第四話
◆ ◆ ◆
「ごめんね、お前は悪くないの、ごめんね……」
血を吐くような、母の悲痛な言葉。
涙を流しながら「ごめんね」と繰り返し、沙季江は孝顕の細い首に絡ませた指に力を込めていく。
「お母さん、もう疲れちゃった。苦しくてたまらない、これ以上は無理。ごめんね孝顕。ごめんね──」
少年は反射的に呼吸をしようとして咳き込んだ。咳き込むと余計に息が足りなくなり、さらに酸素を求めようと無意識に口を開ける。
「お母さんもすぐ行くから、先に行って待っててね。孝顕はいい子だもん、大丈夫だよね?」
息子の首を容赦なく締め上げていくが、異常な心理状態からか腕が震え、指先まで上手く力を伝えられない。長く苦しまないようにもっと力を入れなければと、沙季江は全身を使って呼吸を止めに掛かった。
自分の首を締め上げる華奢な手を掴み振り解こうともがきながらも、少年は奇妙な感動を覚えていた。
興奮で血走り見開かれた母親の瞳に、確かに自分が映っている。
湧きあがる感情に押され、首に巻きつく手から自分の手を離し抵抗を放棄する。身体の力を抜けば、一気に指が食い込んできた。
喉が詰まる息苦しさも、ひりつく様な肺の痛みも、暗くなっていく視界も、全てがどうでもいい。
初めて母さんが僕を見ている。
次第に閉ざされていく視界の中、嬉しくて自然と笑みが零れた。
もう、死んでもいい。
ふつりと意識が途切れた────。
気を失っていたのは僅かな時間のはずだ。
突如激しく咳き込んだかと思うと、孝顕は意識を取り戻した。暫らく咳き込み続け、涙がにじむ目で無意識に周囲を見回す。意識がはっきりしないまま、横たわっていた体を無理やり起こした。視界がぐるぐると揺れていて気持ちが悪い。頭もくらくらした。息をする度に喉と肺が酷く痛む。
耳慣れない物音に気が付いて音がした方向にゆっくりと顔を向けた。
居間の中央、二間続きの部屋の天井を仕切るように走る太い梁から下がる何かの紐に、誰かが首をかけていた。
「お、かあ、さん……?」
小さく吐息の様な声で孝顕が呼ぶ。
「っ……!」
振り向いた沙季江の表情が悲愴から驚き、やがて恐怖へと変化する。
「っぁ、――た、たか、あき……」
息子が床に両手をついて上半身を持ち上げ、虚ろな目でこちらを見つめていた。
動かなくなったはずなのに、確実に殺したはずなのに何故――!
沙季江は一気に混乱する。
「おかあさん……」
「!!」
孝顕が沙季江の元へ向かおうと身じろぎした。
一瞬だった。
びくりと身体をゆらした弾みで、沙季江の足を支えていた丸椅子が倒れた。
◆ ◆ ◆
訳が分らなかった。
死んだはずの自分が生きていて。
代わりに母さんが死んだ。
罰だと思った。
望んではいけない事を望んだゆえの、これは罰だ。
孝顕は改めて思った。自分はあくまでも物。一族の利益のために、ただ言われるままに死ぬまで生きるしかないと。
灰色の御影石に手を伸ばし、そっと表面を撫でてみる。水をかけて掃除をしてからそれ程時間は経っていないのに、既にほんのり熱くなっていた。
沙季江は何かあるたび頭を撫でてくれたのを思い出す。孝顕自身もそうされるのが好きだった。緩やかに優しく触れてくれる手が心地よかった。
「そういう目をするの、あの人と同じね」
一度だけ母に言われた事があった。何が原因かは分らないが珍しく我が儘を言ったのだと思う。中々折れない子供に呆れたのか、ぽつりと零したのだ。
あの言葉の裏にどれ程の重さが込められていたか、想像することすら出来ない。
どれ程の苦悩を抱えながら、母は自分に接していたのだろう。憎みこそすれ愛してもいないであろう男の子供を……。
いや、愛情はなくとも差し伸べられた手は幻ではない。
事実があればいい。
母が育ててくれた事実があれば。
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