第1章 アナンケ 翼を毟り取られた大国
▼第1章 アナンケ 翼を毟り取られた大国
聖暦2021年 8月15日 09:45 オケアノス皇国 首都 ネフェレー
ここは、瀟洒な高層ビルが林立する、極東エルピーダ地方でも指折りの経済都市、ネフェレー。モダンなコンクリートジャングルのど真ん中に鎮座する、堅牢な作りの黒い建物。お洒落な画廊やカフェ、IT商社が建ち並ぶ中にたったひとつだけ、異質な空気を放つ、大都会の要塞。そう、ここがオケアノス皇国国防総省総司令部(ODFHQ)である。
総司令部所属で、オケアノス皇国海軍(ON)総司令を務めるマヌエルにはこの日、ひとつだけ気がかりな事があった。
地球の反対側からはるばる取り寄せた、酸味の効いたコーヒーを堪能し終わって、マヌエルが海の方角を睨みながら口を開いた。
「どうやら今日は、アナンケどもの戦勝記念日ですとか。」
マヌエルの古くからの同僚であり、また、オケアノス皇国空軍(OAF)総司令でもあるミハイルが眉間にしわを寄せた。
「奴らァ、あまり調子に乗るなよ。東アナンケ海で軍事演習だと?自惚れるのもいい加減にしやがれ。あの海域には我が国固有の領土、ガータ諸島があるじゃないか。」
「恐らく、それも視野に入れての外交圧力でしょう。我々の外交部には、きつく抗議していただきたいものですね。」
「ったく、やってらんねえな。奴らは常に誰かと戦争していないと死ぬ病気にでもかかってるってのか?だとしたら相当な野蛮民族だぜ。」
「まあ、大陸では戦争が絶えませんからね。我々も共産圏の拡大を恐れて、義勇軍として、我が国の戦闘機Of-3を120機派遣したことは記憶に新しいです。」
「ああ、覚えているさ。俺の部下も、あの時はよくやってくれたと思っている。恐らく、生きた心地がしなかっただろうな…」
ミハイルは苦い表情を浮かべながら、ふと、数年前の記憶を呼び戻す。
アナンケ王国の南西、「エルピーダ大陸の屋根」と呼ばれるピリッポス山脈を挟んで国境を接するプシュケ連邦は、国内の民族対立によってもともと3つの「軍閥」に分断されていたものが、泥沼の内戦の末に成立した、中央集権力の弱い連邦国家である。その結束の弱さ故、数々の政治学者から「分裂のリスクが高く、危険である」と指摘されながらも、なんとか統一国家としての体裁を保ってきた。
プシュケが統一を果たした聖暦2000年から8年後、まだ内戦後の混乱真っ只中の同国では、早速アナンケ王国との小競り合いが起きていた。「共産時代の旧領の回復」を建前とするアナンケはプシュケ連邦領ピリッポス地域に300機を超える制空戦闘機と爆撃機を飛ばし、現代戦車師団を派兵して、脆弱な防衛力のプシュケからピリッポス地方を強奪した。
山脈という天然の障壁を突破したアナンケ王国軍はプシュケ連邦「東域軍閥」支配地域の併合を目論み、猛烈な勢いで平地を駆け抜ける。プシュケ連邦内で最も広い領土を擁する東域軍閥はその防衛範囲のわりに軍事力が貧弱であったが、彼らは戦略的撤退と焦土戦略を行いながらあえて後方の大河川に防衛ラインを敷き、最新装備を持つアナンケの現代戦車師団に対して、半世紀前のものも含まれる貧弱な装備で互角の防衛戦を遂行していた。
大河川に阻まれ進軍できなくなった戦車は、アナンケの300機を超える戦闘機の航空支援を受けてもなお、戦線に穴を開けることができずにいた。これに焦ったアナンケの首脳部は、核兵器を持たず、報復されるリスクのないプシュケ連邦に対し「前線への核兵器の使用」を宣言して、彼らを降伏に追い込もうと揺さぶりをかけた。
