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ふたりの女  作者: Berthe
8/10

梨華──真昼中

 その日はまだ明るいうちから梨華の部屋に来ていた。夜が更けてから訪れたことはあったものの、真っ昼間に参上するのは初めてである。


 いつも暗くなってからすることと言えば、言うまでもなく決まっていた。二人はさながら世間の恋人たちが一定の法則にしたがうように、そこになにか順守すべき規則でもあるかのごとく、決定事項として示し合わされた事態へと互いにまつわりつくように落ちてゆくが、しかしそれは嫌々ながらとは程遠い、嬉々として吸い込まれるままの出来事だった。


 彼女は青みがかった薄いグレーの部屋着のワンピースに、それよりも青く澄んだ色調からなる薄手のパーカーを羽織っていた。極端に長くのびたフードの紐の先から半ばへかけて、梨華が歩いたり、しゃがんだり、振り向いたりするたびに、腰のあたりでひらひらと揺れる。


 ふくらはぎが隠れるほどのワンピースの裾が、すこし離れたところに彼女が横座りになるのと一緒に、瞬時に膝下までせり上がり、すらりとして(しし)()きゆたかな腿へかけていくつもの横皺をつくった。


 庸介は気を紛らわすため、薔薇の取っ手を二本の草模様ではさんだ引き出しのついたサイドテーブルの置時計をみると、針は二時半をさしている。真昼中から彼女へ手をのばしたとしても、微笑みながら軽くあきれるくらいで、まさかはねつけられもしないだろう。


 しかし彼は湧き起こる男の意地と気まぐれから、こんな真昼時から梨華にからめとられるのも癪である。頃合いが訪れるまで紳士然と立ち振る舞うに()くはない。とそう思い定めたのは良かったものの、彼の禁欲的理想など夢にも知らない梨華は、


「あ、そうだ」


 とつぶやくなり立ち上がって、壁に寄せたしめやかな色あいの木製のデスクから白いパソコンを持ち上げると、


「一緒に見よう」と言って床に座る彼の隣へすべり込んで肩を寄せた。


 二人で見るのはサブスクリプションの映画でもドラマでも動画サイトでもよければ、通販サイトを徘徊しながら、一つひとつの商品の前で立ち止まってあれこれ言い合ったり、ふわふわと物思いにふけるのでも構わない。とにかく二人でいるのだから、梨華としては一緒に何かをしながら時を過ごしたいのだろう。


 それは庸介にもすぐに察せられたが、如何せんこうしてくっついたまま一二時間も耐えねばならぬと思うと、どうも先刻の誓いを守り抜くのが早くも困難であるような気がしてならない。


 三十を超えた人ならいざ知らず、まだ二十にもならない彼にとっては誰もいない秘めやかな空間で好きな女と二人寄り添って、きめの細かい肌やつややかな髪の毛から天然と人工の交じらいの極致とさえ感じられる、やさしくも妖しく混交したさわやかで濃密な香りが容赦なく立ち昇り、その妙なる芳香となめらかで弾力のある肉の思い出になすすべなくとらわれながら、しかし必死に力こぶを入れてぐっと耐え抜きつつ不埒な衝動にかられぬというのは年頃の男子の性質上、うら若い青年の構造上、土台無理な話なのである。


 ──けれどこれは俺だけの問題ではないし、梨華もそれくらい知っていてもいいのに。


 彼はかすかに当惑するが早いか、不意にぴんと来て、


 ──ひょっとすると、そういう男の事情を察することができないくらい、経験が浅いのだろうか。あまり男を知らないのだろうか?


