梨華──遊戯
なかに浸した人差し指をまわりを傷つけないようゆっくり抜きだしてそのまま鼻先すれすれへ持ってくると、すーっと穏やかに息を吸って香りをたしかめるつもりが自分に断りもなしにいきなり薫香が鼻腔へ侵入してきて、入るや否やその刺激が頭を急速に集中させるかたわらくらくらさせるので、ほんとうは葡萄酒をテイスティングする要領で香りの属性を今こそかぎつけたいのにそれも叶わず、ほかの席で出されたならばどうしても鼻をそむけ、それが奮発してたのんだ高価なものかあるいは周りに無理強いでもされないかぎり口をつけるのはもちろんのこと、匂いの漂う空間にいることにさえ身震いするほどであるはずなのに、状況が状況として整えば話はというより身体はおのずと変わっていってかえってこのきついはずの香りがそうではないものへとたちまち変わってゆく。しかし飛び散ってしみになるときにはまた話は別だけれども通常白の葡萄酒よりもむろん色素はごく薄くほとんど無色透明に近いこれからどうして赤の葡萄酒よりも断然濃厚で繊細な蘭麝の香りが漂ってくるのだろう、というよりどうして自分を惹きつけてやまないのだろうと思わずにはいられない。と、そう思っているそばからそれは指からふわふわ飛んで行き、けっしてひろくはないものの芳香がみずからを放散するには十分な空間へとまぎれこんでしまったので、もう一度、今度は人差し指と一緒に中指もなかへ浸すと、それへ押し寄せ締めつけるしっとりしたあたたかな力に思わずこころをほぐされて、刹那このままここに休んでいようかそれともさっそく運動を起こそうかと思った気持ちを振り切って抜きとり、再度鼻先へ近づけた。最前はひとつの指からふたつの目的地へと拡散していったためにひょっとしたら弱まっていたかもしれない香気が、その瞬間ふたつの指からふたつの鼻腔へと即座に侵入してたちまちのぼってゆきその内部でふたつの香りがひとつに合わさったかと思うや否や鼻腔に充満する、急激に圧縮された濃密な薫香に彼は瞬間むせかえりはしたものの、ほどなく蘭麝の香りに親しんでいる自分に気づいて、こうやってひとり戯れているのに多少の慚愧と冷ややかな快楽を覚えたのも束の間、さっきまで浸していたほうではないほうの手の中指と薬指をするっとなかへ差し入れるとまずはやわらかにそして徐々に繊細かつ豪然たる律動をつけていった。やがて成り行きが高まりをみせるにつれ頭はかえって次第次第に冷徹に冴えていくのが可笑しいというよりもごく当然であることを意識するともなく意識しつつ、熱心に事にはげむうち、はじめはクラシック音楽の序奏の如くごくかすかな響きのうちにあったソプラノが空間を満たすほどの音へだんだんに、いつしか急激に高まっていって、ついにはその高音が六畳を隔てるひょっとすると薄いかもしれない壁隣へはっきり浸透していきそうで不安になるというよりもむしろ得意げな笑みを濃い闇に浮かべつつ、平時ならやかましいはずの音域にかえって興を煽られた彼はそれを声援とみなして力に変えながら両指の痙攣をそろそろ危惧するまでに演奏に繊細かつ豪然たる情熱をこめていた果ての果て、透明がほとばしるなかに、ソプラノを超えた音律をとらえ、たちこめる蘭麝の香りを息深く吸っていた。