二人旅の始まりッ!
グリーン車は、私達の他には私達とさっきの初老の男性以外まだ誰も乗っていなかった。
「はい、お嬢様はこちらにどうぞ」
海が見えた方がいいだろうから綸子は窓側に座らせる。
まぁ、どうせ途中で寝そうだけど。
(あ、今のうちにシート倒しておかなきゃ)
後ろに既に誰か座っていたらお伺いを立てなければならないのだが、こういう風に誰もいないと心底ホッとしてしまう私は、典型的コミュ症だ。
「席、ちょっとだけ後ろに倒すよ」
私がそう言うと、「え、倒せるの!?」という予想通りの反応が返って来た。
「途中で寝たりする事があるからね、行先が遠いときは先に倒しておいた方がいいのよ」
「え、私寝ないよ」
いや、アンタ絶対寝ますから。
「あまり倒すと後ろの人の邪魔になるから、一段だけね」
「う、うん……あれ? あれ……?」
やり方が分からずにわたわたしている綸子を手伝って、リクライニングレバーを押してやると「おお! 倒れた!」と本気で感激している。
(そっか、こういう事も全部初めてなんだよね……)
私も同じ角度でシートを倒す。
顔を見合わせて、なんとなくふふっと笑い合う。
「あと、こうして、ここにお弁当を置くの。使わなくなったらまた戻してね……あ、チケットは仕舞わないでこのチケットホルダーに入れておいて」
「どうして?」
綸子は不思議そうな顔になる。
「こういう電車って、途中で乗務員さんが検札っていってチケットをちゃんと持ってるか見に来るんだけど……」
「あ、それなら知ってる! 切符拝見、ってやつだよね?」
綸子は得意げな顔になった。
「そうそれ、でもその時トイレに行ってたり寝てたりしてたら見せられないでしょ? それでここに入れておけばちゃんと検札してくれるの」
「でも私寝ないよ?」
だから絶対寝るって。
このカシオミニを賭けても(以下略)
一通りのバタバタが終わって、私はうららの蓋を開けて一息つく。
綸子はまだ動いてもいないのに窓の外をずっと見ている。
「なんか、人増えて来た……」
「もう発車時刻だからね」
私達の車両にも、パラパラと人が乗り込んで来た。
ほとんどが背広姿で手提げ鞄一つとかそんな感じだ。
「すごいな……みんな、ちゃんと一人で旅行できるんだよね」
気のせいか、ほんの少し綸子が不安そうな声になる。
「私、大人のはずなのに、ふーこがいないと絶対無理だ」
「うーん、今はそうかもしれないけど、一番最初は誰かと一緒だったと思うよ」
普通なら皆知っているような事でも、この子には分からない。
そして、自分が何が分からないのかも、よく分かっていない時がある。
(これまでは車の中で二人きりだったけど、今回はそうじゃない……だから私がちゃんとしてないと……)
社会でのちゃんとした生き方を教えてあげようとか、そういうのとはまた違う。
それはマンションが燃えて結婚寸前の彼氏に捨てられたようなアラサー女が務めるには、あまりにもおこがましい役割だ。
彼女がこれまでに失ったもの。
手放したもの。
得られなかったもの。
そういった形のあるものや形のない何かを、今更私が手渡せるとも思っていない。
(だけど、これから先はもう何も失わせたくないんだ……だから……)
自分が知らなかった事で困ったり悲しんだり、そんなこの子を見たくない。
この子が笑っている時間が多ければ多いほど、私も嬉しい。
強いて言えば、これが守りたいという感情なのだろうか。
(いや、それもなんか違うか……)
綸子は、強い。
たぶん私なんかよりもずっと強い。
(そういえば、あのいつものトートバック持って来てないな……)
思い返せば、前回函館に行った時も持っていなかった----。
「そういえばさ、これからはお父さんに送る写真撮らないの?」
「撮るよ? でもウイッグはもういらないけど」
発車のアナウンスが流れる。
「じゃあ……もしかしてその髪のままであの後お父さんに会いに行った?」
「うん、めっちゃ怒られたけどね」
うん、まぁ、びっくりはするよな----。
「普段無関心なクセにさ、すんごい怒られたよー」
ゆっくりと列車が動き出す。
綸子は再び窓に張り付いた。
「ってか、主治医の先生にもちゃんと謝りなさいとか、お兄ちゃんも楽しみに待ってたんだぞとか、ムギさんにも世話をかけて申し訳ない、とか言いながら頭抱えてたから……実際髪の色については五秒くらいしか怒られなくてラッキーだったけど」
いや、五秒はないとは思うけど。
(……ま、お父さんの気苦労も相当なものだろうなぁ)
大企業の社長にそこまで頭を抱えさせる娘もなかなかいないだろう。
できることなら私が行って直接謝りたいんだけど、そこは家族の問題だし。
それにやっぱり----正直まだ怖い。
(娘をたぶらかしたとかじゃないけど、結果こういう事になっちゃった訳だし……)
いくら今のご時世とはいえ、同性同士でお付き合いをするのはまだまだ珍しい。
ましてや歳の差もあるし、家柄的なモノも全然違うし。
(もし、これからの覚悟はあるのかと問われたら……どうなんだろ?)
綸子がこの先どんどん色んな事を学んでいって、私なんかを必要としなくなったら?
今だってニートとはいえ実際には社長だ。
きっと、いや絶対にこれからは私よりも地位も性格も上の人間と多く出会う事になるだろう。
綸子のお父さんも、多分同じような事を考えている。
だからこうしてまだ私達は一緒にいられるのかもしれない。
(……その時はその時でいいか)
永遠なんてない。
そんなの、私がよく知っている。
(だけど、その時までは……)
「ねぇ、お弁当食べようよ」
綸子が意気揚々とお弁当の袋を広げ出す。
「今朝は水しか飲んでないからお腹空いちゃった……はい、これふーこの分」
「ありがと」
手渡されたお弁当の箱を受け取る。
ちょうど豊平川の上だ。
「なんかさ、修学旅行ってこんな感じなのかな?」
「そうね、だいたい違うけどだいたいこんな感じかな」
私の言葉に、お嬢様は白い歯を見せた。
「じゃあ、私、やっと修学旅行行けるんだね」
「ほら、カメラ持って来たからアルバムだって作れるよ」
バッグからデジカメを出して見せると目を輝かせる。
「ふーこ頭いい!」
「それでは、ええと……まずは記念すべき一枚目は駅弁から……」
そう言ってカメラを向けた時には、既にお嬢様は駅弁の蓋を外して「ひゃっほう」などとご満悦な声を漏らしていた。
私は包装を外す前の自分の駅弁を無言でカメラに収めたのだった。