 そう都合よく思い做して、じんわりと広がる幸福が胸を満たしたのもつかの間、最初の成り行きを思い起こすと、それでは全く説明がつかないと即座に思い至る。信じたくはないが、二三人は知っているに相違ない。恋人として愛した男のほかにも、いきさつのあった連中がいてもおかしくはない。かえってそれを疑わないほうがどうかしてる。


 辛い物思いから覚めて、やや身をひきながら彼女をむくと、あまり乗って来ない彼を誘うのは諦めたらしく、自分はアルファベットの並んだ英文のサイトをのぞいている。真面目にひらいた大きな丸い目が細かく動いているのをみると、どうやらすらすらと読んでいるらしい。とにかく語学が嫌いではないのは見てとれる。


 下ろすと鎖骨をなでるほどの髪をこの日はうなじに近いところで結んでいて、耳まわりをなかば覆いながら後ろの結び目へとつらなる髪はゆるい束に分かれながら流れており、彼女のやさしさが偲ばれる数本のほつれ毛や、まとまったまま耳の下へとふわりと落ちるほっそりとして柔らかな髪の毛をみているうち、気づけば邪念は吹き飛び、血潮は静まって、胸はしっとり潤いながら、清らかで神聖な愛へと高々と舞い上がっていくような気がしてくる。


 時折目をしばたたきながら、ぱっちりした瞳でなお画面をながめつづける梨華のばら色の頬へ、庸介がそっと口づけたのは、可憐な恋人へのにごりのない清澄な愛からであった。


 とにかく彼はそう信じたし、それから彼女がやさしくほほえみながら、うっすら染まった頬を傾けて、今一度口づけを催促したのち、こんどはお返しとばかりに彼の唇へ素早くやり返したのも、純真な恋心からの仕草であることと、ゆめ疑いはしなかった。


 しかしふいに唇の感触を反芻してしまう。と、たちまち血潮が息を吹き返してくる。全身へとみなぎりだす。


 ──いけない、いけない。これではいけない。


 庸介は目をとじた。仏陀を思い出す。キリストを思い浮かべる。スピノザを召喚する。聖人や哲人をよりどころにしてにわかに自身をその高みへと跳躍させようと試みる。なかば成功してまずは落ち着いたものの、すぐさま以前の状態に立ち戻りそうで心許ない。


 彼はニーチェを呼んだ。詩人哲学者は言う。禁欲とは禁欲ならず。いわく禁欲とは欲望そのものである。衝動そのものである。聖者が禁欲を謳うのは、情欲に従うことを欲する以上に、禁欲に従うことを欲するからだ。だから貴様も禁欲を欲しろ。欲望を抑え込むのではなく、欲望のままに生きろ。衝動のままに生きろ。偉大な欲望の矛先を禁欲にむけかえろ。欲望のままに禁欲しろ。衝動の先に禁欲があれ。スピノザも大いなる欲望のままに禁欲を実行したのだ。高くて険しい道だが、貴様ならきっと成功するだろう。


 ──どちらが正しいのだろうか? 中庸をとることはできないだろうか。二つの思想をひっくるめて総合することは? いっそのことヘーゲル流に二つの対立概念を止揚して、より高次の段階における調和と秩序のもと、統一できないのだろうか。


 彼は本気だった。至って真面目だった。折から、無邪気な梨華が彼の肩へ頭をもたせかけた。途端に肩がびくつき、稲妻が走り抜けた。視界が乱れる。思考をこねくり回して煩悶するそのそばで、そんな問題とは無縁だろう可憐で美しい恋人が健気に甘えていた。


 ──この子の喜ぶようにしてあげるのが一番だ。それを忘れるなんて。


 そう心づいて反省すると、畢竟、真昼中の禁欲は理にかなっているように思われた。昼のひとときは夜更けよりもさらにやさしく冷静に、梨華へと注がれるだろう。


「これってどういう意味? なんか単語をつなぎ合わせて、新しくつくったようにも思えるけど」


 庸介はさっそく恋人へ調子を合わせるように、やたらと長くて見にくい単語を指さして尋ねると、梨華は彼の肩に頭をもたせたままで首をふり、それから顔をもどしながら二重の線のきれいな瞳で彼を上目づかいに見つめるうち、まぶたを半ば閉じるままにしなだれかかった。

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