39 悪霊と浄化の翼 アンside
前回までのアンの話です
「着いた様です。やっと妖精界から出ますよ」
アンが呟くと少女はハッとして馬車の窓から外を見た。
自分はさっきからどうしたのだろうと考える。
この少女を逃がすタイミングばかり図っているのだ。
馬車に乗せるために物置へ行ったら、ブロメル伯爵に殴られたのか、少女は愛らしい顔の両頬を赤く腫らしてとても痛々しい事になっていた。
汚い床の上を転がされる程の勢いだったのか、全身ホコリまみれで下着が薄汚れていた。汚れてはいたが破れていないことにホッとする。性的な乱暴はされなかったらしい。
シュミューズの腹部には靴跡が付いており、踏みつけられたか蹴られたらしい。うっすら透ける素肌が赤く青黒く変色していた。
これから儀式で殺されるのに、こんなにされて可哀想になった。アンの場合弱ったところに悪霊を憑けられたが殺されはしなかった。
馬車に乗せる時、少しだが外へ出るのでショールを少女の肩に掛けた。今のアンには眩しい程、柔らかく可愛らしい笑みを向けてきた。
何とかしてあげたくなる。
本当に不思議な少女だ。
窓を覗く少女を見ながら考えていたその時、
―――――――大きく馬車が揺れて横向きに倒れた。
衝撃でガラスが割れ、庇った掌が切れたのか火傷したように痛い。
不味い。
今、血を見てしまったら抑えられない。
近くで少女の悲鳴が聞こえる。
柔らかく温かいものが自分の上にのし掛かってきたのを感じた。
不思議な事に、柔らかく温かなものが触れた瞬間赤帽子の悲鳴が頭に響いた。
さらには、真っ黒く塗り潰された筈の心からじわじわと黒いものが溶けてゆく。
黒いものが少しだが消えている?
だが、柔らかく温かいものは直ぐに離れてしまった。
待って。
「アンさん!」
少女の声が聞こえる。肩を揺すりながら声をかけているのだろうか。また、黒いものが少し溶けた。
呻きながらも何とかボヤける目を瞬き、周りを見ようとする。
しかし、少女の手が肩から離れてしまう。
お願い、待って!
「・・・赤帽子?」
少女のくぐもった声が聞こえた気がした。
続いて馬車の扉が開く音。新鮮な空気が馬車の中に入り込み、少しだけ視界が晴れてきた。
不思議だった。
目の前には自分の手から流れる血。
向かいに倒れているブロメル伯爵の額からも血。
何故、まだ私の意識があるの?
赤帽子に身体は取られている様だが、奴は痛みのせいで上手く動かせないのだろうか。
それとも、先程頭に響いた悲鳴が関係しているのだろうか。
柔らかく温かい不思議な少女。
ボヤけた目で少女を探し、見つけた。
徐々に焦点がに合う。
後退る少女は驚きに目を見開いている。
待って!行かないで!!
気が付いたら少女に手を伸ばしていた。
―――――――いや、違う。
赤帽子が少女を捕らえて殺そうとしている!
頭の中で奴の殺意が渦巻く。
『や゛つは゛キケん゛だ!ころ゛ス!』
ああ。駄目だ。
自分の手なのに自由に動かない。
待って!駄目よ!行かないで!
逃げて!私の側に居て!私から逃げて!
頭が混乱したまま少女を見詰める。
「ごめんなさいっ!!」
少女がアンの手や肩を蹴りつけて馬車の上へ登り、視界から消えた。黒いものがまた心を塗り潰す。
薄れ行く意識の中で、赤帽子が少女を捕り逃した事に安堵した。
扉が閉められて視界が陰る。
赤帽子がアンの身体を扉にぶつける鈍い音が聞こえ、続いて馬車の窓ガラスが割れる音。
遠くから少女の声が聞こえる。
突然、
凄まじい叫び声が響いたのが馬車に伝わる震動で解った。
段々と意識が無くなる。
ああ。誰か赤帽子を止めて。
次に意識が戻ったのは見たことのある場所だった。
儀式の準備がされてある筈のアルマン・ブロメルの別邸の一室。恐らくは1階の部屋だろう。
馬車で移動した目的地。
まさか意識が無い内に―――――――少女を、
いや、違う。
よく見るとアンの身体は縛られている。
赤帽子は捕らえられた。
散々暴れたらしい。辺りに医療品が散乱している。
今も十字架に囲われて逃げられずもがいているのが解った。
近くにキースが居るのが解るが、兄に言葉をかけることさえ出来ない。
苦しい。
自分が消えていく。
黒いもので塗り潰され、殺戮衝動が止まらない。
人を殺すだけの化け物になっていく。
そんなのは嫌!!
