俺が目を開けると世界はあまりに美しかったので
さあ、夢をみよう。
彼女に会うために。
さあ、逃げてしまおう。
無知こそ幸せなのだから。
目を開けると、綺麗な「空」が広がっていた。
そこで俺は地面に仰向けで倒れていることに気づいた。背に受ける感覚からして、地面というより草原にいるようだと気づく。この感覚に根拠は無い。それはただ単純に、俺は草原に寝転んだことがなかったからだ。そして鼻を掠める甘い香りは、想像通りなら恐らく花の香りだ。もちろんこの感覚にも根拠はない。だからこの香りが血の臭いだと説明されれば、そうなのかと信じるしかない。
辺りの様子を確認したくて立ち上がろうとすると、筋肉全部が釘で固定されてしまったかのような痛みを感じる。同時に汗が吹き出しくる。いつの間にか荒くなっていた呼吸を沈めながら、俺は考える。筋肉痛というレベルの痛さではないが、俺は怪我でもしているのだろか。確認するために顔を動かしたり、起き上がったりするのも難しそうなので、諦めてもう一度「空」をみる。
先ほどはこの「空」を綺麗だと表現したが、それが適切かどうかということも俺にはわからない。俺は「空」というものを初めてみる。だからこの桃色の「空」が普遍的なものか、格別なものか、忌むべきものか判断がつかないのだ。だがそれは「空」だ、ということは分かる。天井という概念を忘れさせる程に広がっている空間が「空」だ、という知識だけは持ち合わせているからだ。ただ、自分が想像していたものとは違っている。青いものだと思っていた。
その想像はいつしたものだっただろう、根拠はなんだっけ、そんなことをぼんやり考えていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。
「大丈夫?」
優しい声が耳に入る。そして桃色の「空」を遮るように、女性の顔がこちらを覗きこむ。正直近い。彼女の灰色がかった薄い茶色の髪が、顔をくすぐる。彼女は眉をひそめる。
「大丈夫?」
同じ問を繰り返す彼女に、俺は小さく頷く。すると安堵したかのように、微笑む彼女。今更ながらとても美しい人だと気づく。
「よかった、意識はあるのね」
「空」の綺麗さも知らない俺が、人のことを美しいしいだのなんだの思えることが少し可笑しかった。しかしどちらにせよ彼女は俺にとっては綺麗過ぎて、思わず目を逸らす。首の筋肉が痛んだが、見栄を張って涼しい顔を維持する。
「こんなところで何をしているの?」
そう言われてみて、確かに自分は何をしていたのだろうかと考え出す。しかし思いだそうとすると、頭まで痛くなってしまった。
「わからない、何してんだろ、俺」
彼女は小首を傾げる。
「どこから来たの?」
それらについても頭を働かすと同様の痛みが襲った。
「すまん、わからない」
「記憶喪失かしら……。何か事故にあったのかも。あ、でもそれにしては外傷はなさそうなのよね……。何か分かることはある?」
記憶喪失と言われても何故かぴんとこない。多分俺は痛みに邪魔されているだけで、全て忘れたわけじゃないのだ。それとも記憶喪失の人はそういう風に考えてしまうのだろうか。
頭痛がしない範囲を探りながら、頭のなかから情報を探しだす。
ふと思い出すものがあった。
「ハルセ」
思わず上体を起こす。いつのまにか例の筋肉の痛みは消えていた。
「俺の名前……ハルセっていう」
正直それが本当に俺の名前という確信はまだ無い。しかし俺は、目の前で「空」の何倍も綺麗な桃色の瞳を揺らしながら「素敵な名前ね」と微笑む彼女に、そう呼んで欲しいと思ってしまった。
彼女の提案で、俺は彼女の村に向かうことにした。彼女の知り合いに医学に精通した人がいるらしく、俺の記憶喪失の原因を解明しようということになった。もともと彼女は買い物をして村へ帰る所だったらしく、手間にはならないと言う。それにしても、だ。
