第14話 決着
振りかぶられた八重瀬の剣は、中空で静止した。
魔獣の前で、不自然にその動きを止めてしまう八重瀬。
彼自身にも何が起こったのか理解出来ないようで、その表情が少し戸惑っているようにも見えた。
だがよくよく見ると、紅に染まったその大きな瞳の中心で――
緑の炎にも似た輝きが、微かに燃えていた。
瞳孔の周囲に円を描くように、その光は力を増していく。
間違いなくそれは、八重瀬が本来持っていた、エメラルドの瞳。その煌めき。
「真言……
お前はどこまでも、この人間を救えというのか」
どれほど彼が力をこめても、その手はそれ以上動かない。
「この人間が、お前に何を与えた?
この男との間には恩義も忠義も、友愛すらも存在せず、ましてや恋煩いもありえぬ。
ただただお前に甘え、お前に傷を曝け出し、願いが叶わぬとなれば恨み言をぶつけるだけの、みすぼらしい男よ。
仮に助かったところで――またお前を傷つけ、暴れるだけだ!」
激昂を露わにして、誰かに向かって一人呟く八重瀬。
しかしそれでも、刃はそれ以上決して動かなかった。
彼の様子を、じっと凝視するしか出来ない巴――
そんな巴の肩に、そっと触れる者がいた。
「!
せ、宣兄!?」
いつの間にか起き上がってきた宣が、ちぎれた腕もそのままに、静かにしろと言いたげにそっと首を振っていた。
「八重瀬は今、必死で抑えている……
あの晶龍を。
あれは八重瀬の意思でしか、出来ないことだ」
二人が固唾を呑んで状況を見守っているうちに――
やがて八重瀬は、静かに降ろした。一旦は振り上げたはずの剣を。
すると剣先から、今度はまばゆい緑の光が、湧き水のように溢れだす。
巴にはすぐに分かった。あれは宣がいつも使う光と同じ、癒しの光だと。
それは一気に公園全体を包み、魔獣のみならず、巴も宣も、あかねさえも包んでいく――
そうだ。あの野郎、俺たちが努力に努力を重ねてやっと出来るようになったことを、いとも簡単にやってのけちまう。
傷が恐ろしい速度で回復していくのを肌で感じながら、巴は何となく思い出していた。
八重瀬が晶龍に乗っ取られた、あの日のことを。
あいつは俺たちや人間だけじゃなく、晶龍すら助けようとして――
その優しさのせいで、あの野郎に身体を奪われたんだ。
一瞬ふわりと暖かな光に包まれ、意識が遠くなったかと思うと。
もう、巴の身体の傷はすっかり治り、気が付くと砂場に乱暴に寝転がされていた。
隣を見ると、同じように治癒術を受けた宣の姿も見える。切断されたはずの腕は、何事もなかったかのように元のままだ。
ただ、血みどろの服やちぎれたままの袖が、今までの死闘が決して夢ではなかったことを物語っていた。
少し離れた砂地に転がされていたのは、魔獣――ではなく。
元の人間の姿に戻された、中島だった。
雨はようやく小降りになりかかり、黒雲が切れてその間から月光が漏れ始めている。
思わず起き上がろうとした巴だったが、そこへ立ちはだかった者は――
「久しぶりだな。小僧ども」
それは勿論、『魔王』と化した八重瀬真言。
半分がたちぎれ、血に濡れて真っ黒に染まったスーツが、マントのように風に靡いている。
淡い月の光を背に、その姿は異様に黒く。
細身のはずなのに、どこまでも大きく見えた。
奇妙な自信と傲慢さを湛え、真っ直ぐに巴を見据える、ルビーの眼球。
夜風に吹かれ、乱れる銀髪。
額に輝くものは、晴れ渡った天のように青い水晶。
その両腕には、気を失ったままの豊名あかねが抱かれている。
背中から胸まで貫かれたはずの彼女の傷も、まるで無かったように綺麗に消え失せ。
ただ、破れたブラウスの間からはだけた、どちらかと言えば控えめな胸が、ちらりと見えた。
「八重瀬……
いや、晶龍。てめぇ……!」
「巴!
