二人で温泉、ハジメテの体温 後編
「ところでさ、ふーこって、なんで風子って名前なの?」
いきなり話題を180度変えられて、私は目をぱちくりさせる。
それ、めちゃくちゃ重い言葉の後に聞く事か?
「え、いや、えーと別に深い意味はないんだよね。生まれた日の風が凄く強かったからって聞いてるけど……」
冗談みたいな話だけど、これは本当だ。
何故だか分からないが母親は生まれてくる子は男だと信じていたらしくて、付ける名前も画数占いだかで決めていたらしい。
だけど女だと性別が判明した途端、名前を考える気力が失せたのでその日の天気で決めるわと周囲に宣言していたそうだ。
結果この名前の画数がいいのか悪いのかは知らない。
多分調べてもいないと思う。
「ふーん、そうなんだ……」
それだけ言って綸子は、「はぁ、温泉っていいねぇ」と呟く。
「……で、ふーこは聞かないの? 私の名前の由来」
「え?」
つい肩がビクンとなってしまった。
(うわ、今の、絶対綸子にも伝わってるよね……)
そうだ。
普通なら、こういう時は相手にも同じ質問をするものだ。
(ヤバい、鴨島さんからもう由来を聞いてたから、聞き返すとか考えなかった……!)
「あ、えーと、そ……そうだよね。珍しいし可愛い名前だなとは思ってたけど……」
なんとか取り繕うとしている私を見て、綸子はニタリとする。
全てはお見通し、って感じで。
「でもこの流れで聞いて来ないって事は、もう知ってるって事だよね」
湯船から左腕だけ出してじっと私の顔を覗き込む。
こんな目で見られたら嘘はつけない。
「……ですね」
私はしおらしく項垂れて見せた。
「じゃあ、ムギさんがお母さんの事好きだったっていうのも……」
「うん……」
しばらく沈黙が続いた。
かけ流しの湯の音だけが、情緒たっぷりに聞こえている。
「……前にね、一度だけムギさんが私の前で酔っ払った事があってさ。祥月命日かなんかの時だったかな」
綸子は湯船から出していた左手を戻すと、よいしょと座り直す。
また二人の肌がぴったりくっ付く。
まるで嘘発見器にかけられたような、そんな緊張感で心拍数が上がるのが分かる。
「普段は絶対しないお母さんとの昔の話をし始めて、泣かれた事があるんだ」
あの鴨島さんが?
あの自制と理性の塊みたいな鴨島さんが?
「結婚の報告をされた時に、自分がちゃんと気持ちを伝えて引き留めてたら、もしかして結婚なんかしなかったかもしれない、って……私、どう声かけたらいいか分かんなかった」
もし結婚してなかったら身体が弱いのに子供を産む事もなかったし、綸子の治療費のために無理をして身体を壊して死ぬ事もなかったかもしれない----と心の中で鴨島さんはそう続けたのだろう。
そんな残酷な言葉を綸子にぶつけるほど愚かではなかった、というだけで。
「……まあつまり、ある意味私はムギさんからお母さんを奪っちゃった張本人な訳よ」
「でもそれは結果論だし……!」
どうしようもない事なんか、世の中にはいっぱいある。
あの鴨島さんなら、私とかよりよっぽど理解しているはずだ。
「だから、その……リンコが罪悪感を覚える必要なんかないよ!」
これは本心だ。
拙いけれど、私の精一杯の返事だ。
「そ、それに……お母さんが結婚したからリンコが生まれた訳で、その、なんていうか……そのおかげで私はリンコとこうしてここにいる訳で……!」
気が付いたら綸子の両手をギュッと握ってた。
「だから私はリンコのお母さんがリンコを産んでくれた事、すっごく感謝してる! ホントに! 鴨島さんだってリンコの事凄く大切に思ってるのが分かるよ! あの人はリンコの事大好きだよ! 私ほどじゃないけど!!」
綸子はぷっと吹き出した。
「ふーこ、必死過ぎてカワイイんだけど」
「笑い事じゃないよ! 私も鴨島さんもリンコの事大好きだから、お父さんもお兄さんも……誰もリンコの事を恨んだりしてない。私はそう思う……だから……」
