柚菜──歩道
まえを歩かせるうち、彼女はときおり、片足のつま先だけのバランスになって、右手の手首にハンドバッグをかけながら、ふわりふわりと両手で弧を描く。ときには、地面についたほうの足で何度かリズムを刻む、そのたびに、すらりとしたふくらはぎの筋肉が緊張し、緩むかと思えばぴんと張る。筋がはしった。くるぶしまでを覆う黒のコンバースが一連の動きを引き締めて、真っ白とまではいかない健康的な律動が、彼の目を癒やすそばから彼女は急に歩みをとめて、ひらりと振り返り、
「庸ちゃんはどこか行きたいとこないの?」
「え──どこか、お店、ショップとか行く?」
「うん。いいよ。でも庸ちゃんが誘ったんでしょ。それともさっきのとこ戻る?」柚菜は別に怒るというわけでもなく、しかしたしなめるように言った。
「そうだっけ」と惚けつつも、通りを抜けてから足のステップだけでなく言葉さえなめらかになってきた彼女を、あそこへ連れ戻すという法はない。庸介は刹那にそう決めて、「次のとこ右に曲がってちょっと行ったらお店あるよね、セレクトショップ。そこ行こうよ」
「うん、そうする」柚菜は素直に返事をするや、ぷいっと向き直った。
歩道もそれなりに人通りはあるものの、しかし、ふたりのあいだへ闖入するものや、無遠慮に横切ったりするものはいない。聖域は守られていた。庸介にはまわりの景観など目に入っていなかった。というより、それは背景に過ぎなかった。柚菜がいることで初めて完成する、それ自体としては未完成なものに過ぎない。
──たとえば、自然の美しさとは具体的には何をいうんだろう? どう考えたって、女性のほうが美しい。
男が女にくらべて幸福なこと、そのほとんど唯一かつ絶対的なことは、自分の外部に女が存在していることである。この奇妙な考えをしかし彼は深く確信していた。庸介はときおり、小説や漫画を読む。なんというこだわりもなしに、男女いずれの作品にも目を通してきたが、女性が書いた作品の、華やかで、甘酸っぱくて、きらきらしたところに共感と好感を覚えた。しかし一方、時にグロテスクで、視点や感覚があまりに現実と触れあっているところなど、はじめは新鮮に感じたものの、たちまち閉口した。読んでいるそばからむせてしまう。頭が痛くなる。理由なく疲れる。違和感を覚えるまま途中で投げ出してしまうことも度々だった。何かが足りなかった。欠けていた。美しくなかった。いや、美しくはあったが、それは自分が親しんできた美しさじゃない。満たされなかった。読んでいると、逆に美に飢えた。
──女のひとは自分の美しさをほんとうには知らないんじゃないか。というより知ることができないのか。
これは彼がたびたびとらわれる設問である。もちろん女性は自分の美を磨きあるいは保つために日々手入れし、着飾り、化粧をする。自分はそれを思う存分、目で追うだけの存在で、彼女たちがいなければそれも叶わない。けれど、「見られるもの」と「見るもの」ではどちらがより幸福か。快楽的か。彼は自身が「見るもの」であると同時に「見られるもの」でもあることから、どちらの快楽も知っているつもりだった。どちらか一方を選べと言われたら、自分は迷わず「見るもの」であることを選ぶだろう。女は美しい。女は男になれないことで、自分たちの真の美しさに対して永遠に目が閉ざされているのではないのかと、不憫に思うことすらあった。馬鹿な思いだろうか。だけど、だからこそ、やっぱり俺は男のままでいい。
──風景の美しさを語るのは詩人と老人だけである。って作家が書いてたような気がするけど。
わかる気がした。それがほんとうなら俺は詩人でも老人でもないって話になる。当たり前だが。庸介は思わず顔がほころぶのを抑えきれずにいるうち、柚菜が振りむき、目顔で、
「ねえ、庸ちゃん、あそこだよね?」
「うん、そう、とりあえず」
「なにか欲しいのあるの?」女は男が隣にくるのを待って訊いた。
「それは見てみないと」
「そうなの? どうして?」
「どうしてって。柚菜も欲しいのが見つかるよきっと」
「なにそれ」
と、彼女が微笑んでいうのに、彼が微笑まじりの視線で答えてほどなく、店の名前が彩られたガラス張りのまえにふたりは着くや、柚菜はそれを鏡代わりに髪を整えはじめたかと思うと、ワンピースについたほこりをそっとつまんで弾いたその手で裾のあたりを軽く払って、仕上げにさらさらな横髪の毛先を戯れに指先でくるくるするかたわら、その鏡越しに見つけた彼へと瞳を送る。と、男もそれに気づくはずみに、知らず知らずの仏頂面を覚えず解く流れのままに鏡越しで微笑を交わしたちょうどその途端、おすすめを着こなす白人のマネキンを冷やかしに、ガラスの向こうから近づいてくる、同世代らしきカップルと目があった。思案するまでもなく、こちらのほうがだいぶ上等な取り合わせだとわかる。その想いは両者に流れたのか、相手側が一瞬じっとこちらを見つめたのちすぐに目線を外したのを合図とばかりに、柚菜は振りむいて、彼を一瞥しつつ口元を緩めると、ステンレスの取っ手に手をかけた。思いのほか大きい鈴の音の響きが耳につくまもなく、店員の歓迎のことばに遮られた。