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ふたりの女  作者: Berthe
9/10

柚菜──額縁

 柚菜は嬉しそうにかじりつくなり柔らかそうな頬っぺたをほんのり膨らませて、ゆっくり噛んだのち、華奢な喉元がなめらかに動いた。ふたたび口をひらいて小さくかじる。


 おなじ光景がくり返されるうち、齧るのと、噛むのと、どちらが先でどちらが後なのか、不意にわからなくなる。と、すぐに庸介はほほえんで、馬鹿げた思いを打ち消すようにあたりを見遣った。


 かたわらには水が半分ほどはいった透明の花瓶に、細い枝ぶりのめだつ花びらの小さな白い花が活けられていた。皿に三つのった観賞用の柚子と花瓶とのあいだで、肥えた三毛猫のぬいぐるみが人間のように座面にふんぞりかえり、幅いっぱいに揺り椅子に収まっている。彼が椅子の脚にふれると、それはゆらゆらと不安定に揺れた。


 カウンターに立てかけた栗色の額縁のなかでは、鬱蒼と林立する木立のすきまから差しこむ陽光がのびだした雑草をまばらに染めぬいているその上で、白いドレスにベージュの日傘をさした婦人が腰をおろしてのばした膝の上に本をひろげていた。


 その隣には白い山高帽に白いシャツと半ズボンを穿き、鼠色のベストに瑠璃色の蝶ネクタイをむすんだ婦人の子供とおぼしき少年が、立ったままきらきらと照らされている。前面には赤や白やピンクの花が一列に咲き乱れて、今にもこちらへにおやかに香って来そうだ。


 絵画からはなれて店内を見おろすと、地面は一面おなじ灰色ではなく、まだらに濃淡をつくっているなかを、時折ひときわ濃い色彩が浮かんでいたり、枝状の線がところどころ走っている。月日を経るうちにそうなったというよりも、いずれも初めから選ばれた意匠にちがいなかった。


 腰かけている丸い木製のスツールは、座り心地は座面の適度にしずむ椅子にはおよばないけれど、しめやかであかるい店の雰囲気には合っているし、かえってこの空間の心地よさを底上げしているかもしれない。


 額縁がわりの四角い窓から外をのぞくと、細くてしなやかな枝に薄い葉をつけて落ちかかる草木のむこう、道路をはさんだ白い建物が晴れ晴れとした午後の陽をいっぱいに浴びてきらきらと反射している。


 庸介はおだやかな眩しさから目を下ろすと、三つの直線がまじわる部屋の一隅が、室内が立体であるのを示していた。窓を囲うクリーム色の木の壁の、端から端までのびたいくつもの平行線が等間隔に天井近くまでつづいているのをぼんやり確かめたのち、ふっと満足をおぼえて皿へ顔をもどした折から、気配がして、そちらをむくと、


「あ」


 と小さく叫びながら柚菜がこちらへ指先をのばしてくるところであった。白いワンピースの七分丈の袖がずり上がったはずみに、腕まわりがふんわり皺を帯びてふくらんでいる。


「ほこりがついてるの」


 軽やかに言いざますっとその手が動く。彼が覚えずまばたきをした折から指先が軽く髪にふれて、静けさに漬かっていた感じやすい繊細な神経をそっと愛撫するような刺激が走り抜けた。彼はくらくらとその余韻に浸りながら、いちずに彼女を見つめた。


「何よ。ほら」


 微笑みつつちょっぴり不満げに言いながら、その手を彼の目元へ近づけた。それからぱっと親指と人差し指をはなすと、目にみえない透明な埃はひらひらと舞いながら静かに落ちていった。


 半ばうつむいたまま庸介が黙っていると、柚菜はもう一度彼の髪にふれて、ささっと整えるようにした。ちょっぴりくすぐったい。直し終えたらしく指先をはなして、浮かんだ満足とも不満ともつかないその表情をみると、すでに自分が男友達を脱して恋人に昇格したような気がする一方、幼気な自分が歳の離れた弟思いの姉に構われているような気がして、しっとりとしめやかなものが胸裏をなでさする。


 本当の姉もいないのに、なぜ急に姉として見てしまったのだろう。そういえば彼女のほうが誕生日は早いはずで、同い年とはいえ年上ともいえるわけだった。そう心づいてみると、歳のわりに落ち着いているようでいて、その実、心の底では随分と甘えたがりの庸介は、にわかに柚菜に惹かれてしまう。


 無論のことこれまでも自分の好意には気づいてはいたものの、しかしいざ付き合うとなると面倒だし、というより、お互いにそれとなく気持ちを察しながら、正式な交際に発展するまでの期間を永久にひきのばし続けることほど楽しいこともない。それに()くはないと、平素はわりかし進展の早いほうで、彼自身そんな経験は未だないながらも、しかしいくつかあるだろう真理の一つだと直観していた。とはいえ自分ばかりでなく、遅かれ早かれ誰しも心づかざるを得ないのだ。


 ぜひとも遂げたい願望。あるいは成就することを軽やかに回避し続けることそのものが宿願であるところの恋愛遊戯。そこにこそあたたかくやわらかな、人をなでさすり瑞々しい潤いを与えるような熱気が満ちているのではあるまいか。それを真剣至極に語ったら、柚菜は理解するだろうか? また一緒にでかけてくれるだろうか。


「庸ちゃんってやっぱりきれいな涙袋してるね」


 三角形の甘味を一つ食べ終えた柚菜は薔薇色の唇をきらめかせながら、庸介をみつめてそう言うなり、ぎゅっと目をとじて、ぱっと凛々しく見開いた。それからすぐに目をしばたたいて、すっと開いた栗色の瞳がこんどはきらきらと潤っている。大きな二重まぶたのように形よくふくらんだ桃色の涙袋が愛らしい。


「それをいうなら柚菜のほうだと思うよ」


 庸介は照れ隠しもかねて誉め言葉をさっとかわしながら、冗談とも本気ともとれる微笑を浮かべつつそう言うと、


「今は庸ちゃんの話でしょ。わたしのことはいいの」


 自分に振られて柚菜はすかさず話題をそらすように物憂げにかえしながら、


「きれいだよねえ」


 とうっとりつぶやくうち、ふいに湧き上がる笑みを隠せぬままに彼を軽くにらんでみせたかと思うと、ふっと唇をとじたまま優しく微笑んだその顔が、穏やかに差し込む午後の白い光のなかで情熱の火花を散らしながら、彼の瞳をまっすぐたおやかに射返していた。

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