二人で温泉、ハジメテの体温 中編
「あっ、足元お湯で滑るから気を付けてね」
「う、うん……温泉ってこんなにぬるぬるするんだ……」
タイルの上をいかにも恐る恐るという風体で歩いているので、そっと手を握る。
強張っていた指先から力が少し抜けたのが分かった。
「それにしても……大浴場って、こんなに広いんだね。テレビとかでは見た事あるけど、本当に広い」
「色んな個々のホテルのは色んな種類のお風呂があるからねぇ、だったら全部制覇してみようか?」
そう言って笑いかけたら、なぜか綸子は胸元のタオルをギュッと抑えるようにして首を振った。
「ここは明るいから……」
「……?」
そう言われて、私はやらかしてしまったやっと気付く。
綸子は昔から手術の傷を気にしている。
だから自宅以外のお風呂は使わないし、今いるマンションでも一人で入っている。
(それを知ってるくせに大浴場に入ろうとか言っちゃったよ! 私のバカバカバカバカ! 何のためにこのホテルにしたのよッ!)
まずい。
ここじゃなかったら慌てて抱き締めてしまいそうなくらい寂しそうな目になった綸子のテンション
を早く戻さないと、死ぬまで後悔する。
「ゴメンゴメン、私がリンコを連れて行きたいのは奥の露天風呂の方だったわ」
「そうなの?」
怪訝な顔をした少女を、まぁまぁと蛇口の並んだ洗い場に連れて行き、奥に座らせた。
椅子一つ分置いて私も隣に座る。
「いや実は私もホントはいきなり知らない人の裸を見るのも見られるのも好きじゃないからさ、露天風呂派なんだよね」
誤魔化しきれてないような気はしたがそう言うと、綸子は「あー、そういうのって、ふーこっぽいかも」と納得してくれたようだった。
(ん、それはもしやコミュ症っぽいって意味? dis? disなの?)
軽く引っ掛かりながらも身体を洗い、頭を洗う。
家で使ってるシャンプーと全然違うサロンのシャンプーみたいな香りと指触りに感動しながらちらりと横を見ると、綸子はもうシャンプーを終えていた。
なのに、正面の鏡は見ていない。
胸元をタオルで押さえたまま、私をぼんやりと見ていた。
「ゴメン!もしかして待たせてる?」
「あ、わ、いいよいいよ! 別に待ってた訳じゃなくて考え事してただけだから!」
珍しくこの私に対して気遣いとかしてるし。
これ、絶対緊張してるよね。
「ほら、温泉って初めてだから大浴場の中とか結構暑いんだな、とかさ」
「ああ、それ私小学生の時一回のぼせて倒れた事あるわ。それからは必ず露天風呂がない温泉には行かないようになった」
そう言ったら、少女が一気に顔を曇らせる。
あああああ、またやってしまった----。
「あ、でも露天風呂は外だから全然大丈夫だよ? あったかいお湯に浸かって涼しい夜の空気を吸ってるのって一度味わうとクセになる……と思う」
必死にそう言うと、
「へぇ、ふ―こがそう言うなら気持ち良さそう」
良かった、なんとかフォロー----できたかな?
