第2章 戦争の足音
▼第2章 戦争の足音
聖暦2021年 8月15日 10:00
海軍演習を行なっているアナンケを警戒して、東アナンケ海で哨戒任務にあたっていたゼウス級通常動力航空母艦・一番艦ゼウスのレーダーから、総司令部へ突然寄せられた情報に、マヌエルは自分の目を疑った。というのも、敵国の戦闘機とは大抵、事前のスクランブル発進によってその機体の輪郭を捉えてデータを収集してあるものだが、オケアノスがかつて確認した記録のない他国の戦闘機が数機、ガータ諸島周辺の防空識別圏を飛行し、領空へ向けて直進していたのだ。
アナンケが東アナンケ海で海軍演習を行うことは事前に把握していたが、まさか本当に戦闘機が侵入してくる可能性など微塵にも想定していなかったマヌエルは急いで、指令用のヘッドセットを装着し、空母ゼウスへスクランブル発進の命令を行った。
「こちら海軍総司令官マヌエル。艦長ニカノル、応答を願う。」
「こちら空母ゼウス。船長のニカノルです。そちらに転送した情報の通り、国籍不明の戦闘機がガータ諸島領空に向け接近中です。司令官、スクランブル発進の許可を。」
「スクランブル発進せよ。」
「了解。」
「こちらニカノル、カリアスに告ぐ。正体不明の敵機は5機。スクランブル対応を行え。」
「こちらカリアス。了解。これより、スクランブル対応を行います。」
艦内待機室にて待機していた艦載機のパイロット20人がシートベルトを外して出動態勢を取り、そのうちの1人、カリアスが対応に向かう。
カリアスはその背筋をピンと伸ばしてコックピットに座し、一筋の冷や汗を流した。
「きな臭いな、これは明らかに、いつもとは何かが違うぞ。」
甲板上に整然と並べられた20の空母離着陸型戦闘機Of3-Cのうち1機が離陸準備に入る。カリアスが戦闘用ゴーグルとシートベルトを装着し、スロットルを押し倒す。離陸の振動と轟音が艦内にまで響き渡ったと思えば、その音は空へと、すぐに離れていった。
国籍不明機の翼に描かれたアナンケ王国旗をカリアスが目視する。しかし、戦闘機の見た目が今までのAn-98とは明らかに違う。新型のものだ。
「こちらカリアス。国籍不明機はアナンケ王国の新型戦闘機と確認しました。」
「こちらニカノル。了解した。…やはりアナンケの連中だったか。」
カリアスが敵機との交信を試みる。
「This is Okeanos Air Force. This is Okeanos Air Force. You are too close to our territorial air. What is your purpose?」
「…」
敵機からの応答はない。
「Can you hear me? I said you are too close to our territorial air. What is your purpose?」
「…」
カリアスの乗るOs3-Cの警報ブザーが作動する。補足していた敵機が領空侵犯をした知らせだ。
「You are in our territorial air. This is the final warning signal. Get out from our territory.」
「…」
「シカトときたか。」
カリアスが最後の警告を送るも敵機からの応答はない。痺れを切らしたカリアスが無線を介して状況を報告する。
「こちらカリアス。敵機が領空侵犯を行いました。艦長、撃墜措置命令を。」
「こちらニカノル。撃墜を許可する。」
カリアスが敵機に照準を合わせた、その瞬間であった。
先ほどの警報ブザーとは別の、危険シグナルが作動した。敵機のミサイルにロックオンされたという警報だ。
「ロックオンされたか…」
ニカノルとカリアスの額を、一滴の汗が、ぽつと流れる。
「頼んだぞ、カリアス…」
ここになって突然、音沙汰のなかった敵機からカリアスが無線通信を受け取った。
ノイズ混じりのガサガサとした、死ぬことを恐れず、まるでそれを当然のこととして受け入れているかのような、冷酷な男声が聞き取れた。
「This is Anarkh Air Force. Here is our territorial air. Get out from our territory.」
「俺らの領土だってか?アナンケの雑魚共が、ふざけやがって!」
カリアスがその唇をぐっと引き締めた。
接近するミサイルを回避するため、レーダーを片目で睨みながら、カリアスはチャフを空中にばら撒く。
敵から放たれた8発の空対空ミサイルをギリギリのところで妨害し、回避する。
この回避行動によりチャフを全て使い切ってしまった。
ピリッポス山脈紛争の際にも義勇軍として派遣され、かつてのAu-98を単独で8機撃墜した経験のある精鋭パイロットであるカリアスは、このとき、違和感を感じていた。
「なんとか全てかわしたが、これはあのときの戦闘機と、明らかに戦闘能力が違う。空対空ミサイルの速度も段違いだし、機体の速度もあのときとは比べものにならない。このミサイルで落とせるか?」
カリアスが敵機に向けミサイルを発射する。
音速を超えるスピードで放たれた空対空ミサイルは敵機4機に見事に命中するも、1機には回避されてしまった。
「いや、待てよ…?
…ッ!?確か奴らはまだ8発しか撃ってない。1機あたり2発ずつ撃ったんだとすれば、残りは?」
再びロックオンアラートが鳴る。レーダーに写るのはカリアスに向かって伸びる2発のミサイル。
「逃げろ、カリアス!!!」
ニカノルが無線越しに怒鳴るのが聞こえた。
「チャフはもうねえ。」
カリアスはスロットルを目一杯に押し倒し、海面に向けて急降下。
死に物狂いで回避行動を取った。
しかし速度が足りない。
「フルスロットルで逃げきれない…だとッ!?」
カリアスの耳に、後ろからミサイルが接近してくる音が聞こえた。
「ここが俺の引き際か。」
カリアスが悟ったように空を見上げて、吐息混じりに苦笑いをしたかと思えば、胸に手を当てて、最後にこう呟いた。
「オケアノス皇国に、神の御加護を。」
プツッ────
爆発音とノイズのした後に、カリアスとの交信が途絶えた。
ニカノルの無機質な、冷たいレーダーには、たったひとつ、敵空母へと戻ってゆく、生き残りの敵機が表示されていた。
「カリアス!応答せよ!カリアス!」
無線に向かって叫ぼうとも、返事などあるはずがない。
ニカノルは戦慄した。同じ船の中で、共に同じ時を過ごした戦友、同僚を、アナンケによって殺された。
仲間を1人、戦闘で失った。
ニカノルの脳裏を一つの言葉がよぎる。
────空母ゼウス初の死者を出してしまった不名誉な艦長
ニカノルは戦慄した。
「ゼウス空母打撃軍全艦に告ぐ!カリアスを全力をもって捜索しろ!絶対に諦めるんじゃない!」
しかし、いくら探してもカリアスは見つからなかった。
────カリアスは死んだ。
彼が戻ってくることはもうない。
戦争を生き抜いてきた一人の飛行機乗りと、戦争を経験したことのない空母の艦長。
カリアスは「戦争」によって、同じ前線で、仲間が死ぬ姿を嫌というほど目にしてきた。
しかし、ニカノルに、そんな残酷な経験などあるはずもない。
若き艦長は、カリアスの死を、現実として受け止めきれずにいた。
ニカノルは、ぼろぼろと、大粒の涙を流しながら、潰れてしまいそうなほどに歯を食いしばってやった。
「この戦、絶対に勝ってやる。これでは居た堪れない!俺は勝つまで戦い続けるぞ、カリアス。本当に、本当にすまなかった。俺が無能なばかりに。」