柚菜──買い物
両足をそろえて立ちどまり、きょろきょろするまもなく、左のメンズコーナーへ進みかけた柚菜の七分丈の袖口を、庸介はとっさに伸ばした指先であやうくつまむと、彼女は反り身に振りかえって、
「ん?」
と疑問の目をむけるのに、庸介は右をさしながら、「あっちからにしようよ」
「庸ちゃんが何かみたいんでしょ?」柚菜が可笑しそうに言うのを、
「いいじゃん、いいから」
「いいけど」と彼女は答えて、依然つかまれたままの袖口に目をやると、彼もそれに気づいて指を離す、と、どこか名残惜しいとでもいうように、瞬間みつめたままでいたのが、彼の目に留まった。
それからどういうわけか男が女を先導するかたちでレディースコーナーへたどり着くと、そこからもちろん主導権は女のほうへと移って、柚菜は最初に目についたハンガーラックにかかったブラウスに触れるや袖を引きだして、目は好みのカラーをえらぶようでいながら片手の指先で感触を確かめているかと思うと、今度は両手のてのひらではさむようにこすり合わせるその思案顔が、まるで自分を忘れたかのようでもあり、彼は可笑しさとすこしの寂しさを覚えるうち、彼女はぱっと手を離して、今度はとなりのとなりの色違いを手前へ引きだす。と、一瞥をくれるまもなく、ふと瞳を左上へやった。もう一度ブラウスを見つめる。しばし時が止まったのち、ふたたび視線を泳がせるとともに何やらうなずいて、すっと離すや、それがハンガーラックでカランカランと遊ぶのを気にするようすもなしに、はじめに手にしたブラウスをラックから取りあげると、サイズを確認したのちワンピースのまえにぴたっと合わせた。左右に首を振っても鏡が見当たらないようなのに、一瞬目元と口元がとがると見えたのもつかの間、こちらを向いて、
「どうかな? これ」
不意をつかれたものの言うべきことは決まっているので、「似合うよ」
「ほんと?」
「うん、似合う。デザインもきれいだし」
「そう?」
「うん」
色よい返事に気をよくした様子で、柚菜はそれを戻すかたわら先ほどもてあそんだ色違いをラックから抜きとり、ワンピースのまえに合わせて、「じゃあこっちはどう?」
「それも似合うんだよね」彼は微笑みながらいう。
「ねえ、ふざけてるの?」
「いや似合うんだよ」今度はいたって真剣なまなざしで庸介がいうのに、
「ありがとう」言葉とは裏腹にすげなく返す彼女の顔は、不満とも笑みともつかないへんてこりんな表情になっている。
「仕方ないよ」
「なに、仕方ないって。もういい」そう答える頬はほんのり染まっていた。
しかしまだブラウスを買うと決めたわけでもないらしく、もとのところへ丁寧にかけてふたたび歩きだしながら商品へ瞳を配っていると、たちまち目を射るものがあらわれる。するとすぐさまそばへ寄って行き、ブラウスのときと同様な仕草をするかと思えば、ときには手にとるやそっけなく離してまた別の獲物を探しだす。しばらくして服を見るのにもちょっぴり飽きたのか、柚菜は靴やサンダルがならべられたコーナーへと立ち寄ると、そここそ、彼女を夢中にするようだった。彼にしても、柚菜がパンプスやサンダルを黒のコンバースの横にそえつつかたわらの靴専用鏡で楽しそうにチェックしてみたり、彼のあたたかな視線をもとめながら、ときには実際に履いて合わせてみる姿など、それらが自分にはまったく縁のない品物であるだけに、見ているだけでかえって気分があがる。ひょっとすると、彼女を見ていると自分がもし女だったときの様子が想像できるから、よりそうなのかもしれない。いつしか夢想にふけるうち、気づけばパンプスをもどした彼女がそばへたたずんで、
「ごめんね。退屈だったでしょ。ちょっと楽しくなっちゃった」
「ううん、こっちも見てて楽しかったから。買いたいのあった?」
柚菜は首を振った。
「そうなの? あんなに見てたのに」
「もっと安くてかわいいのがあると思う」
「──そっか。それはそうかもね」
「そう。だから今日はやめとく。次は庸ちゃんのを見よう」
「俺の?」
「そうだよ」
「俺はないんだよ、とくに欲しいものは」
「見なきゃわからないっていったの、庸ちゃんでしょ」
「そっか」
「そうだよ」
「確かにそうかもしれない」
「なにそれ。行きますよ、ほら」見てまわるうちに自然元気がでたのか、柚菜はすたすた行きかけるので、彼は今度は返事をするひまもなくそのあとへ従った。
事実、メンズコーナーに着いてもとくにこれといって欲しいものは見つからない。庸介はそもそも事前に買うものを決めたのち初めて、ショップを訪れるほうなので、今日のように急に立ち寄っても、興は乗らないし選ぶ手もはかどらない。店員に勧められるのもわずらわしい。ただファッションや洋服は好きではあるし、見るときはちゃんと見るけれど、それは自分ひとりですればいいことで、それに今はブランドもののシャツを狙っているのに、こんなところで中途半端に高いものを買うのはあほらしい、などと思いながら、やる気のない目をそのあたりに送りつつも、むしろ彼女が選ぶようすをもっと眺めていたいと思ってしまう。お義理に商品を手にとったり触れてみたりしながらも、そのことばかりを考える。女のひとが買い物するときの仕草はわかっていたように思っていたけれど、やっぱりひとが違えば違うらしい。どの女性も似ているといえばこれほど似たものもないけれど、似ていないといえば全然似ていない。不思議だし、毎回新鮮である。彼にはそれが面白く、わけても今日の柚菜の姿は彼の目を楽しませていた。庸介が自分のための服を選ぶのに、あまり気乗りしていないらしいのが、彼女には不思議なようだった。