洗った髪をゴムで結って、私はタオルを持って立ち上がる。
「あのね、リンコが絶対気に入ってくれる露天風呂があるんだ、ここ」
「私が?」
手を差し出すと、タオルで前を隠して立ち上がり、私の手を掴む。
「どんなお風呂なの?」
「それは見てからのお楽しみ。私も大好きなの、だから気に入ってくれると嬉しい」
大浴場とガラス戸で隔たれた露天風呂は、二人くらいしか入っていなかった。
明りは少なく、灯篭っぽい照明が足元や岩風呂の縁にぽつんぽつんと置かれているだけだ。
そして、その分夜景は見事だった。
ロープウェイの上っていく函館山。
ライトアップされた建築物。
隣は男湯だけど、海側の夜景も少し見える。
「綺麗……」
綸子が溜息をついた。
歩くのも忘れて立ったまま夜景を眺めている。
「ね? いいでしょ?」
「うん、ここすごくいいね」
でも、という感じで綸子は露天風呂を見やる。
岩風呂で、もうもうと湯気が立っているから互いの顔もそんなに見えないとは思うんだけど、やっぱりタオルを外すには抵抗があるのだろうか、入りたいけど入れないというような困った顔つきになっている。
可愛い。
じゃなくて。
「リンコ、こっちだよ」
私は露天風呂と反対の方へ手を引く。
植込みのある少し離れた場所に、丸や四角の小さな湯船が三つ、それぞれ離れて置かれている。
小さい遊園地によくある小さめの回るコーヒーカップくらいのサイズだけど、これもれっきとした湯船だ。
「あはは、ちっちゃくて可愛いね」
「一人用だけど二人でもちゃんと入れるよ」
植込みの陰だとほとんど他の人から見えないけど、大浴場側を向いているから夜景が見えない。
なので、私は一番奥の夜景が見える湯船まで行く事にした。
「ちょっとぬるいかな? でもその方が長く入れるしね」
小さいけどちゃんとかけ流しだ。
橙色の灯に湯気が揺らめいている。
そっと脚を入れると、滑らかなお湯が静かに流れ出た。
(よし、これなら二人でも入れる)
タオルを取って湯船の縁に掛ける。
「リンコもおいでよ」
「……あ、えと……」
私は横を向いた。
「見てないから大丈夫」
一呼吸置いてから、しゅる、とタオルを取る音が聞こえ、畳んで縁に掛けているのが気配で分かる。
そして綸子は、左手で胸を隠すようにしてそっと私の隣に入って来た。
「へへっ、ふーことくっついちゃった」
照れたような声でそんな事を言いながら、掌でお湯を掬い、「温泉のお湯って、ちょっとトロトロするんだねぇ」
と不思議そうにそれを飽きずに繰り返している。
それにしても静かだ。
お湯の流れる音と、私の心臓の音だけが聞こえている。
(う、心臓の音、リンコにバレてそう……)
今私と綸子は太腿と腕をくっつけた感じで湯船に入っている。
お湯がぬるめなせいか、そこだけが妙に熱い気がする。
私の剥き出しの腕が綸子の剥き出しの腕を感じてる。
私の剥き出しの太腿が綸子の剥き出しの太腿を感じている。
(……正直色々と刺激が強いんですけど)
でも、胸の傷跡を見られたくない綸子を温泉に入れるには、ここが一番いいと思ったのだ。
綸子も私に気軽に腕を組んで来るくらいだから、このくらい気にはしてないだろうし----。
と、思ったら、綸子はそっと私の頬にキスをした。
「ふーこ、ありがと」
こっちを見る目が潤んでいる。
気のせいなんかじゃない。
「私、ずっとこの傷を誰にも見せられない、見せたくないって思ってた」
そう言って、私の左手を浴槽の中で握る。
「だけど、ふ―こはそれを知っててここに連れて来てくれたんでしょ? だから、ふーこにだけは見て欲しい……ううん、触って欲しい」
「さ、触るって、いいの……?」
恐らくは退院してから何年も隠し続けて来た傷を、私なんかに?
「だって恋人でしょ?」
「……恋人なんか簡単に裏切るよ?」
そう反論したら、「それはふーこの男を見る目がなかっただけ」と事もなげに返される。
「私は見て欲しいの。私の隠してた事やモノやこの醜い傷も全部」
「……全部、かぁ」
函館山のロープウェイもそろそろ最終便だ。
光りながらゆっくりと下りて来るあのゴンドラに、明日の今頃私達はどんな思いで乗っているんだろう。
「いいよ、私、リンコの醜い所も全部、好きになる自信があるから」
湯船のなかで向かい合わせになった私達は、そっと顔を見合わせる。
私は綸子の顔を見詰めたまま、その胸の傷に、掌で包み込むようにして触れた。
陶器じみた滑らかな肌の上で、そこだけには引き攣るようにして少し太めの縫い傷が走っている。
「痛かった?」
「もう忘れちゃった」
本当か嘘か分からない調子で少女は私の手を傷からそっと離す。
「嫌じゃないの?」
「なんで?」
私は苦笑いする。
「バカ、胸に手術の傷跡があるくらいで嫌いになる訳ないじゃない」
そして少女をギュッと抱いて付け加える。
「私、女を見る目だけはあるみたいだから」
「男を見る目は腐ってたみたいだけどね」
綸子はそんな憎まれ口を叩いて、そしてまた前を向いた。
「だけどね、私ホントはそんなにいい女じゃないんだ……この傷を見るたびに、私なんか生きてていいのかなっていつも思ってたんだ」
そして私の顔を覗き込む。
「私、ふーこを見付けるまで、ずっと早く死ぬ事しか考えてなかった」




