三ノ怪
紫さんの言いたいことは分かる。だけど、それじゃあわたしは、せっかく手に入れた自分を守る力を手放さなくてはいけないのだろうか。
また前のように無理やり自分の中から光を作り出して、妖怪たちの力に怯え、いつ自分が妖怪の仲間入りをするのかとビクビクしながら暮らさないといけないと言うのだろうか。
「紫さんは……他の妖怪たちは、わたしに退魔の剣を捨てさせたいんですか?」
「光ある人間が持っているのは危険ですからね。いつ自分に向けられるか分からない物がそばに居るとしたら皆気が気ではありません」
「そうですか……」
子鬼たちからしたら、自分達の仕事場にライフルを持った凶悪犯が住み着いているようなものになるのかな。
だとしたらここまで批難されても仕方ないけれど……でも、それでも退魔の力が無くなるのは、やっぱり怖い。
「御姫さん。最近の鬼様とはどうなのですか?」
「え?」
「仲はどうです?」
随分いきなり話が変わったけど。
戸惑いつつ、わたしは何度か頷いて口を開いた。
「前よりは多分、良くなったと思います。こう、信用されているような気がして。うまく一緒にいられる気がするんです」
退魔の剣をわたしに持たせてくれたのが、何よりの証拠だと思っている。瞳の灰梅が消えてしまったせいで嫌な顔をされることはあるけど、それでも幾らか良い関係にはなったと思っている。
それがわたしの勘違いなら、間違いなく色々な意味で肩を落としてしまうが。
「それでは御姫さんは鬼様の雀は、お辞めにはなられていないんですね?」
「え?」
口から自然と聞き返すような声が漏れた。
向かいに座る煙がゆらりと揺らめくと、無い眼差しをわたしに向けてくる。
「貴女様は鬼様の雀ですよ。いくら瞳の梅が枯れたといっても、その事実は変わりません。人の寿命が消えたことも、変わりはしません」
人の寿命……。嫌なことを思い出してまた気分が暗くなる。
頭によぎる銀色の波間が浮かぶが、すぐに振り払った。
「えぇもちろん、お酌は今まで通り変わらずしますよ。逃げようだとか反抗しようだなんて思っていません」
最近は鬼さんに会ってもすぐいなくなってしまうから、お酌をする事はなかったけれど。
一度籠に来てお酌をするように言われたが、すぐに呼び出しを受けて怒りながら部屋を出て行ったことがあった。
その時はよほどイライラしていたのか、お酒が飲めなくて残念だったのか。去り際に持っていたお猪口を壁へぶん投げて壊してしいった。そして誰も掃除には来れなかったから、そのお猪口の破片はわたしが片付けたんだった。
あの時は一瞬ヒヤッとしたな……
鬼さん怒ると怖いから。
また鬼さんの身辺が近いうちに落ち着いてくれば、お酌も再開されるだろう。その時には、今度こそ穏やかな時間になって欲しい。
「いえ。そうではないのです」
鬼さんの怒った顔を思い出していると、静かに紫さんが声をかけてきた。
「違うんですか?」
「はい」
なんだろうと首を傾げれば、紫さんは急に姿を霧散して鏡台の近くに寄った。
ただそこの引き出しに退魔の剣の気配を感じ取ったのか、すぐに上の方へと位置を変えてわたしを呼んだ。
やっぱり紫さんも嫌なものは嫌なんだ。今度鬼さんに相談して、もっと退魔の気配を抑える鞘を貰えないか聞いてみよう。
毎回来てくれる紫さんにこれ以上迷惑をかけられないし、不愉快にさせるわけにいかないから。
「鏡をご覧下さい」
鏡を?