いい歳して恥ずかしいと思いながらも、私は涙を堪えきれなかった。
暗くて涙が見えてない事を願いながら、私は汗を拭く振りをしてタオルを手にする。
「ふーこは優しいね」
そう言って、頬にキスされる。
「……もしかして、泣いてる?」
「泣いてません! ここのお湯は塩化なんとかだからしょっぱいんですッ!」
そう言ってタオルで顔をわざと乱暴にごしごしと拭った。
綸子はまた笑う。
「ふーこは大人のくせに嘘が下手だよね、そういう所も好きだけど」
両手を握り返される。
すごく、柔らかく。
もうダメ。
のぼせそう。
「……で、さっきの話なんだけどさ」
ホントにこの子は猫の目のように、ころころと話題を変える。
「私がふーこを見付けるまで、ずっと早く死ぬ事しか考えてなかったって話……ムギさんは別に関係ないんだ」
「……じゃあ、どうして?」
綸子は空を見上げる。
「私の心臓はさ、自分ではちゃんと動けなくて、代わりにお医者さんや看護師さん達が毎日必死に動かしてくれてたようなものだったじゃない?」
「……うん」
「だから、小さい頃から自分の心臓なのに自分の心臓だって思えなかった」
「それってつまり、実感とか愛着とか、そういう話?」
かもしれない、と綸子は小さく答える。
「誰も信じてくれなかったけど、あの頃の私の心臓は動いているのに音がしなかった……あんなに頑張って皆に動かしてもらっていたのに、私にとってはそれは心臓じゃなくて、なんだろう……本物じゃない心臓の幻みたいな?」
小さい子にとって、それはどれほどの恐怖だったのだろう。
「皆私に言うの。こんなに小さいのに沢山手術受けて、とか、泣かなくて偉いね、とか、何処にも遊びに行けないのに我慢してていい子だね、とか……でも私はニセモノの心臓を動かすために痛い思いをするくらいなら、もうここから逃げたいって毎日考えてた」
私だったらその頃の綸子になんて言葉をかけていたんだろう。
正直分からない。
「でも、私よりも病気が重くてそれでも頑張ってる友達がいっぱいいるのに、そんな事考えちゃダメだって思って、誰にも言えなかった」
今私の隣にいるのは、自由奔放で我儘放題のお嬢様なんかじゃない。
いつ止まるか分からない心臓を抱えてうずくまる、小さな女の子だ。
「でも、一人だけ仲良くなった別の病気の子がいて、その子のお母さんも優しくしてくれて……その子には、私の心臓はニセモノで、本当は私はもう生きていないのかもしれないって相談したんだ……そしたら、そんな事ないよって、綸子ちゃんの心臓の音、ちゃんと聞こえるよって言ってくれたの」
胸に手を当てて、綸子は少し黙っていた。
「だけど、結局その子は退院直前に急変して、病室も移って……そのまま死んじゃった」
「……そっか」
私は曖昧な相槌を打ちながら函館山を見続けているしかない。
こうして話している彼女の目は、きっと空など見てはいない。
「で、看護師さんに頼み込んで、お葬式の会場の入口まで連れて行ってもらったのね」
上を見ているのは、涙が零れるのを見せたくないから。
「丁度その時、その子のお母さんが周りの人達に向かって泣き叫んでるのが聞こえたの……神様は、いい子から先に自分の所へ連れて行ってしまうって言うけど、余命宣告されてるような子が生きているのになんでもう退院直前のウチの子が……! って」
胸に当てたままの綸子の手を、私はそっと下ろす。
綸子はされるがままだった。
「あっ、て思ってどうしたらいいか分からなくなった時に、その子のお母さんと目が合っちゃって……その時の顔、まだ覚えてる」
私なんかが聞いていい話じゃない。
だけど、綸子は聞いて欲しかったのかもしれない。
「……私、かなり悪い子らしいよ、神様的には」
「……そろそろ上がろう」
私が言えたのはそれだけだった。
「休憩所のアイス、ホントに美味しいんだから」