「どうして見ず知らずの俺にここまで」
彼女の村に向かう道中、俺は思わず話しかける。彼女は答える。
「記憶が無い人を放って家に帰れるほど、太い神経は持ち合わせてないよ」
「迷惑じゃないか……? あんたにも、その知り合いにも、急に押し掛けたら」
「大丈夫だよ。私は暇してるし、彼も人助けが趣味だしね」
随分と親切な人だ。容姿だけでなく性格も良いとは恐れ入る。
「そういえばハルセ君は」
「ハルセでいい。多分あんたのほうが年上だし」
君づけで呼ばれることがなんだかこそばゆくて、話を遮ってしまう。それに気分を害した風でもなく、彼女は笑って快諾してくれた。
「じゃあハルセは……」
そう彼女に呼ばれてみて、なんだか既視感を覚える。
俺は彼女を知っているのではないだろうかーー
まさか。だとしたら彼女がそう指摘するはずだ。もし他人の振りをしているのだとしても、その上で俺に関わる理由がない。きっとよく似た知人がいたのだろう。
「……ハルセ?」
しばらく沈黙していたからか、彼女が怪訝そうな顔をする。
「大丈夫?」
「ああ、ちょっと頭痛がして。すまん、何の話だっけ」
「あ、そうそう、だからハルセは記憶が無いにしても、どうしてあそこに寝そべってたのかなあって」
「ああ、体が痛くて起き上がれなかったんだ。だが原因はわからないが、もう今は治っているから心配ない」
すると彼女はさらに眉を寄せる。
「怪我をした様子は無かったけれど……それも村についたら相談してみましょう。ここらへんには毒を持つ植物も少なからずあるから」
有毒な植物の存在を知り、思わず俺は辺りを見回す。彼女の村へ向かう間に日は傾きかけ、「空」の桃色もだんだん濃さを増してきている。俺たちは小道をひたすら歩いているが、その横に無秩序に生い茂っている植物の中には、なるほど、確かに毒々しい赤紫色の花や黒い斑点を持つ草がある。
しかしその植物の色合いも含め、見渡す全てが絶景に感じられた。体が受ける心地よい風を、記憶を失う前の俺も果たして感じていたのだろうか。
「毒は怖いが、ここは凄く綺麗な場所だな」
「不思議な人ね。ここの景色はよくみられる程度のものだと思うけど」
「あんたらにとってはそうかもしれない。でも俺にとっては多分初めてなんだ。なぜだか確信できる。記憶がある時にも、俺はきっと「空」の色も風も香りも知らなかった」
風に乗せられたかのように、ふと記憶の断片が頭に戻った気がした。これが風でこれが植物だと識別できるように、前の俺も知識としてはこれらのことを知っていたのだろう。でも今感じている感動は、物事に初めて触れた時の感動に近いとわかる。
「本当に不思議な人。ハルセはどこから来たのかな。もしかしたら私たちがいるところと世界的な規模で違う場所から来たのかもしれないね」
「そうかもしれない。俺は「空」の色すら知らなかった。持ち合わせていた知識では、青いものだと思っていた」
彼女は一瞬目を丸くすると、無邪気な笑みを浮かべる。
「案外空は青かったかもしれないよ。誰かが世界を塗り替えたのかも。もしかしたらピンクが好きな女の子が」
「ロマンチストだな」
記憶喪失の相手に混乱するようなことを言うなんてとんでもない奴だ。若干の呆れを口調に込めて言うと、彼女は何故か誇らしげに返す。
「そういえば私はまだ名乗ってなかったね。私はユメハ。私自分の名前が好きなの。夢をみることは誰にでも認められた唯一の自由だから」
ーーだから、夢をみよう。こんな世界だけど。
彼女の声がいつか聞いた声と重なる。けれどそんなことが些事に思える程、俺は重大な事件に直面していた。
どうやら俺は恋に落ちていた。理由なんて、彼女のその笑顔で十分だった。