刺激しては駄目だ。俺たちが叶う相手じゃない!」
身を乗り出そうとする巴を、強引に止める宣。
そんな二人を嘲笑うように、八重瀬は唇の端を吊り上げた。
「いい判断だ。
儂に楯突いたところで、貴様らなど一瞬で塵芥よ。
それが理解出来る程度の脳みそは持ち合わせているようで、安心したぞ」
あかねをどうする気だ。
そう問い質そうとしたが、巴の喉からはまるで声が出ない。
俺ともあろう者が、恐怖で全身が引きつってやがるんだ。
そんな彼をからかうように、八重瀬は――
否、晶龍は静かに、あかねの髪を撫ぜた。
「この娘の血によって、儂は覚醒した。
この娘も真言ももう、儂のモノ――
これでようやく、儂も目的を果たせるというもの」
あかねの頬に未だ残る血を、そっと舌で絡めとる晶龍。
紅の舌先はやがて、頬から唇へ、音もなく近づいていく。
晶龍の、血に染まった唇の間から、奇妙に尖った真っ白い犬歯が覗いた――
違う。あれは犬歯じゃなく、牙だ。魔に乗っ取られた人間特有の、牙。
――畜生。俺、見てることしか出来ねぇのか。
胸の奥からふとわきあがったものは、強烈な悔しさ。
それ以上見ていられず、巴は思わず顔を背けたが。
「……?
真言。お前という奴は……
これすらも駄目だというのか」
呆れたような晶龍の声が、辺りに響いた。
彼が何を言い出したのか分からず、巴も宣も呆然とその光景を見守るしかない。
「理由を言え。
……んん? 何か駄目な気がする、では分からん。
儂は本調子ではない。この娘の体液が、少しでも欲しいのは分かるであろう?」
あかねを抱いたまま、延々と独り言を呟き続ける晶龍。
彼は恐らく、自らの内側から響く声と対話している。そう考えるのが一番しっくりくる。
しかしやがてひとつ首を振ると、諦めたように肩を落とした。
「……ふむ。
この娘の了解を得てから……か。
いささか面倒だが、それも筋というものか」
そのまま彼は不意に、どさりと両膝をついてしまう。
「だが……忘れるな、真言。
その娘の血がない限り、儂のこの状態は……長くは、もたぬ。
そして……今後、奴らとの戦いも……一層……」
少しずつ途切れがちになる言葉。
そしてその言葉が終わらぬうちに、爛々と輝いていた瞳が急激にその紅を失い、身体が前のめりに倒れていく。
「八重瀬!」
巴は思わず飛び出していた。
力を失い倒れてしまった八重瀬にはもう、金縛りにも似たあの強烈な畏怖は全く感じない。
無我夢中でその身体を抱き起すと、銀髪が急速に元の黒を取り戻していく。
ほんのわずかに開かれた瞳の色は、間違いなく元のエメラルドだが――
瞳孔の周囲に、血のような紅の光がまだ蠢いている。
傷は完治しているとはいえ、スーツもワイシャツもほぼ真っ黒なぼろ布と化し、その上半身は巴の腕にすら、やけに軽く思えた。
それでも彼は、ようやく自我を取り戻したのか。
息もたえだえながら、これだけを呟いた。
「巴君――
良かった……無事で。
豊名さんも、宣さんも……」
血の気の失せた顔で、それでも笑おうとする八重瀬。
「どう、だろう……?
僕は、晶龍を、何とか……コントロール、出来てた……かな?
中島、さんを……助けられた、かな?」
その額には、深い青の水晶が煌めいている。
まるで、彼の生命をそのまま吸い込んだかのように。
その問いに、巴は思わず一瞬、口ごもってしまったが――
巴の背後から、宣が身を乗り出して言い切る。
「あぁ。
もう、全部終わった。全部、うまくいったんだ。
本当によくやったよ……お前は」
宣のその言葉はまるで、自らに言い聞かせているようにも思えた。
それを聞いてほっとしたのか――すぅっと息を吐いたかと思うと。
八重瀬は巴の腕の中で、すっかり安心した子供のように眠り込んでしまった。
だが――
終わってなど、いない。
『あいつ』が再び目覚めた以上、これは始まりにすぎないんだ。
それはもう、巴も、宣も、――恐らく八重瀬自身も、分かっていた。




