異界の勇者、転移する
私の名前は猪飼野由紗。
幼いころから体が弱く、入退院を繰り返していました。中学を卒業してからの数年間はずっとベッドの上で過ごしていたと思います。白い天井を毎日眺めるのはとっても暇でした。
入院してから何度目かの春、窓から見える桜の木にまたちらほらと花が咲き始めたころに私は命を落としました。いえ、落としたはずでした。
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澄み渡る青い空に、いろとりどりの花が咲き誇る美しい庭園。その花々の中央には円形の噴水が水面を揺らしている――
そんな美しく彩られた視界の中に、これまた美しい女性が一人。私と一緒に小さな丸いテーブルを囲んで座っています。彼女は自分自身のことを女神だと名乗り、少しお話をしましょうと誘われました。
そして……
「私が異世界に、ですか」
「そうです。貴女を別の世界で生き返らせて差し上げましょう」
「嬉しいお話ですが……私の身体では、転移しても長くは生きられないのではないでしょうか?」
「それはもちろん、病魔は取り払い、健康体として活動できることをお約束いたします。せっかくですので、いくつかのスキルを使えるようにしておきますし、ちょっとだけ能力の向上もしておきますね」
「そんなにいっぱい頂けません!」
「遠慮なさらずに。こちらにも利のある事ですから。第二の人生を楽しむことこそが、恩返しだと思ってくださいな」
「あ、ありがとございます」
「そうだ、何か夢はありませんか。せっかく転移するのです。やってみたいことがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「それじゃ……ペットが飼ってみたいです。ずっと病院生活だったので……」
「ペットですか。ではテイムのスキルを授けましょう。転移先の世界ではテイマーは多くはいませんが、認知されているジョブなので問題ないでしょう。他には、何かありませんか?」
「後は……せっかくなので色々と冒険してみたいです!」
「うふふ、良い目になりましたね。これから向かう世界は、きっとその夢をかなえてくれますよ」
女神様が微笑むと、私の体は光に包まれました。
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気が付くと、目の前にはうっそうとした木々と、隙間からのぞく青い空が見えます。ここが転移先の世界ということでしょうか。
「ここはどこ……森の中?」
辺りは道はなく、見渡す限り草木が広がっています。驚きましたが、緑と触れられなかった入院生活を思うと、怖さよりもワクワクします。それに、
「あれ? 息苦しくない……」
深呼吸すると、爽やかな香りが胸いっぱいに広がります。トイレに立つだけでも息切れしていたというのに、女神様は本当に私を健康な体にしてくださったようです。
その時近くの草むらがごそごそと動きました。何かいるようです。私は思わず飛び上がり、数歩後ずさりました。するとその草むらから不思議な鳴き声と共に何かが飛び出してきました。
「キュイ!」
高い声で鳴いたそれは、柔らかそうな青い球体でした。それはペタリと着地すると、つぶらな瞳で私をじっと見つめています。
「あれはスライムでしょうか。プルプルしていて可愛いじゃない。それになんだかひんやりしていそうで、抱っこすると気持ちが良さそう」
そんなスライムをみて、私は女神様から頂いたスキルを思い出しました。
「そうだ、女神様からもらったテイムを使ってみよう!」
そのスキルの事を思い浮かべると、自然と使い方も一緒に頭の中に浮かび上がります。どうやらテイムをするには、対象に触れて念じる必要があるようです。相手が受け入れればそのまま契約できるらしいのです。
私はそっとスライムに触れました。思った通りのひんやりプルプルで気持ちがいいです。そしてそのまま頭の中でテイムのスキルを唱えます。
ゆっくり手を放すと、スライムは私の足者へ近づいてきてすりすりと身を寄せてきました。これは、私を受け入れてくれたということでしょう。
「やった! テイム成功!」
こうしてテイムをしてみると、なんとなくこのスライムの意思が分かるような気がします。はっきりとしたものではありませんが、ぼんやりとスライムが伝えたいことがわかるのです。
このスライムは、どうやら森の出口へと案内してくれるようです。私が困っていることを感じてくれているみたいですね。
「うふふ、これからよろしくね、スライムちゃん。まずは街へ向かいましょう!」
自然と歩くスピードが速くなります。きっと私は興奮していたのでしょう。私の冒険は、ここから始まるのですから。
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柔らかな日差しを照り返す花々の中央にある噴水。その噴水の波がゆっくりと収まると、それは地上の世界を映し出す水鏡になりました。それをのぞき込むと、女神はぽそりとつぶやきます。
「あなたはきっと、魔王を打ち滅ぼす勇者となるでしょう。しかし……」
女神は少し言いよどみましたが、またその柔らかな笑顔を浮かべると、小さく言葉を紡ぎます。
「確かにこの世界であなたは勇者ですが。この物語の主人公ではありません。いずれ知る使命に縛られてはいけませんよ」
女神の指が水面に触れると、それはただの噴水へ戻りました。
「きっと貴女は旅の中でいろいろな人と出会うことでしょう。来たるべき時、その縁はきっと貴女の助けとなるはずです」
風に揺れる水面には、もうなにも映ってはいませんでした。