梨華──ふたりきり
からだだけさっと清めたらしい彼女のあとにシャワーを浴びるうち、自然落ち着きを取りもどした庸介が部屋にもどると、梨華は、レースカーテン越しに差しこむやわらかな西日を淡い頼りに、手鏡をのぞきながら、アイライナーを器用に目元へあてていた。自分が入って来たのに気づかないわけもないのに、こちらへ視線をくれる様子もないのが、かえってすばらしい。と、そんなつれない姿には似もしない、彼女を子供にしてしまう、ちょっと大きな彼のTシャツを従順に着て、体育すわりでいるそのたたずまいが、記憶のなかの女子たちと今度はすこしの変わりもない。いや、幼く見えるぶん、むしろ年下のようでも妹のようでもある。
「見ないで」言葉とは裏腹にごくやさしい口調で彼女はいった。
「それはできないよ」彼はいたって真面目な調子で答える。
「だめ。見ないで、お願い」
「わかった。見ないから」と返しながらも彼はまったく視線をずらしてくれないのに、梨華は見ずとも気づくらしく、
「こういうのが好きなの? でもこんなの珍しくないでしょ」
「それはそうだけど」
「──やっぱりそうなんだ。そうなんだ」何やら合点がいった様子で彼女はつぶやいた。
庸介はそれには答えずに今度は彼女のうしろにすっと座を占めて、その肩越しに鏡を見ても、瞳は合わない。髪が頬に触れて、さらさら、ざらざら、という音が耳につくのを片耳でわずかにとらえつつ、働くのをやめようとしないアイライナーを彼女の右手からとりあげようと後ろからやさしく手をそえる、と、ぎゅっと離さないふりの嘘の抵抗が、瞬間あったけれど、しだいしだいに力をゆるめて彼の手にそれを委ねたところで、瞳をとらえると、奪ったアイライナーを握る手にいつしか力がこもっていたのに気づいて可笑しくなったのもつかの間、鏡のなかに片目ずつ映るふたりの瞳が、ひとりはくりくりして愛らしいかたち、ひとりはしゅっとして涼しげなかたちで似ても似つかないのに、けれどどうして、どちらもはっきり美しいのが不思議になった。
「梨華さんってほんとに目大きいね。これは必要ないよ」
「──そうかな。そう?」
「うん」
「でもね、必要だよ。使うの楽しいし」
「そうなんだ、でもこれは俺にこそ必要だよね、あんまりぱっとしないから」と彼が言うのを、梨華は微笑みつつやんわり首をふる、そのたびに、横髪に彼の頬がくっつくのも気にしない様子で、
「──そんなわけない、庸介にはいらないよ。そのままできれいだから。わたし、庸介の目、好き──それとずっと思ってたけど、肌もすべすべ。白いし。わたしよりもきれい、絶対。羨ましいな」と、なかばうっとりした目で、冗談とも本気ともつかずにいう、鏡越しの彼に見入っている梨華の肌こそ、年端もいかない温室育ちの子供のようなもち肌である。彼は彼女の頬を指先でそっとついた。と、上唇がわずかにひらいたはずみに、いつもは綺麗に収まっている前歯のさきが白くのぞいて、彼女のとしを際限なく下に見せるその愛らしさに、何度もついてはひいてを繰りかえしてみても、梨華はべつに彼の邪魔はしない。かえって面白いとでもいうように、庸介の所作と、自分の顔の変わりようをおだやかに見守るうち、梨華はあごを掴まれた。
目が覚めると、ひとときまえには、もとは真っ白な空間を淡い陰影につつんでいた西日の反映もいまではすっかり去っていて、急な暗闇がひとを怖がらせるというよりも、かえって落ち着かせる刻限の恩恵を彼も知らず知らずに受けながら、隣を見ると、かたわらの女はすーっときれいな寝息を立てている。しあわせが身内にながれるのを引き延ばそうとも断ち切ろうともしないままにさっきを振り返ってみると、こんどはそれがたちまち満足へと変わってゆく。これまでは試したいにも試せなかったことや、お願いしようにもお願いしづらかったことを、なんという決意もなしにいつしか試し、頼んでいたのだけれども、そのわけを何度自分に尋ねたところで、それは疑う余地なく相手が年上だからであり、相手も断らない、というよりむしろ断れないことを始めからあくまでわかっていたらしいことに、我ながら可笑しくなった。
──これではどちらが年上かわからない。
庸介は苦笑ともつかない笑みが覚えずうかぶのをそのままにして、思案を進めてゆくうち、どうやら恋愛においては通常の人間関係とは異なり、年下が年上に仕えるのではなくして、むしろそれとはまったく反対に、年上が年下に仕えるという図になるらしい、と、奇妙なそしておそろしく愉快な直覚をいだいた。これまで同級生や、あるいは彼に好意を寄せてきた年下の女子たちに対して、多少は自分を偽り、かっこつけてきたのがまったくあほらしい。そう思うや否や、遅ればせながらこれまで溜め込んできたらしい、激しい苛立ちを覚えた。彼は梨華をぎゅっとした。
──妹のような姉のような女、だけど、これは梨華だけかもしれない。
それはそうかもしれない。けれど、結局のところ、事実はどっちでも構わなかった。この子がいればそれで良かった。もう一度やさしく抱きしめてみても、相変わらずすやすやしている。まったく安心しきっているのだろう。嬉しかった。自分のそばで安眠する子供のような、妹のような、姉のような、そして自分にとことん従順で愛らしい年上の女。俺の女。妄想だろうか? いや、現実だった。まちがいなく。