ミルクアイスと当たりくじ
更衣室とは別にあるシャンデリアの下がったパウダールームで髪を乾かす頃には、綸子のうっすらと腫れた瞼も元に戻っていた。
(私も……うん、大丈夫、いつもの顔だ)
それでもまだ心臓がドキドキしている。
綸子の顔をあまり見ないようにして、私はパシャパシャと備え付けの化粧水で頬を叩く。
「熱くない? そこにお水あるから飲む?」
「んー、アイス食べるからいい」
うん、いつもの綸子だ。
こうこなくっちゃ。
(でも、本当にいつもの綸子なのかな……?)
本当はそうじゃないのだろう。
今夜私達は、多分初めて綸子の抱える孤独について話し合ったのだ。
そしてそれは、私ごときでどうにかなるものじゃないという事も分かってしまった。
(……無力だな)
今私の隣で丁寧な手付きで髪を梳いている少女は、あまりにも多くの事を抱え込んでいる。
胸の傷は単にその象徴に過ぎない。
鴨島さんがいなかったら、と考えただけでぞっとするくらいに、蓮池綸子という少女は傷だらけ
だ。
そしてその傷の多くは誰からも見えない。
「私もう髪乾いたよ、ふ―こはまだ?」
その一言に我に帰って、私は急いで「あとちょっと」と返す。
「休憩所って、さっき突き当りにあったアレ?」
「そうそう、そこの手前にアイスキャンディの冷凍庫があるから、好きなの選んでから席取っててもらってもいいかな?」
そうお願いすると、綸子は「はーい」と答えて先に出ていく。
私は忘れ物がないか確かめ、もう一度鏡を覗き込んで立ち上がる。
(……何が綸子をこの世界に繋ぎ止めているんだろうか?)
冴えないアラサー女が鏡の向こうから真顔で問いかける。
分からない。
フェルマーの定理くらい分からない。
こんな所で悩んでも仕方がないので私は早々に諦めてパウダールームを後にした。
休憩所がガラスの大きな窓のお陰で函館山とベイエリアが見下せるちょっとした展望ルームになっている。
その一番まん前にミルクティー色の髪を見付ける。
「なんかこういうミルクアイスって久し振りに食べたかも」
頬杖をつきながら、アイスを舐めていた少女は、横に座った私に持っていたもう一本のアイスを差し出す。
「あ、ありがと」
綸子なりに気を使ってくれてるのか?
「これ当たりとかあんの?」
「分かんない」
どこかで打ち上げ花火の音がする。
「あの花火何? どこでやってるの?」
「多分緑の島でイベントとかやってんじゃないのかな? 見て見る?」
二人で籠を下げ、アイスを舐めながら海側の窓へ行く。
他にも二三人の湯上り客が窓から外を見ている。
「あ、上がった!」
音はここまで聞こえないが、結構大きな花火だ。
白とオレンジの大輪の菊みたいな花火が夜空を明るく照らす。
「あ、今度は紫だ!」
窓に張り付くようにして綸子は熱心に打ち上げ花火を見ている。
時折アイスを舐めるのも忘れない。
花火は五分くらい続いた。
「あ!」
花火が終わって湯上り客が部屋に戻り始めた時、綸子がこれまでで一番の声を出した。
「当たった!」
「……へ?」
舐め終わったアイスの棒を誇らしげに掲げる。
「当たったよ! これもう一本貰える?」
「……ホントだ」
白っぽいアイスの棒に牛のシルエットが三匹分と「3ポイント」という文字が焼きゴテ(?)で押してある。
「うーん、いや、私も初めて見た」
「元カレと何回も来てるのに?」
旅行中はこれでイジると決めたのか、綸子はねっとりとした視線で私を見る。
「……フロントで聞いてみた方が早いんじゃないかな」
「じゃ、ついでにそこのセブン行きたい」
はいはい。
アイスの当たりが出たおかげで、私はまた着替えてお嬢様に付き合う事になる。
(セブンがホテルに近いってのも考え物だな……)
フロントのおねぇさんは親切にも、湯上りのアイスは何本食べてもいいのですが、と前置きして、これはこれでおめでとうございますと言ってくれた。
「じゃあ明日は明日の分と、この分と、あともう一本食べちゃおうかな」
「小学生か」
うまい棒とか地ビールとかなんやかんや買って、セブンイレブンを後にする頃には、もう夏の風が髪をさらさらと撫でていくのが分かった。
ロープウェイもそろそろ最終便くらいだろう。
「あー、さっきのお風呂に入った時の話さ、あまり気にしなくていいから」
「……気にするってば、ふつー」
あんな話を聞かされたら、気にするなと言う方が難しい。
「私は、運命を信じてる」
「運命?」
そう、と綸子は頷く。
「私ね、雪が最初に降る時の、音が鳴りそうなくらいに周りの空気が冷えて、それから灰色の空から白い欠片が落ちて来るのを見るが、とても好きだった」
初夏の夜なのに、私はその空気を思い出す事ができる。
私もそうだ、毎年冬の始まる瞬間は、自分が何か別の自分に生まれ変われそうな気がする----するだけでもうこんな歳になってしまった訳だけど。
「ふ―このマンションが火事になった時、野次馬の誰かが撮ってた動画にふ―こが映ってたって言うのは前も話したっけ?」
「あーそうだったかもね」
あの火事の晩の自分の記憶はほとんどなくて、後になって周りから色々聞かされたのを総合して自分の記憶という事にしているようなものだから、どこかまだ他人事だったりする。
「なんでだか分かんないけど、私はふーこから目が離せなかった……必死で電話に向かって話していたふ―こが、電話を切って空を仰いで一人で笑った瞬間を、何回も何回も再生して見ていた」
「な、なんで……?」
いやいやいや怖いでしょ。
自分の部屋が燃えているのに笑ってる女とか、下手したら都市伝説になりそうな光景だ。
「正直私にも分からない……でも、もうこれ以上はないってくらいに冷えて冷えて、結晶になったその雪と、あの晩の貴女の全てから解放されたような笑いが、重なったんだと思う」
「……はぁ」
そんな綺麗な物じゃないとは思うけど。
あの火事で私の全財産と元カレの大事な釣り道具が全部燃えたんだなと思った瞬間、解放感や、安堵、私より釣り道具を心配した元カレへの嘲笑、そんな男と付き合っていた自分への憐憫----それともしかしたら、もうこれで誰の言いなりにもならないで済むという希望。
その全てが、様々な色の絵の具のようにぶつかり合って、跳ね飛んだ瞬間----。
その時の私の笑いを、蓮池綸子は偶然見たのだ。
「私は、運命を信じてる」
ぼんやりとした街灯の灯りの中なのに、私の方を向いた綸子の頬はそれと分かるくらいに桜色に染まっていた。
「本当の私は、もうとっくに限界だったんだと思う……だけど貴女のあの時の笑みは、私の鼓動を本物にしてしまったの。音がしないはずの偽物の鼓動を……」
「……ずいぶんとロマンチストなのね」
そうだよ。と綸子は答える。
「だから絶対長生きして見せる。神様なんかに呼ばれなくったって、私には運命の相手がいる……それだけで十分」
ホテルの入口の前で綸子はVサインした。
「だから私はもう大丈夫。アイスも当たりが出たし」
「それはなにより」
そして私達は自分の部屋へと戻る。