訝しんで、それでも言われるがまま鏡の前に座った。
そこに映し出されたのは少し顔が強ばった自分の顔が映っていた。若干引きつっているのはさっき紫さんにキツく言われたせいだろう。
「今の御姫さんは灰梅も無い、ただの人間です。ですが、忘れてはいけません。貴女様は鬼様の雀だということに」
「鬼の雀……」
紫さんにこう言われるのはこれが初めてではない。寧ろよく言い聞かされてきた言葉だ。
どうしても鬼さんを受け入れられないでいるのなら、自分は今だけ鬼の雀なのだと言い聞かせて、鬼さんがいない時は人間としての自分に戻ればいいと。
確かに鬼さんとの仲は前に比べれば良い方向へ進んだ……かどうかは分からないけれど、悪い方へ向かうのは止まった気がする。
そしてこのまま上手に付き合っていければ良いとも思っている。
鬼さんがあのとき退魔の剣を持たせてくれた時から、下向きばかりだった信頼関係は少しだけ修復された。
ただ上向きになったのかと聞かれたら、頷けないのも事実なのだが。
そして……ただ一つ、問題があった。
それさえ除けば、わたしと鬼さんはずっと長く良い関係を保っていけると思っているのだけれど……
「思い出されましたか?」
上から降ってきた声に顔を上へ向けた。
ふよふよと雲のように浮かぶ煙に目を向けたあと、また鏡の自分を見つめた。
「忘れていたわけではないです……でも、もしかしたら」
そこまで言って、言うのをやめた。
きっと言えばせっかく怒りを鎮めた紫さんを、また怒らせてしまうから。
「なんです?」
「いいえ何でもないです。分かってますから」
「どの様に?」
紫さんこの話題になると結構食い下がってくるのよね。
胃が痛くなるのを堪えて、わたしは言葉を探した。
「その、慣れるように……」
そんな時は永遠にこないと思うけど。
実際さっきだって拒絶反応が起きたぐらいなんだから。
「その時はいつ来るんでしょうね」
嫌味で返されて思わず溜息を吐きたくなった。こればかりはどうしようもないのに。
でも紫さんだってわたしの鬼さんに対する言動や態度が命の存亡に関わるのだから、特別厳しくなるのも仕方がないのだろうけれども。
色々と理屈やどうすべきかは頭では分かっている。分かっているんだけれど、気持ちが付いていかない。
せっかく鬼さんと上手くやれそうな兆しが見えたのに、今度はその周りの妖怪達から反発を受ける事になるだなんて。
どうしてこうも上手くいかないの?
キリキリと本格的に痛み始めた胃が苦しくて、手をお腹の辺りにやって握り締める。
苦しい……
ギュッと目を閉じて、奥歯を噛み締めた。
俯いて顔を隠すようにし、次に来るであろう棘のある言葉に身構えた。
きっと次々と辛辣な言葉が飛んでくる。わたしが鬼さんを不機嫌にさせる度に、怒られるのは紫さんなのだから。
だから小言やキツイ言葉を投げつけられるのは当然だ。暴力や嫌がらせではないだけマシだと思わなければ。
だって、魚さんの時は――……
「どうされたのです?」
ギョッとして目を見開いた。
今の頭を掠めた光景もそうだが、聞こえた声が女の人の声だったからだ。紫さんの、男性独特の低い声ではなく、女性の声。
「苦しいのですか?」
目の前には誰もいない。紫さんもいない。
何が起こっているんだろうと目だけを動かすと、畳の上に小さな影があった。
「……え?」
畳の上には雀が一羽いた。ただ普通の雀ではなく、梅模様の可愛らしい着物を着た、昔話の挿絵にでも載っていそうな雀だった。
つぶらな瞳をくりくりとさせ、小さな簪をつけてわたしを見上げている。
いつの間に……
呆然として一瞬固まってしまう。
が、すぐに我に返って紫さんの姿を探した。
「む、紫さんは……」
ぐるりと部屋の中、籠の中を見回すが誰もいない。どうなっているんだろう。そもそも、この雀はどうやってこの籠の中に入ってきたんだろう。
あれから鬼さんのお屋敷はわたしのせいもあってピリピリしているんだ。誰かが以前のように簡単に出入りは出来ない。
しかも今は紫さんだって一緒にいたんだ。紫さんを一瞬にして追い出して、気づかれずにわたしの目の前に座るだなんて流石に無理がある。
……いや。待って。
だとしたら、これはもしかして、紫さんのイタズラ?