東域軍閥はアナンケに対抗するために総動員態勢をとっていたため、12歳から64歳まで、男性国民の約9割が前線で戦っている状況であった。国民の半分を一瞬にして失うことを恐れた東域軍閥は、死守命令を解除し、国内各地に兵士を分散させるゲリラ作戦に移行した。大国に対して屈しないという精神は相変わらずであったものの、やはり、分散した歩兵で現代戦車師団に対抗するには無理がある。さらに、核兵器が投下されるとなれば戦況が大きく変わることは確定的であった。絶望の最中にあった東域軍閥に、オケアノス皇国から救いの電報が舞い降りた。
「こちらオケアノス皇国空軍総司令部。アナンケ王国に勇敢にも抵抗する貴国に、我々のマルチロール戦闘機Of-3を120機、義勇軍として派遣したい。我々の制空能力が加われば、核兵器を搭載したアナンケの爆撃機を阻止できる可能性がある。」と。
大国に轢き殺されそうな瀬戸際にいたプシュケ連邦にとって、オケアノス皇国から差し伸べられた救いの手は、天から闇の中に差した一筋の光のように感じられた。
プシュケ連邦は即座にこの援助を受け入れ、即時出動態勢をとっていたオケアノス空軍は間髪入れずにプシュケ連邦の上空へ向け出発。核兵器を搭載するための時間を食っていたアナンケよりも2時間早く、予定の空域へと到着。
アナンケの第3世代制空戦闘機300機に対して第2世代戦闘機80機で対応していた東域軍閥が敵うはずもなく、開戦初期の制空戦で全ての戦闘機を撃墜され、一方的に撃たれるだけの状況となっていた中で、この義勇軍は文字通り、戦局を打開するゲームチェンジャーとなった。
オケアノス空軍の運用するOf-3は世界最速で開発された第4世代戦闘機。旧式のOf-3に数々のアップグレードを加えた改良型だ。第3世代戦闘機であるOf-2と第4世代戦闘機Of-3との間で行われた模擬戦闘試験では、Of-3がOf-2に撃墜される確率は、理論上1/144と、恐ろしいキルレシオを叩き出していた。しかしこれは模擬戦闘に過ぎず、今回の義勇軍派遣は、改良機の実験としていい機会であった。
制空戦における「世代間格差」の持つ意味は非常に大きく、0.5世代遅れを取るだけで非常に不利な戦いを強いられることになる。そのため、制空戦とはまさに、国家同士の技術力の戦いとなる場合が多い。オケアノス義勇軍120機に対してアナンケの運用する敵機はAn-98が300機、核兵器を搭載した戦略爆撃機が数機だ。この中には核兵器を搭載していないダミーも含まれるだろう。
An-98はアナンケが共産主義時代から開発していた第3世代制空戦闘機で、かつては搭載ミサイルの数と命中精度で周辺国を恐れさせていたものの、オケアノス皇国による第4世代戦闘機の開発によって相対的な優位性は低下していった。
そんなアナンケ空軍を相手に、オケアノス義勇軍が恐れる理由などなく、オケアノス義勇軍は3機の損害を出しながらも、アナンケの戦略爆撃機を、前線に接近させる前に撃墜することに成功し、見事、アナンケの侵略を阻止したのであった。
航空戦力の大半に損害を負い、オケアノスのさらなる援軍の到着を危惧したアナンケ王国は、これ以上の戦闘継続は困難であると判断し、戦争は終了した。プシュケ連邦はオケアノスの義勇軍によって核兵器の投下こそ免れたものの、ピリッポス山脈はアナンケによって占拠されたままであり、もちろんプシュケにとっても、奪還するだけの軍事力は残っていなかったため、結果的にこの戦争はアナンケ王国の辛勝に終わった。
しかしプシュケ連邦国内では、核兵器の投下を未然に防いだ英雄としてオケアノス義勇軍が讃えられており、戦争後もプシュケ連邦とオケアノス皇国は、潜在的な同盟関係にある。この戦争がプシュケ連邦の対オケアノス感情をより高揚させた一方で、航空戦力の大半を失い、翼を毟り取られたアナンケ王国の反オケアノス感情は制御レベルにまで達していった。アナンケは、この苦い記憶から、ゼロベースで新型戦闘機の開発に取り掛かり、政府歳入の50%を軍事費に投じ、国家の総力をあげてオケアノスに対抗する、敵対的な姿勢を取るようになった。