すると、誰かの掛け声で部屋の扉が開いた。
軍の兵士に混じって、あの不思議な少女がアンに声をかけながら駆け寄って来る。
よかった。生きていた。
「アンさん!―――――――っわわ!?」
また赤帽子が少女に襲い掛かろうと縛られた身体を暴れさせている。
縛られたまま手を伸ばしていたので、少女は慌ててアンの手前で足を止めた。
このままでは意識が消える。
次に消えたらアルマンがいない今、もう戻らないかもしれない。
どんどん抑えられない。
いっそ、――――――――――
「わた『しを止めて、殺し』て」
自分の声と重複して嫌な呻き声が混じる。ガラスを引っ掻く様な耳障りな赤帽子の声。
ああ、化け物になるくらいなら死にたい。
あの頃から諦めるのが当たり前になった。願っても叶わない。
両親を目の前で失い絶望した。
今まで仲良くしていた人々は掌を返した様に消え、誰も助けてくれなかった。14歳の小娘にはどうしようもできなかった。
せめて、と外国にいた兄キースは逃がした。
それなのに、悪霊憑きにされ、逆らえずに人を殺してしまう。
さらには、探し出してくれた兄キースにも迷惑をかけてしまっている。
これ以上、助からないなら・・・
「え、赤帽子!?駄目よ!」
少女が突然叫んだ。
何故?
まさか、私の声が聞こえるの?
周りの男性達が目を丸くして少女を見ていた。
キースが少女に何か言っている。
「ニーア殿に引き渡された時は意識がなかったので分かりませんが、先程目覚めてからずっとこの調子です。微かにアンの意識はある様ですが、赤帽子の殺戮衝動の方が勝ってますね」
「馬車で自分とブロメル伯爵の血を見てしまったから、殺戮衝動が抑えられなくなってしまったんですね」
少女はキースと話しながらもアンから目を離さない。
床に散らばった物をチラッと見やるぐらいだ。
「今は十字架で抑えているのでマシなのでしょう。あっ。天使様、あまり近付くと危ないですよ!?」
少女がキースに止められたのを無視して近付いて来る。
駄目。危ないわ!
私では止められない。
「おね『がい、私を死なせ』て」
これ以上人を殺したくない。
化け物になりたくない。
「アンさん、手の怪我を手当てさせて下さい。私が逃げる時に蹴ったせいで酷くなってませんか?」
殺そうと手を伸ばすアンの腕を少女がそっと掴む。優しく、でもしっかりと握り締められた。
途端に、荒れ狂う様に暴れる赤帽子が、頭の中で悲鳴を上げて大人しくなった。
また、黒いものが溶け出す。
何故なの?と顔を上げて少女の顔を見る。
未だ腫れて痛々しい頬、艶やかな唇は弧を描いている。輝くように弾む金茶色の髪。同じ色の睫毛に縁取られた、澄んだ海の様に綺麗な瞳がジッとアンの瞳を覗き込んでいる。
ただ可愛いだけじゃない。
赤帽子が危険だと言う不思議な少女。
「あ『なた、大丈夫な』の?」
「はい。アンさんのお陰で無事です」
少女の返事に安堵した。
今はドレスを着ているから怪我は分からないが、あの後酷い傷を負わなかったようだ。
周りに散らばった医療品を少女が集めて、アンの手を掴みながら手当てをしている様だ。
治してもこの手を使うのは赤帽子だ。
斧を振るい、容赦なく人間を殺して喜ぶ化け物。
「大丈夫です!私が手当てすると直ぐに治るみたいですよ?」
「む『だよ。もう抑えられない』わ」
「大丈夫、大丈夫です。私、アンさんと仲良くなれる気がするんです。仲良くしてくれますか?」
治してどうするの?
私と仲良くなれる?なってどうするの?
私には14歳で売られた時から友達なんていないのよ?
もうすぐ私は消えるのに?
化け物になってしまうのに?
訳が解らず身体が震える。
顔が歪みそうに目頭が熱い。
耳から聞こえる明るい声に胸が痛い。
「な『ぜ?化け物に成る前に死にた』い」
「大丈夫です。ほら、手当て終わりましたよ」
手当てを終えて少女が笑みを深める。
握られた手が、手当てをされた手が、不思議な感覚に囚われた。
じわじわと少女の熱が伝わり心地好い。
黒いものが溶けて流れていく。
耳障りな赤帽子の絶叫が頭に響き、頭が働かない。身体からの支配が弱まった気がした。
何があったの?
奴が弱り、抑えられている・・・
契約者であるアルマンはもういないのに。
この不思議な力は何?
私は化け物にならなくて済むの?
本当に、奴の支配を逃れるなら、
気が付いたら口から溢れ出た。
「・・・『まだ、死にたくな』い」
「アンさん」
側にいてほしい。
少女といれば化け物にならないかもしれない。
本当は、諦めたくない。生きたい。
少女の安堵した微笑みに自分の顔がくしゃりと歪んだのがわかる。
熱のこもった目頭から、歪んだ途端にぼろぼろと涙が溢れ出す。
口からも願望が止まらない。
「た『すけて、助け』て」
「はい」
お願い。助けて。
柔らかく温かいものに包まれた。
涙で歪んだ視界には少女の柔らかな胸元と肩口に落ちる金茶色の髪。思わず手を伸ばして少女にすがり付いた。その時、少女の肩口より向こうに、輝くほど眩しいものが見えた。
銀色に紺碧を散りばめた煌めき。
とても美しく、この世のものとは思えなかった。
そう言えば、さっき兄キースが少女を呼んでいた。
ああ。
彼女は本当に天使かもしれない。
心を真っ黒に塗り潰すものが、水のように溶けた。
じわじわと蝕む赤帽子の支配がなくなっている。
私からから黒いものが消えて、
――――――赤帽子を浄化された。
こうして
モルディーヌ教の信者2号が、、、