線があったとは・・・。 まさかのハッピーエンド(笑)、私が知っている塙パ…
菊池と塙がこんなにお洒落になるなんて……! ちょっとした描写の美しさにもほうっとなりました。 タイトルに繋がるラスト。 そういうことだったのかとニンマリ。 文字数を感じさせない、素敵な恋物語をありが…
とても大人の恋愛でした。しかも、仕事ができる二人でカッコいいです。オフィスラブのネタが一つなくなってしまいました。届けを出せば出すほど、二人の時間が積み重なっていくのをパソコンのデータで確認できますね…
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