実際何度かわたしを化かして喜んでいる節があった。
妖怪は人間を化かすのが好きだからという、そんな子供じみた理由で、驚いて戸惑うわたしを楽しそうに笑って見ていた。
この目の前の雀が紫さんが化けた物だとするなら、合点がいく。
「あのー、紫さん」
「はい?」
「そういうイタズラはやめて下さい」
「イタズラ?」
ちょこんと座っている姿はとても可愛い。小首を傾げるともっと可愛い。思わず手が出て両手に乗せたくなる衝動が起きるが、そうすると紫さんの思うツボだ。
「雀に化けるだなんて、嫌味ですか」
「雀? わたしは鬼様の雀ですが?」
これにはムッとした。
そんな可愛い姿で一番嫌な嫌がらせをするなんて意地が悪い。悪すぎる。
「もう分かりましたから。ちゃんとしますから、その格好はやめて下さい」
「さて。何のことでしょう」
「……あの、本当にごめんなさい。紫さんに迷惑をかけてるのは分かってます。これからは紫さんに迷惑がかからないようにします。鬼さんとの事も、時間がかかるかもしれませんが、紫さんが納得できるように努力しますから。……ですからその姿は、もうやめて下さい。お願いです」
「さて、一体何のことでしょうか」
努めて丁寧に言ったつもりだったのだが、当の本人はそんなもの知らないとでも言いたげに、しれっと言ってのけた。
「いえですから。ちゃんと鬼さんのお付き合いはきちんとしますから。ちゃんと考えますから。そんな意地悪しないで下さい」
「わたしは鬼様の雀です。鬼様だけに鳴いて、愛でてもらうのが幸せなのです。それがお勤めであり頂いたお役目なのです」
スーっと冷たいものが頭の芯と背中を走った。
ワナワナと両手の拳が震えだした。
「……分かりましたから……もう、やめて下さい」
「わたしは鬼様の雀なのです」
「……紫さん」
「あなたは誰ですか?」
一気に体が熱くなった。
紫さんに対する申し訳なさも怖さも、全部吹っ飛んで立ち上がった。
「いい加減にしてくださいっ!」
そう言いたいのは本来紫さんの方なのかもしれないが、そんな事はもうこの際どうでもいい! こんな喧嘩売られたのなら黙ってられない!
立ち上がって先を言おうとしたが、畳の上には誰もいなかった。
「……はっ?」
怒鳴りつける相手がおらず、怒り心頭な状態でたっていると、真正面の気配に気がついて視線をそちらへ投げる。
そこにはやっと元の姿に戻った紫さんが定まらない姿で宙に浮いて、なんの反応も見せずにいた。
「……言いたいことがあるならハッキリ言えば良いんじゃないですか」
まだ頭に血がのぼっているのか、熱く感じる。
目と鼻の先にある煙の塊に睨みつけるが、先ほど同様何も返っては来ない。
「無視したいならどうぞ。鬼さんにでも言い付ければいいです。……もう怒られても構いませんよ」
「御姫さん」
「何ですかっ!?」
思わず怒鳴り返してしまい、慌てて口を噤んだ。
流石に態度が悪い。そう思った途端に、急に強気な気持ちは失せて言って、妙にイライラした気持ちだけが残ってしまった。
「……すいませんでした」
こんな投げやりな謝罪をされても納得できる人はいないだろう。
それでも今の自分にはこれが精一杯だった。
体の震えが止まらない。
一度付いた怒りが収まらない。
紫さんに背中を向けて、わたしは自分を抱き抱えるようにして口を結んだ。こうでもしないとまた暴言を吐いてしまいそうで嫌だったから。
「御姫さん。本日はこれにて、失礼させて頂きますね」
しばらくして背後から紫さんの抑揚のない声が聞こえてきた。
わたしは声が出ず、ただ頷いた。
反抗的な態度だと怒られるかとも思ったが、なんの音もなく振り返れば、今度こそ誰もいなくなっていた。
籠の中で一人になったと実感できた瞬間に、わたしはその場で座り込んで溢れてきた涙を拭った。
鬼さんとうまく暮らしていけるかと思っていたのに。そう思いながら常闇に戻ってきたのに。
どうしてうまくいかないんだろう。
わたしのしていることは、望んでいることは、異質で身勝手で、許されない事なのかな。
妖怪の世界では人であっても光を求めてはいけなかったのかな。
痛み出した頭を抱えてわたしはまた強く瞼を閉じた。